わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

衝撃!豪快なヒューマン・ドラマ「ロープ/戦場の生命線」

2018-02-22 14:05:06 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 スペインの俊英フェルナンド・レオン・デ・アラノアが監督・脚本を手がけた「ロープ/戦場の生命線」(2月10日公開)は、異色のヒューマン・ドラマです。バルカン某国を舞台に、国際援助活動家たちが奮闘する姿を追った異色作。原作は、国境なき医師団に所属する医師でもある作家パウラ・ファリアスの小説。昔からバルカン情勢は不穏で、1990年代にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が起こり、世界を不安に陥れた。そうした地域で困難に陥り、命の危険にさらされながら援助を求める多くの人々。政府や国連など、動きの鈍い巨大組織が手をこまねくなか、いち早く現地に向かい、自らの危険も顧みずに活動を続ける国際援助活動家たち。彼らは、武器を一切持たずに戦う。そんななかで体を張るアウトサイダー的な男女の赤裸々な姿を、スリリング、かつブラック・ユーモアをこめて描いています。
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 1995年、停戦直後のバルカン半島。ある村で井戸に死体が投げ込まれ、生活用水が汚染される。それは、水の密売ビジネスを企む犯罪組織の仕業のようだ。その死体の引き上げを試みるのが、国籍も年齢もバラバラの5人で構成される国際援助活動家“国境なき水と衛生管理団”。メンバーは、リーダーのマンブルゥ(ベニチオ・デル・トロ)、ベテラン職員ビー(ティム・ロビンス)、本部から派遣された査察官カティヤ(オルガ・キュリレンコ)、新人職員ソフィー(メラニー・ティエリー)、現地通訳ダミール(フェジャ・ストゥカン)らだ。だが彼らの試みは、運悪くロープが切れてしまったことから頓挫する。そこでやむなく、武装集団が徘徊し、あちこちに地雷が埋まる危険地帯を、1本のロープを求めてさまよう。だが、村の売店でも国境警備の兵士にも断られ、なかなかロープを手に入れることができない。そんななか、ひとりの少年との出会いがきっかけで衝撃の真実と向き合うことになる…。
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 冒頭、井戸に浮かんでいる死体…不気味だけれど、どこか可笑しさが漂うシーンだ。その死体があまりにも巨漢で、使い古しのロープが切れてしまう。2組にわかれてロープを探しに出発する一行が、まず直面するのが各地に仕掛けられた地雷。道の真ん中に牛の死骸が横たわり、それを動かそうとすると地雷が爆発する仕掛け。一行は、そんなことは御見通し。途中で、銃を所有する不良少年グループに襲われて、サッカーボールを奪われた少年二コラを保護する。さまざまな困難やトラブルが重なり、国連軍への援助要請も受け入れられない。さらに、武装勢力が住民たちに給水車で水を売る場面にも遭遇する。二コラは、ロープを提供するため、自分が住んでいた家に案内する。少年は、山岳地帯に住む祖父に預けられており、両親は消息不明。チームは、二コラの家で確かにロープを発見する。まずは、少年一家が飼っていた猛犬を繋いだロープ。そして、裏庭でもう1本の長いロープを見つける…。
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 そして何よりも、援助隊のメンバーがアウトサイダー的であり、ワイルドで行儀がよくなく、紛争慣れしている点が興味深い。リーダーのマンブルゥは、はみ出し者のような男で直情型。ベテランのビーは破天荒、演じるティム・ロビンスは「活動家にとって、ブラック・ユーモアは気力を失わないために必要なもの」と言う。また、オルガ・キュリレンコ扮するカティヤはウクライナ人で、紛争の調査と分析をになう。ボスニアはじめ紛争地域で援助活動家の姿を記録してきたというアラノア監督は、エチオピアとソマリア国境で、あるオーストラリアの女性業務調整員から聞いたという言葉を、次のように引用している。「彼らの仕事は通常3つのカテゴリーに分けられるという。世界を救うためにその場所を訪れた者、何年も滞在して人道支援を行うプロの活動家、あまりにも長いあいだ戦争から戦争を渡り歩き、自分の属する場所を失った者。この映画は、その3種類の人々を描いている」と。
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 アラノア監督の演出は、パワフルでストレートだ。ロープ探しという一見単純な話だが、戦争の恐怖がジワジワと伝わってくる。小競り合いが続く国連PKO部隊と民兵たち。とりわけ、二コラ少年の両親が死体で見つかる場面に暗澹とさせられる。かつて、キリスト教徒とイスラム教徒が平和に暮らしていた住宅地は、激しい内戦で破壊され廃墟と化している。隣人や知人同士の殺し合い。紛争に巻き込まれた市民にとっては、きわめて身近な悲劇だ。「これは、混沌とした世界に秩序を取り戻すという困難な仕事に立ち向う人々の映画。非合理、失望、家に帰りたい願望といった、戦争とは異なる敵と闘っている人々の営みを描いている」と、アラノア監督は語る。クライマックスでは、反戦ソング「花はどこへ行った」のマレーネ・ディートリッヒ歌唱バージョンが流れる。そしてラスト、PKO部隊に退去を命じられたメンバーの目の前で、井戸に起こる現象がショッキングで爆笑を誘う。(★★★★)


