美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

成島毘沙門堂の巨像を見た

2015-06-14 09:22:43 | レビュー/感想
「萬鉄五郎美術館」を見た後、次の目的地花巻に向かおうと釜石道の東和ICの入り口直前まで来て、ふと、道路際の案内看板を見ると、成島毘沙門堂とある。瞬間、かって写真で見た巨大な像が目に浮かんだ。40年近く前唐木順三の著作「あづまみちのく」を読んで以来、いつか見たいと思っていた毘沙門天像だった。それがこの近くにあるなら、予定を変えて見るにしくはない。道なりに続く土地の人の寄進した灯籠を道案内に、くだんの毘沙門堂へはあっという間についた。

境内に入って坂を登っていくと、上から老婦人の一団がやってきた。その一人が「やあ、すごいもの見たわ」と、目を丸く見開いて、感に堪えない声を出しながら降りてきた。社の脇の木立に囲まれた薄暗い道を登った奥に、その鞘堂はあった。先ほどの婦人の声を思い出して一瞬ためらったが、中にはいると、薄暗い中、高い天井を突き抜けるばかりに立っている毘沙門天像があった。高さは4.73メートル。一木造の毘沙門天立像の中では日本最大で、国の重要文化財に指定されている。平安時代中期(10世紀末~11世紀初頭)の作だという。中心から右30度ぐらいのところに立つと、目線があって背筋が寒くなった。京都の優れた仏師の手になるであろうと確信させる迫力満点の彫像である。

この像がある三熊野神社は、一説によると、坂上田村麿が奥羽平定を紀伊の熊野三山に祈願し、戦勝後の延暦21年(802年)にこの地に三山の神を勧請して創祀したものという。この彫像自体は、 平安時代中期とされるが、敵味方の違いを超えて崇敬されていた英雄坂上田村麻呂を、四天王の一尊に数えられる北方の守護神、毘沙門天に擬して、彫られたように思われる。材料は土地の巨木であったかもしれない。もっと想像を逞しくすると、土地に住み続けた蝦夷の子孫たちの、自然を畏れる素朴な信仰の対象であったのではないか。それを切り倒し、坂上田村麻呂そっくりの偶像を彫り込み、礼拝の対象とする。そこには武力を背景にした威圧的な意図が感ぜられなくもない。

この像は地天女の肩と掌の上に立つ特殊な像容をとっている。とりわけ気になるのは、ふくよかで逞しい東北の女性を思わせる地天女の目を閉じたその表情に、何の感情も読み取れないところだ。唐木順三は「その無表情な顔は忍従の果てのように映った」と述べる。従来踏み敷かれているはずの二鬼も、地天女を支えるでもなく、両脇にぽつねんと離れ立ち、まるで全てを奪い去られてなすすべもなく膝を折った蝦夷兵士の哀れな姿のようにも見える。

やがてこの地は奥州藤原氏の勢力下に入ることになる。その中心地であった平泉には、何度となく赴いている。確かに金色堂の華麗な装飾が施された阿弥陀堂や諸仏は、京都にある浄土思想を体現した藤原文化の遺産と比べても遜色ない、いやそれに勝るものだと思う。しかし、唐木順三は、京都、鎌倉に拮抗する北方の地の覇者となったとしても、都を基準にした文化でしか権勢を表せなかった清衡の内心を読んで、アンビバレンツな感情と言う。それは今も田舎に住む者が、かえって都会人より流行の最先端を走ってしまうのと似通っている。昔からそうなのかと思うと、中尊寺の華麗な仏像群もどこか脆弱で寂しげな様子をしているように思えてくる。

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