アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

499・500合併回 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第29代 二条天皇 第30代 六条天皇

2019-01-15 09:08:45 | 日記

㉙ 平安京 29代 通算78代 二条天皇

「二条天皇」の画像検索結果

在位 1158年~1165

業績(事件) 平治の乱から平家全盛へ

父   後白河天皇 

別称  特になし

死因  病死(赤痢)

御陵 香隆寺陵

宝算 23歳

㉚ 平安京 30代 通算79代 六条天皇

「六条天皇」の画像検索結果

在位 1165年~1168

業績(事件) 平家全盛へ

父   二条天皇 

別称  特になし

死因  病死(痘瘡)

御陵 清閑寺陵

宝算 13歳

ここまで、白河・堀河・鳥羽・崇徳・近衛・後白河と大物が目白押しだった。ここからは源氏・平家の武将が絡んで複雑怪奇に展開する。

今回は、二条天皇と六条天皇を同時に取り上げる。この親子は、父二条は15歳で即位、23歳で崩御。子の六条は、2歳で即位、13歳で元服もせず崩御している。このお二人を書くにあたって「平治の乱」に触れざるを得ない。保元・平治の乱は、もともと複雑怪奇ではあるが特に平治の乱は、結局源義朝VS平清盛という事になるのだが、途中は誠に難しい。きっかけは、二条天皇VS後白河上皇から始まる。実の親子ではあるが、仲が良くなかった。理由は、早くに実母を無くした二条天皇は祖父鳥羽天皇の寵姫、美福門院のもとで育てられた。従って、鳥羽・美福門院のお二人は、その二条天皇の即位を強く望んでいた。今様など遊びばかりの放蕩息子の後白河に愛情はわかなかった。いきなり孫への譲位はあり得ず、仕方なくつなぎに後白河天皇が誕生した。この瞬間、次期天皇が約束されている二条天皇派閥と、そうは言っても現在の天皇の後白河派閥に分かれて争った。(諡号は亡くなってからの名前だが分かりにくいので後白河・二条など後世の名前で書く。)そして二条天皇が即位し、従って後白河上皇院政時代になり一層複雑な構図を生む。藤原信西入道の台頭だ。身分は低いものの有能な信西への反発も強く。彼を排除するために、一時的に二条天皇派閥と後白河派閥が手を組む。その中で藤原信頼と源義朝が登場する。ここから戦闘が始まるが、よく分からない。二人は信西を地中に埋めてのこぎり引きにする、上皇・天皇を軟禁するなどと言う暴挙に出る。この時平清盛は熊野詣の道中にいた為に、翌日報告を受けて京に戻る。しかし、御所内には上皇・天皇共々確保されているので手が出せない。兵力に勝る平家と、兵力に劣るものの御所に立てこもる信頼・義朝との対立関係に・・・・・。ここに、藤原惟方・経宗が登場する。二条天皇派の二人は清盛と手を組み二条天皇を救う。同時に後白河上皇も脱出に成功し、万事窮す。義朝と信頼は朝敵となった。結果、六波羅に二条天皇をお迎えした清盛の大勝利となり、平家の時代がやって来る。

その為、熊野詣では陰謀だったとする説がある。歴史を後から見て一番得した人間が行った策略と言いたいのだが、この時点では、清盛の政権基盤が盤石とは言えず、薄氷を踏む思いで京都に戻ったと言うのが真相だろう。本能寺の変の後、秀吉が「中国大返し」した時に似ている。

話を二条天皇に戻す。このような経緯で天皇親政を目指すが、後白河上皇の政治手腕は凄まじく二条天皇に出番はなかった。病弱の天皇は、病に倒れすぐに幼少の六条天皇に譲位をさせられ崩御。子の六条天皇も平家に近い高倉天皇にすぐ譲位させられ、史上最年少の上皇となる。遂に、お二人の血統はつなげられず断絶することになる。

何とも悲しい結末だ。「神皇正統記」にも、お二人の功績に関する記載はなく。平治の乱の解説に終始している。