ジョージアからやってきた瑞々しい青春ドラマ「花咲くころ」

2018-02-11 14:20:56 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ジョージア(旧グルジア)から、心が震えるような青春映画がやってきました。ナナ・エクフティミシュヴィリとドイツ出身のジモン・グロス夫妻が監督した「花咲くころ」(2月3日公開)です。だが、単なる甘い青春ドラマではありません。ジョージアは、1991年にソ連邦から独立後、ガムサフルディア初代大統領と反大統領派の対立が、翌年にかけて“トビリシ内戦”と呼ばれる市街戦になった。更に国内の激しい紛争のために、多くの犠牲者、難民が生まれ、社会も経済も壊滅的な打撃を受けて、国内は荒廃したといいます。本作は、そんな時代を背景に、感受性豊かな14歳の少女ふたりの友情と成長していく姿を斬新な感覚でとらえていく。世界の映画祭で、かずかずの受賞を果たしたユニークな青春映画です。
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 1992年春、独立後に起こった内戦のきな臭さが残るジョージアの首都トビリシ。エカとナティアは、境遇は異なるが幼なじみの14歳の少女。父親が刑務所に入っているエカ(リカ・バブルアニ)は、母と姉と暮らしているが、ふたりの干渉に反発している。彼女は、父が近所の少年の父親を殺したという噂を耳にする。ナティア(マリアム・ボケリア)の家庭は、父がアルコール中毒のため争いが絶えず荒んでいた。街には不穏な空気が漂い、生活物資も不足しがちで、パンの配給にはいつも長い行列ができている。だが、行列に並ぶエカとナティアにとっては、お喋りができる楽しい時間だった。ナティアは、ふたりの少年から好意を寄せられている。ある日、ナティアは、そのひとりラドから護身用に弾丸が入った拳銃を贈られる。だが、もうひとりの不良少年コテと仲間が、配給の行列に並んでいるナティアを車に押し込んで誘拐。それが引き金となり、ナティアはコテと結婚する羽目になる…。
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 近隣同士が相争わねばならなかったこの時代。物語の中には、幾つかの問題提起があります。荒んだ男たち。エカの父親が持っているソヴィエト時代のパスポート。食料も電気もなく、ローソクをともす生活。配給の行列に割り込む武装した男たち。若者同士のケンカ、銃。そんな中で、女性たちは自立のしようがありません。とりわけ衝撃的な事件が、ナティアの誘拐事件。ジョージアには、誘拐婚と若年結婚の伝統があるという。そして、厳然たる家父長制。コテの自宅で行われる賑やかな結婚式。それでも、ナティアは幸せそうにしている。しかし彼女は、結婚後は家から出してもらえず、友だちにも会えない。彼女を愛していた少年ラドは、嫉妬したコテから刺殺される。そんな風土に抵抗するように、エカはナティアの結婚式で男性舞踊を踊り出す。エカとナティアは、そんな時代を乗り越えようとする若い世代の象徴だ。ここでは、荒んだ時代とジョージア人気質がみごとに浮かび上がってきます。
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 本作は、ナナ・エクフティミシュヴィリ監督の個人的な思い出を基にしているという。彼女は言う―「すべては、私の経験や記憶によります。私は古い記憶を思い出して、設定を再構築し、かつて暮らしていた場所を探しだした。そして、撮影もその場所で行った。当時、私も主人公エカと同じ14歳でした。エカは、私の分身なのです」と。また男性優位主義に対しては、「ジョージアでは男女同権のとりきめや、女性の声に耳を傾けるという習慣は原則としてありません。私は決してフェミニストではありませんが、ジョージア女性から奪われてきた声を取り返したいのです。民主化のプロセスを進めなければなりません」と語る。そして、いまでは誘拐婚はほとんどないが、ジョージアではみんな若くして結婚するとか。若者たちは自立する機会も少なく、親も子供が早く結婚することを望んでいるそうだ。2013年の統計では、7,000人の少女が結婚のために学校をやめた、と同監督は付け加える。
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 しかし、ガチガチの社会告発映画ではありません。14歳の少女ふたりは、たおやかで強い絆で結ばれている。にわか雨を彼女たちが駆け抜けるシーンは、草木の芽吹きのように初々しく美しい。監督たちは、ワンシーンワンカットで撮影したという。前もっての厳密なプランではなく、エモーションによって物語を発展させた。終幕、ラドがコテたちに殺されたことを知ったナティアは、銃でコテを殺そうとする。だが、エカが銃を奪い、ナディアを落ち着かせ、銃を公園の池に投げ捨てる。数日後、エカはそれまで会うことを拒んでいた父親に面会するため、ひとりで刑務所を訪ねる。そこには、憎悪の連鎖を断ち切ろうとする彼女の成長ぶりを窺うことができる。全体的に演出がやや未熟だけれども、展開には筋が通っている。ジョージアでは、外国で教育を受けた新世代の映画人が、自分の国で起こったことをテーマに作品を撮り始めているという。そんな流れに期待したいものです。(★★★★)


