わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

大自然の神秘&人間の生と死、河瀨直美監督の異色作「Vision」

2018-06-23 13:31:52 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

「あん」(15)、「光」(17)などで独特の作風を誇る河瀨直美監督。彼女の新作が、生まれ故郷である奈良を舞台にした日仏合作「Vision」(6月8日公開)です。主演は、フランスの名女優ジュリエット・ビノシュと、日本の個性派・永瀬正敏。彼らの出会いは、国際的な映画祭でだった。河瀨監督は、2017年5月、第70回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に「光」を出品、エキュメニカル審査員賞に輝く。その期間中、河瀨監督と永瀬が公式ディナーで、本作のプロデューサーであるマリアン・スロットと同席になり、ビノシュを引き合わせてくれたという。彼らは意気投合、ビノシュが河瀨監督の次作への出演を熱望したことから、翌6月に製作が決定。監督は、すぐビノシュと永瀬を当て書きし、オリジナル脚本を執筆した。レオス・カラックス監督の「汚れた血」(88)、「ポンヌフの恋人」(92)などでファンを虜にしたビノシュが、日本の神秘的な風土に身を置くという設定が見どころです。
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 木々が青々と茂る夏。紀行文を執筆しているフランスの女性エッセイスト、ジャンヌ(ジュリエット・ビノシュ)は、奈良・吉野にある山深い神秘的な森にやって来る。いっぽう、その森に住む山守の智(永瀬正敏)は、鋭い感覚を持つ女アキ(夏木マリ)から、森の守り神である春日神社へお参りに行くようにと告げられる。春日神社で智と出会ったジャンヌは、人類のあらゆる精神的な苦痛を取り去ることができるという薬草“ビジョン”を探していると告げるが、智は「聞いたことがない」という。ジャンヌは、智の家で数日過ごすうちに言葉や文化の壁を越えて、彼と心を通わせるが、別れの時が訪れる。やがて秋、ジャンヌが智の家に戻ってくると、智は山で出会った謎の青年・鈴(岩田剛典)と仲睦まじく生活をしていた。ジャンヌは、智や鈴に昔知っていた男の姿を重ねる…。果たして、ジャンヌがこの地を訪れた本当の理由とは何か? 山とともに生きる智が見た未来(ビジョン)とは?
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“ビジョン”とは、1000年に一度姿を見せるという幻の植物という設定だ。アキは、この森に誰か(ジャンヌ)がやって来ることを前もって知っていたという。さらに「最近、森がおかしい。1000年に一度の時が迫っている」と言う。このアキは、どことなく巫女の雰囲気を備えている。演じる夏木マリは、頭を短髪にして、いかにも預言者風な雰囲気を漂わせる。河瀨監督は言う―「この作品を思いついたのは、人間が人間の欲望だけで生き続けたら、必ず滅亡してしまうということでした。次の世界に行くために“ビジョン”が必要だと思いました。“ビジョン”とは、何かを受けとめ、そして乗り越えるための、私たちのなかにある“可能性のタネ”です。それは、炎を与えないと芽吹かない。そういう難しさのなかで、試練を乗り越え、生まれてくるものです」。クライマックスは、森が1000度の炎に包まれて、“ビジョン”の胞子が地上に放たれるシーン。いかにも象徴的かつ神秘的なくだりだ。
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 作品全体の概念としては、自然(森林)の神秘さを抽象的に映像化、それに人間の生と死をクロスさせたものといっていいでしょう。その奥に存在するのは、吉野の森の神秘性と伝説。いわば“吉野奇譚”とでもいえようか。ドラマのディテールをなす要素は、山守の話、狩人の悲劇、智の飼い犬コウ(好演!)の失踪、捨てられた赤ん坊、“ビジョン”という薬草、登場人物の失踪と出現・死、森の守り神(春日神社)、予言者アキの存在。それらをひっくるめて、森林の美しさ、神秘性を、河瀨監督は自在なカメラワーク(=ショット)でとらえていく。つまり、生と死、苦痛と癒し、愛、人間の出入りを、森という概念のなかで抽象的にとらえた語り口ともいえる。また、ジャンヌと智とのラブシーンもあり、日本的な風土と西欧世界(文化)の融合みたいなものも試みられる。キャラクターの出現や消滅、細部の描写に唐突で不明な部分もあるが、それは先刻承知といった流れに覆われていくようだ。
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 ジュリエット・ビノシュのコメント―「河瀨監督の作品は拝見していました。彼女はいつも自然に寄り添い、人のことを愛しています。フランスで河瀨監督の作品は非常にリスペクトされていて、彼女が紡ぐ表現方法などがとても独特で素晴らしいと感じていました」。河瀨監督の総括―「10年以上前から“山がおかしい”と感じ、何とかしないと大変なことになると思っていました。林業が衰退して、関わっている方は高齢化し、若い担い手がいなくなっている。危険な仕事なのに、道も整備されていないため、私の知り合い2人が樹木の事故で亡くなっています。怪我をしても、山深いため、近くの病院に行くのに2時間かかるという状況でした。森のありようは、人間のありようです。ともに生きていく感覚で、美しい森を継承していきたいですね」。同監督は、シナリオ・ハンティングのために奈良の山林をめぐった。そして、檜の植林地として500年の歴史を誇る吉野町を散策。その際、映画の象徴となる通称“モロンジョの木”にインスピレーションを受け、人を癒す幻の植物を軸にしたストーリーが膨らんでいった。観念的だけど、一見の価値がある作品です。(★★★★)


