わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

最後の大女優・岡田茉莉子の自伝を読む

2010-03-14 18:47:01 | 映画の本

Img211「女優 岡田茉莉子」(文藝春秋刊)は、岡田茉莉子(1933~)が半世紀余りの映画人生を回顧した書き下ろし自伝です。彼女の父親は、サイレント映画時代に日本のルドルフ・ヴァレンチノと称された岡田時彦、母は宝塚歌劇団に在籍した田鶴園子。だが、生まれて間もなく父が亡くなったため、父親の顔は知らないで育った。母は、父親が俳優だったことを隠していたという。茉莉子が女学生のとき、友人と映画館でサイレント映画「瀧の白糸」(33年)を見て、家でその話をすると母は泣き出し、主演の岡田時彦が実の父であることを告白した。父親を知らなかったせいか、茉莉子は人見知りが強く、孤独な少女時代を送った。そのあたりの父親への思いが、人生に陰を落としていくくだりが正直に書かれている。旧姓は田中鞠子。岡田茉莉子という芸名をつけてくれたのは、父親の名付け親でもあった文豪・谷崎潤一郎だった。ジャスミンの花の中国名“茉莉花”から命名されたそうだ。
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 演技者としての岡田茉莉子のこだわりは、「岡田茉莉子を岡田茉莉子である自分自身が演じるという、実現不可能な夢を追い求める」ことだった。1951年にニューフェースとして東宝に入り、成瀬巳喜男監督「舞姫」(51年)でデビュー。だが、美貌と勝気なイメージから、不良少女、芸者といったワンパターンの役柄が多く、与えられた役を必死で演じる自分を、もうひとりの自分が見ているというような心理状態から生まれた願いであった。そんな葛藤の末に、57年にフリーとなり松竹と専属契約、多くのメロドラマに出演し地歩を築く。60年には、かつて父・時彦とコンビを組んでいた、あこがれの監督・小津安二郎の「秋日和」に出演。しかし、それでも、いままで不向きだと思ってきた映画の世界で、人と争ってまで生きるのはイヤという自己嫌悪から、63年頃には引退まで考えたといいます。
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 そうした彼女の心を翻らせたのは、新進監督・吉田喜重の言葉だった-「あなたは、あなた自身の青春をすべて映画に捧げたようなものです。あなた自身の青春を惜しいとは思いませんか」。吉田は当時、大島渚や篠田正浩らとともに松竹ヌーベルバーグと呼ばれた気鋭の監督だった。茉莉子は、この吉田の傑作「秋津温泉」(62年)に主演し、演技者としての地位を不動のものにする。そして、64年に吉田と結婚。66年には、ふたりで現代映画社を設立、二人三脚で「エロス+虐殺」(70年)などの異色作を発表。吉田の斬新な映画作りに心酔した茉莉子は、「岡田茉莉子を岡田茉莉子が演じる」という夢に到達する。映画界が斜陽になった70年代以降は、TVや舞台でも活躍。出演した映画は156作品、舞台公演は68回、TVドラマは147作品だとか。それにしても、出演作品の詳細を物語る記憶力の素晴らしさには感心する。まさに、戦後日本の映画・芸能史を跡づける自伝といっていい。


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