アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

504・505合併回 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第34代 土御門天皇 第35代 順徳天皇

2019-01-17 12:07:32 | 日記

㉞ 平安京 34代 通算83代 土御門天皇

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在位 1198年~1210

業績(事件) 承久の変に慎重姿勢

父   後鳥羽天皇 

別称  土佐院、阿波院

死因  不明

御陵 金原陵

宝算 37歳

㉟ 平安京 35代 通算84代 順徳天皇

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在位 1210年~1221

業績(事件) 承久の変に積極姿勢

父   後鳥羽天皇 

別称  佐渡院

死因  自害

御陵 大原陵

宝算 46歳

 

 

今回は、偉大なる父天皇を持つ二人の天皇を同時に取り上げる。異母兄弟ではあるが、性格が全く違った。極めて温和な性格で世情に疎い兄と、何事にも聡明で激しい気性の弟であった。当然後鳥羽上皇の寵愛は弟順徳帝に向く。まず、時代背景を確認する。頼朝の鎌倉幕府の発足は、極めて危うく頼朝の死と共に大混乱に陥る。2代将軍頼家の政務停止、その後の北条氏の権力争い。そして、頼家も3代実朝も暗殺で命を落とす。一方、宗教界も比叡山の寺門派、山門派の争い、新興勢力の法然や親鸞の台頭では「建永の法難」により遠島処分に至る。禅宗では、栄西が建仁寺を創建している。また、文化的には、藤原定家が歌壇のトップに君臨し、彫刻師では運慶・快慶の全盛期でもあった。あらゆる事が、平安の太平から源氏平家の戦乱を越えて、転換期を迎えていた。

天皇史には、突然誠に正直な善人の天皇が出現する。土御門天皇は、承久の変では主役ではない。父後鳥羽上皇と弟順徳天皇のお二人に従っただけだ。しかし自ら遠島を申し出て土佐に流された。父の隠岐、弟の佐渡と比べれば温暖な地で、その後阿波・鳴門に移る。世間はその境遇からいずれ許されて還幸するとのうわさが常にあった。しかしその様な過酷な状況でも旺盛な生殖活動の結果21人以上の皇女・皇子を残している。しかし、遂に都の地を踏むことはなかった。御陵も都に遠く現在の長岡京市の金原陵に葬られている。別名、土佐院・阿波院ともいう。

一方順徳天皇の治世は同時に父後鳥羽上皇の院政時になるが。自らも「禁秘抄」を著すなど積極的に宮中儀式の定式化(今で言うマニュアル化)に尽力した。倒幕を考えていただけではなかった。また、藤原定家との交流も深く、百人一首の最後は、順徳院の「百敷(ももしき)や古(ふる)き軒端(のきば)のしのぶにも猶(なほ)あまりある昔(むかし)なりけり」である。因みに、第1番の 天智天皇「秋(あき)の田(た)のかりほの庵(いほ)のとまをあらみわが衣手(ころもで)は露(つゆ)にぬれつつは、あまりに有名だ。順徳天皇は、承久の変の第二の首謀者で、佐渡への遠島は仕方がない事であった。20年に及ぶ長い長い隠遁生活であった。最後は自害とも言われる。新潟の地で火葬された後、大原に葬られる。


503 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第33代 後鳥羽天皇

2019-01-17 08:43:01 | 日記

82代 後鳥羽天皇 三種の神器が揃わず即位?

㉝ 平安京 33代 通算82代 後鳥羽天皇

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在位 1185年(1183年)~1198

業績(事件) 承久の変

父   高倉天皇 

別称  隠岐院

死因  病死

御陵 大原陵

宝算 60歳

 

大物の登場だ。まずは、神皇正統記から見てみよう。後白河法皇は、高倉院の第四子である尊成親王を選んだ訳だが、第三皇子もいる中での抜擢であった事。そして、平家の滅亡に際し追随する公家は皆無であった事、木曽義仲が六波羅を攻めたものの神意に背き滅びた事、頼朝の勲功は歴史上稀な事で再三の辞退にも関わらず征夷大将軍に任じられた事などが書かれている。

そして、安徳天皇入水の為、「三種の神器」がない中での即位だったが、「法皇の詔」をもってそこに正統性があることを強調している。三種の神器とは、八坂の勾玉・草薙の剣・そして八咫鏡であるが、天皇がその正当性を証明する為に、身近に所持する「しるし」(お宝)である。「天皇が保有するが故に神器」なのか「神器を持つ者が天皇」なのか。議論が分かれるが、そもそも八咫鏡は、伊勢神宮の御神体として古来からのものは伊勢に現存している。また、熱田神宮所有の草薙の剣が、ヤマトタケルノミコト由来の剣である。従って天皇の手元にあるのは、御魂遷しを経た「形代(レプリカ)」である。さらに、勾玉は安徳帝入水の時に箱ごと浮かび上がった為古来のものがそのまま伝承されている。(諸説あります)

