美術の旅人 Voyageur sur l'art  

「美術」との多様な出会い。見たこと、感じたこと、思ったこと。

硲伊之助という画家

2011-10-05 22:40:29 | レビュー/感想
石川県加佐の岬の先端にあるギャラリー、「加佐ノ岬倶楽部」で硲伊之助の作品と出会った。硲伊之助は、画家としてよりはかって愛読していた岩波文庫「ゴッホの手紙」の翻訳者としての印象が強かった。その作品を見る機会はこれまでほとんどなかったが、たまたま加賀での復興展展示会場になった「加佐ノ岬倶楽部」が元硲伊之助美術館であったことから、オーナー宮本昭夫氏のご好意により数点の作品を見ることができた。宮本氏は硲伊之助の作品に惚れ込み、40代で施設職員としての給与をすべてつぎ込んで伊之助の作品を収集し、美術館建設を志した人なのであった。「加佐の岬倶楽部」では宮本氏が次から次へと出して来た実作品や古い画集を目の前にしながら、宮本氏が熱く語る伊之助に関するエピソードを聞くという幸福な時間を過ごさせていただいた。

伊之助の絵を見て、さらに生涯に触れて、この画家は明治大正昭和を通しての日本の近代西洋絵画受容史を、ひとつの錯誤過程として見る見方も含めて、眺め渡すには打ってつけの画家ではないかと直感的に思った。ビッグネームの天才的な画家ではこれはできない。かつて蓮實重彦氏がフローベルの友人「 マクシム・デュ・カン」を通して、近代という時代の空気とそこにおいて一般的に語られる芸術文化とその社会背景を浮き彫りにしたと同じことが、硲伊之助という今や一般には忘れ去られてしまった画家を通してできそうではないか。伝記小説を成立させるに十分な想像力を刺激する魅力的な素材がそこにはたくさん埋まっているように思われた。例えば、彼が生涯にわたって何度も描いている肖像画のモデルを巡る謎。新進美術評論家石塚フミコ(漢字不明)がそのモデルだが、女優で言えばどこか八千草薫に似たふっくらした面立ちとイタリア人と結婚の後、30代で亡くなったいう佳人薄命の生涯が好奇心をくすぐる。

硲はヒュウザン会から一水会まで、著名な美術団体の創立に立ち会った。その生涯をたどれば美術団体を中心とした日本近代美術史ができあがると思うほどだ。戦前フランスに幾度も渡りイタリア系フランス人と結婚、アンリ・マティスとも親交があった。コロー、クールベ、ポールセザンヌ、ヴァン・ゴッホといった近代画家たちの評論を書き、戦後は「マチス展」「ピカソ展」「ブラック展」の開催を企画しその実現に成功する。大正から日米開戦前夜まで、あこがれの芸術の都パリとの間を行き来した万を越える画家たちのトップランナーと言ったら良い画家だったのだろう。

しかし、晩年は東京を離れ、加賀に移り住み九谷焼の色絵に没頭した。これは単に画家の手慰みではない。自ら窯もつくって本格的に九谷焼に取り組んだ。この晩年の変身は何を意味するのだろうか。硲の絵を、とりわけ奥行きや空間の表現を見ると、単に西洋絵画のまねではなく、その精神を深くつかんでいた、日本洋画界では数少ない画家であったことが分かる。晩年中日新聞に連載された「わが半世紀」の最後で硲は日本美術界へいわば三下半をつきつける。「あの日展での事件(談合により入選作を決めようとしたことに怒り、日展を脱退し、日本の洋画壇と決別した事件)をきっかけに、ぼくは日本の美術界のことをつとめて考えないようにしているのです。世界の水準から、はるかに遅れた不思議で特殊な世界と思うばかりで、美術とは無縁のものだ、と諦めています」。精神不在のまま、西洋絵画のコピー技術を権威の柱として、談合的体質の村社会をつくってしまっている画壇への強いいらだちがあったことが伺える。そこから江戸絵画へ回帰した岸田劉生とは違ったかたちで、九谷焼のうちに日本の風土に根ざした普遍的美を求めての晩年の模索も始まったのかもしれない。

写真は宮本昭夫氏所蔵の硲伊之助の風景画。一般的にはセザンヌの影響が言われるのだろうが、私には淡い色彩がイタリア未来派、それもモランディの感じがする。若い頃伊之助が属したヒュウザン会の中心作家、岸田劉生の名作「道路と土手と塀」を思わせるテーマでもある。

「加佐ノ岬倶楽部」 http://www.seegarden.com/cafe_gallery.html

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