㊸ 平安京 43代 通算92代 伏見天皇(持明院統)
在位 1287年~1298年
業績(事件) 幕府の調停
父 後深草天皇
別称 持明院殿
死因 病死
御陵 深草北陵
宝算 53歳
伏見天皇は、皇太子に自らの息子の後伏見天皇を指名し、実父の後深草の院政と合わせて「わが世の春」であったと言える。しかし、在任中に大事件が二つ発生する。
まず、宮中で天皇の命を狙う騒乱がおこる。源氏の武将、浅原為頼(いかにも源氏の名だ)が、御所の右衛門陣より乱入し、中宮はじめ女官たちが逃げ惑い天皇も女装して逃げるという騒ぎとなり、最後は為頼が壮絶な自刃を遂げるという事件があった。背景には、大覚寺統の関与が発覚し、しかも亀山上皇が背景にあるのではという噂が広まる。しかし、亀山院が誓書を書き沙汰止みとなる。(嘘でも何でも誓書「熊野誓詞」を書けば信じられた時代)誓詞を差し出しそれが虚偽ならばたちまち狂い死にすると信じられていた。
また、伏見天皇側近で持明院統におけるブレーンの京極為兼が追放される事件が起こる。京極家は、御堂関白藤原道長を祖とする宮中歌壇に君臨した御子左家(みこひだりけ)の、西園寺家、冷泉家、二条家などと並ぶ名家の一つである。最初は、西園寺實兼に使えるが、その後皇子時代の伏見天皇に歌の指南で仕える。万葉集への回帰を主導し、二条家とは対立するが伏見天皇の支援を得て歌道だけでなく、政治的にも実権を握る。しかし、以前の師匠西園寺實兼が、大覚寺統であった事から、その反感を買って土佐に流される。
以上の二つの事件は、いずれも両統の対立が背景にあり、表面上は持明院統の世の中だったが、水面下での応酬は激しいものだったと分かる。伏見天皇は、自ら「13箇条の新制」を発布するなど、政道刷新に努めるが皇統の統一を見ぬまま崩御し、深草北陵に葬られた。