その後、後醍醐天皇が神器を吉野に持ち去り「北朝の神器は偽物だ」と宣言したこともあった。北朝がその後取り返したものの、南朝の反撃で北朝後半3代は神器不在の即位を余儀なくされた事もあった。北畠親房や後醍醐天皇は、血統と同様に三種の神器を重要視した訳だが、すでに後鳥羽天皇の時代に神器なしの例があったのである。

謀反人と言われた天皇が、二人いる。後鳥羽天皇と後醍醐天皇だが、本来「謀反」というのは、主上に対して裏切ることだ。日本の国の主上とは天皇その人だ。その天皇が臣下の幕府に対して謀反とは本来使う言葉ではない。

従って「天皇ご謀反」とは、大いなる矛盾となる。その謀反を企て敗れたのが、後鳥羽天皇(乱のときは上皇)である。歴史を後から見ると、無謀に見えるが実はチャンスもあった。鎌倉幕府成立直後の源氏の混乱は気の毒なほどだった。頼朝・義経の兄弟対決から始まり、呪われたように落馬で命を落とした頼朝の後は、2代頼家・3代実朝と人材に恵まれず二人とも暗殺で命を落とす。一方、執権北条家も政子の存在がかろうじて重しとなっているが、義政・義時の親子不和もあって誠に不安定だった。この時点ではまだ北条家も数ある御家人の筆頭に過ぎなかった。

事変は、幕府から後鳥羽天皇の皇子に4代将軍を請う事から始まる。後鳥羽帝が「朝廷の東西分裂を恐れた。」と言われるが、すでにその時には倒幕を目論んでいたのだ。承久35月「執権北条義時追討の院宣」を発することで乱が勃発する。しかし翌6月早くも幕府軍が上洛している。いかに迅速に動いたか、途中多くの頼朝恩顧の武将たちが駆け集まったかという事だ。その陰には、頼朝未亡人政子が「頼朝の厚恩」を涙ながらに御家人に訴えたことが伝えられるが、真の功労者は、いち早くこの動きを鎌倉に伝えた西園寺公経という人である。藤原北家閑院流の公家で摂関家に次ぐ家柄で「清華家」という。乱後この功績を北条家に評価され、摂関家筆頭の九条家をしのぎ朝廷の実権を奪う事になる。

7月には早くも処分が実行され3上皇が島流しにされる。前後3か月の短い政変であった。世は急速に北条得宗家(長男継承の本家)の時代になって行く。

一方、後鳥羽院は、有能な歌人でもあった。まさに中世屈指の歌人であった。後白河の血筋を引いて権謀と文化の才能を備えていた。藤原定家の歌風に憧れ師事した。1200年頃に開いた歌会では、式子内親王(後白河皇女)・藤原俊成・慈円・寂蓮・藤原定家・藤原家隆など当代屈指の歌人たちが集まった。特に、九条家の御子左家系の歌人に詠進(宮中に歌を奉る事)させている。翌年、勅撰集の選定を思い立つ。すぐに和歌所を再興し、14名の最高の歌人を集め未曽有の大規模な歌合せを主宰し、その後有名な「新古今和歌集」の選進をさせた。藤原定家を主宰にしたが、定家の日記「明月記」には、後鳥羽自らが、選歌・配列などに深く関わり実質的には後鳥羽院が選者そのものだったことが分かる。また、貞成親王の日記「看聞日記」では、後鳥羽院がお忍びで「銭を掛けて」連歌の会に出向いたことが記されている。その表現では「見苦しい」と書かれている。

後鳥羽院「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」

しかし政治的な評価は散々だ。院政を行い祖父後白河の死後は、「治天の君」として、兄の土御門を退位させ弟の順徳に即位させるなど、強引さが目立ち公家たちには不評もあったようだ。承久の変についても賛成する公家は少なく、乱の後は愚管抄などで、「院が覇道的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった。」と、手厳しい。また、後鳥羽院も死後は立派な?「怨霊」になっている。「万が一にもこの世の妄念にひかれて魔縁となることがあれば、この世に災いをもたらすだろう。」との置き文を残している。しばらく後鳥羽院の直系は皇位につけなかった。後世、後鳥羽天皇直系に戻り、後嵯峨天皇の世になり、ようやく菩提を弔う動きがあった。それまで幕府の重鎮が死ぬと「後鳥羽の怨霊の仕業」と信じていたからだ。現在も評価が分かれる天皇のおひとりだ。

なお、隠岐での隠棲時も含め、20名以上の皇女・皇子を残している。精力絶倫は言うまでもない。御子の一人は「日蓮」という説がある。(諸説あります。)