アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

507 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第37代 後堀河天皇

2019-01-18 15:25:33 | 日記

㊲ 平安京 37代 通算86代 後堀河天皇

 「後堀河」の画像検索結果

在位 1221年~1232

業績(事件) 皇室衰退の始まり

父   守貞親王 

別称  別になし

死因  病死

御陵 観音寺陵

宝算 22歳

 承久の変の事件処理の真っただ中の即位であった。当代の天皇始め3人の上皇が揃って「謀反」を起こしたのだから異常な事態であった。

ここでも天皇を空位には出来ない。後白河上皇の皇子である高倉天皇のそのまた皇子の中で、皇位につけなかった守貞親王が唯一存在していた。結果的に、その子後堀河天皇の登場だ。

母は、持明院棟子。その母は、頼朝の命を救った池禅尼の娘だ。つまり幕府の恩人の子孫なのだ。父も頼朝の姻戚関係者だ。多少無理はあるが、血統の中でも比較的親幕府派の天皇であった。また鎌倉幕府の執権は、得宗家北条泰時で最も安定した時代だ。残念ながらこの天皇も後世に継がれるような功績はない。すぐ四条天皇に譲位するが、院政も2年足らず、窮屈な一生を送ったに違いない。諡号を後堀河、父(守貞親王)には後高倉の追号を贈る。

神皇正統記には、天皇にならなかったがその子が即位した事で、追号を贈られた例を列挙している。文武天皇の父草壁に長岡天皇。淳仁天皇(淡路廃帝)の父(舎人親王)に儘敬天皇。光仁帝の父には田原天皇。また、早良親王には怨霊を恐れてご自身に崇道天皇を贈っている。いずれも事情があり歴代天皇には入らない。後堀川天皇については残念ながら神皇正統記にも功績は書かれていない。

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506 アチャコの京都日誌 平安京天皇史 平安京 第36代 仲恭天皇 

2019-01-18 09:18:48 | 日記

㊱ 平安京 36代 通算85代 仲恭天皇

「仲恭天皇」の画像検索結果

 

在位 1221年~1221

業績(事件) 廃帝

父   順徳天皇 

別称  九条廃帝

死因  ?

御陵 九条陵

宝算 16歳

 

この天皇は誠に気の毒だ。別称が、九条廃帝、後廃帝、はたまた半帝と呼ばれる。

先代の順徳天皇が、父後鳥羽上皇の倒幕の実行により急遽譲位した結果即位したのだ。即位したのかどうかも不確かだ。即位の礼も大嘗祭も行われた記録はない。当然、乱後、幕府の命により退位・譲位させられた。無論3歳の幼児ではすべてが自らの判断ではない。

ここまで摂関家の九条家がバックにいたが、倒幕の計画を西園寺公経が密告した事から、これより摂関家の外にあった(精華家)西園寺家の時代が来る。勿論すべて藤原氏の流れではあるが・・・。

承久の変を「神皇正統記」は、どう書いているか。後白河法皇の時代以降政権が乱れたが、源頼朝が戦乱の無い世の中に統一した。臣下ではあるが、頼朝の威光が天下を治めたのだと言い、その後頼朝の妻政子及び、北条家などの陪臣が政治を専横したが、倒幕はまだ神意に基づくものではなかったと言っている。つまり、後鳥羽院は世間(神意)を読み誤ったと断じている。一方、後日倒幕に成功する後醍醐天皇は、誠に思慮深く正統な天皇として、世の中を天皇親政に導いたと絶賛している。

仲恭天皇については、一行のみ。

『廃帝。懐成親王、順徳院の太子。御母は東一条院藤原立子で、故摂政太政大臣良経の娘。』

と、だけ書かれているのみである。

平家と共に、瀬戸の海に身を沈めた安徳天皇もそうだが、幼くして自分の判断ではなく政治にほんろうされた天皇だった。ただし、お種は残しておられる。16歳で亡くなる直前おひとりだけ皇女を残している。男子の証、生殖のお勤めは果たしていた。せめてもの救いだ。

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