キャスリン・ビグロー、5年ぶりの問題作「デトロイト」

2018-02-01 14:56:27 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 イラク戦争を背景に、米軍爆発物処理班の兵士たちの姿を追った「ハート・ロッカー」(2008年)で、女性として初の米アカデミー監督賞を受賞したキャスリン・ビグロー監督。続く「ゼロ・ダーク・サーティ」(2012年)では、オサマ・ビンラディンの捜索に執念を燃やすCIA女性分析官の軌跡を映画化した。そして今回は、アメリカ現代史の暗黒面に斬り込んだ「デトロイト」(1月26日公開)を発表。1967年の夏、権力や社会に対する黒人たちの不満が爆発したデトロイト暴動は、アメリカ史上でも稀に見る事件であり、43人の命が失われ、負傷者1100人以上を数える大惨事になった。映画は、その間の“戦慄の一夜”に焦点を当てる。いわばビグローが、世界から一転して国内に目を向けた問題作である。
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 1967年7月23日深夜、デトロイト市警が低所得者居住区にある無許可営業の酒場に強引な手入れを行った。地元の黒人たちがこの不当な捜査に反対したことをきっかけに、大規模な略奪、放火、銃撃が各地で勃発。警察だけでは対処できない非常事態に、ミシガン州は州警察と軍隊を投入、デトロイトの市街は戦場と化す。そして暴動発生から3日目の夜、若い黒人客で賑わうアルジェ・モーテルに、銃声を聞いたとの通報を受けた警官と州兵が殺到。それは、宿泊客のひとりがオモチャの銃を鳴らした悪戯だった。だが、モーテル内に突入した白人警官クラウス(ウィル・ポールター)によって黒人青年が射殺される。しかし、それは悪夢の序章に過ぎなかった。実際には存在しない“狙撃犯”を割り出そうとするクラウスとふたりの同僚警官は、偶然モーテルに居合わせた若い男女8人への暴力的な尋問を開始。やがてそれは、殺人をほのめかす異常な“死のゲーム”に発展、新たな惨劇を招き寄せる。
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 本作の製作者は、事件の被害者となった3人の証人を見つけ出し、アドバイザーの役割を果たしてもらった。そのひとりが食料雑貨店の黒人警備員で、アルジェ・モーテルに急行して事件に巻き込まれたメルヴィン・ディスミュークス(ジョン・ボイエガ)。警官たちと被害者の橋渡し的な存在となった彼は、双方から敵視され精神的な痛手をこうむったという。演じるボイエガがシドニー・ポワチエに似ているなと思ったら、オーディションの際にビグローからポワチエ主演「夜の大捜査線」(1967)の脚本を渡され、その1シーンを演じたそうだ。