アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

513 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第43代 伏見天皇

2019-01-23 17:41:12 | 日記

㊸ 平安京 43代 通算92代 伏見天皇(持明院統)

 「伏見天皇」の画像検索結果

在位 1287年~1298

業績(事件) 幕府の調停

父   後深草天皇 

別称  持明院殿

死因  病死

御陵 深草北陵

宝算 53歳

伏見天皇は、皇太子に自らの息子の後伏見天皇を指名し、実父の後深草の院政と合わせて「わが世の春」であったと言える。しかし、在任中に大事件が二つ発生する。

まず、宮中で天皇の命を狙う騒乱がおこる。源氏の武将、浅原為頼(いかにも源氏の名だ)が、御所の右衛門陣より乱入し、中宮はじめ女官たちが逃げ惑い天皇も女装して逃げるという騒ぎとなり、最後は為頼が壮絶な自刃を遂げるという事件があった。背景には、大覚寺統の関与が発覚し、しかも亀山上皇が背景にあるのではという噂が広まる。しかし、亀山院が誓書を書き沙汰止みとなる。(嘘でも何でも誓書「熊野誓詞」を書けば信じられた時代)誓詞を差し出しそれが虚偽ならばたちまち狂い死にすると信じられていた。

また、伏見天皇側近で持明院統におけるブレーンの京極為兼が追放される事件が起こる。京極家は、御堂関白藤原道長を祖とする宮中歌壇に君臨した御子左家(みこひだりけ)の、西園寺家、冷泉家、二条家などと並ぶ名家の一つである。最初は、西園寺實兼に使えるが、その後皇子時代の伏見天皇に歌の指南で仕える。万葉集への回帰を主導し、二条家とは対立するが伏見天皇の支援を得て歌道だけでなく、政治的にも実権を握る。しかし、以前の師匠西園寺實兼が、大覚寺統であった事から、その反感を買って土佐に流される。

以上の二つの事件は、いずれも両統の対立が背景にあり、表面上は持明院統の世の中だったが、水面下での応酬は激しいものだったと分かる。伏見天皇は、自ら「13箇条の新制」を発布するなど、政道刷新に努めるが皇統の統一を見ぬまま崩御し、深草北陵に葬られた。


512 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第42代 後宇多天皇

2019-01-23 09:03:59 | 日記

㊷ 平安京 42代 通算91代 後宇多天皇(大覚寺統)

 「後宇多天皇」の画像検索結果

在位 1274年~1287

業績(事件) 元寇(蒙古襲来)

父   亀山天皇 

別称  大覚寺殿

死因  病死

御陵 蓮華峯寺陵

宝算 58歳

 

後嵯峨天皇から、両統の争いが始まった。後宇多天皇の立ち位置は明確だ。父、亀山天皇が非常に両親に好かれた事で、その兄である後深草上皇の皇子を差し置いて即位した。因みに、後宇多天皇の最愛の皇后は、その叔父後深草天皇の皇女を頂いている。つまりは従妹の婚姻だが古代は当たり前のことだ。両統融和の意図があったのか、いずれにしてもまだ両統の争いもそう激しくない時代だった。また、在位中の大事件に「元寇」がある。普通、元寇の時の天皇は誰だか分からないが、執権は有名な北条得宗家の時宗である。

御承知の通り「神風」が吹き「元」と「高麗」の連合軍を二度にわたり撃破した。結果、鎌倉幕府の結束を強めたが、その後の国防費がかさみ御家人たちの不満が募り衰退することにもなる。

後宇多天皇は上皇として2度院政を敷く。大覚寺統の後二条・後醍醐天皇の時代の11年間院政を行う。そして後醍醐天皇の親政により院政を停止した。その後、しばらく院政は歴史から消える事になる。最愛の中宮(遊義門院)に先立たれ、失意のうちに崩御し、蓮華峰寺陵(北嵯峨)に葬られる。因みに、かつての宇多天皇の子が醍醐天皇、その子が村上天皇だったので、後宇多天皇の後は、後醍醐~後村上となる。筆者は、後醍醐天皇は即位当初から天皇親政を目指していた為、諡号は生前から「後醍醐」と決めていたと考えていたのに・・・・。