また、地元出身の黒人R&Bボーカル・グループ“ザ・ドラマティックス”のリード・シンガー、ラリー・リード(アルジー・スミス)も、フォックス劇場でのコンサートが中止されたためアルジェ・モーテルにチェックインしたところ被害に遭った。彼は命からがらモーテルから脱け出し、哀れに思った警官が病院に連れて行ってくれたが、友人は殺されてしまった。終幕、ザ・ドラマティックスのコンサートがフォックス劇場で行われる。だが、ラリーは心の傷が癒えないまま、聖歌隊指揮者として以後の半世紀を過ごしたという。
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 ビグローの演出は手堅い。序盤は、街での黒人による暴動をドキュメント映像を交えてリアルに再現。メインのモーテルでの事件に至ると、サスペンス・ドラマのタッチになる。クラウス以下、警官たちの凄まじい暴力。これには州兵も呆れて、途中で引き上げてしまう。また裁判になっても、陪審員も判事も警官たちに無罪判決を下す。いわば、司法ぐるみの差別と隠蔽である。映画は、ヒューマニズムを謳うというより、司法の独断を冷厳な事実として突きつける。これは、デトロイトという街の暗部というよりも、アメリカ社会全体の問題である。警官が罪のない黒人を射殺するという事件は、今日に至るまで続いている。1970年代、仕事でロサンゼルスに出掛けた際、ホテルのティールームで朝食をとった時、黒人母子と、こちらの注文よりも、白人の客を優先されたという経験がある。こんな些細な日常的なことから始まって、アメリカには人種差別が深く根付いているんだな、と感じたものだ。
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 1960年代アメリカは、こうした人種差別や暴動から始まり、混迷の度合いを深めていった。1968年には、キング牧師、次いでリベラル派の星だったロバート・ケネディ上院議員が暗殺された。更にベトナム戦争が泥沼化すると、反戦運動のうねりが強まる。映画界でも、「俺たちに明日はない」(1967)を皮切りに、若い世代の反乱を主題にしたアメリカン・ニューシネマが誕生。ビグロー監督は言う―「芸術の目的が変化を求めて闘うことなら、そして人々がこの国の人種問題に声を上げる用意があるなら、私たちは映画を作る者として喜んでそれに応えていきます」。ただし本作では、警官・被害者ともにキャラが交錯して判然としない部分もある。また、ビグローの「ハート・ロッカー」のように、見ていてヒリヒリするような映像の臨場感は少ない。期待が大きすぎたせいだろうか。ともあれ、この作品が人種差別主義者ドナルド・トランプのような存在を意識しているのは確実です。(★★★★)


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