イタリア製リアル・コメディ「いつだってやめられる 10人の怒(イカ)れる教授たち」

2018-06-15 14:17:58 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 イタリアから、集団痛快風刺コメディがやってきた。新鋭のシドニー・シビリア監督・原案・脚本による「いつだってやめられる 10人の怒(イカ)れる教授たち」(5月26日公開)です。2009年にギリシャで始まった欧州危機はイタリアにも拡大し、大学の研究費削減などで多くの研究者たちの収入はカットされ、職を追われる者も出た。彼らの中には稼ぎを求めて海外に転出する者も出て、“国の頭脳流出”ともいわれた。本作は、そうした学究の道に進めなかった研究者たちが、その才能を思いがけない方向に生かすという危ない風刺コメディだ。彼らが優秀な頭脳を使って犯罪に手を染め、社会に復讐し始めたら、いったいどうなるか。第1作「いつだってやめられる 7人の危(アブ)ない教授たち」(14)は世界中で上映され、頭脳流出した多くのイタリア人研究者から反応があったという。今回は2作目にあたり、知性をおざなりにした事実に対する贖いの気持ちをこめた作品だとか。
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 神経生物学者のピエトロ・ズィンニ(エドアルド・レオ)は、スマートドラッグを製造し警察に逮捕されたが、獄中で警察と取引きし、捜査に協力することになる。合法ドラッグの取引を非合法化するために、その成分を分析し、警察の捜査に協力することになったのだ。パオラ・コレッティ警部(グレタ・スカラーノ)は、ズィンニにグループのメンバーをもう一度集めてのミッションを依頼する。大学を追われた各分野の教授たちの中には、不本意ながら、世界各国でテロ組織などに自分が開発した爆弾を売り込む者もいた。才能がありながら、人生のチャンスや転機に巡り合わない不遇な研究者たちが再び結集した。メンバー同士がかばい合い、互いを認め合うかと思えば、プライドの高さや意見の相違から罵り合うことも少なくなかったが、友情にも似た仲間意識も芽生えてくる。そして、新たな敵(ルイジ・ロ・カーショ)が出現。次々に予期しない事態が起こり、抱腹絶倒の追跡劇が展開する。
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 メンバーの顔ぶれがすさまじい。神経生物学、化学、記号学、考古学、ラテン語学、経済学、文化人類学、解剖学、工学、法学の権威たち。リーダーのズィンニは、薬物取引と製造、誘拐、殺人未遂で起訴されている。また、重傷害罪、武装強盗、銃器違法所持&銃器の密輸などを生業(?)にしている者もいる。彼らは頭脳をフルに使って、次々と合法ドラッグの入手ルートを突き止め、その成分を解析していく。とりわけ、大物ドラッグ“ソポックス”に必要な成分がピルから抽出できるという設定が可笑しい。ズィンニは、大量のピルが狙われると踏んでピルを追跡する。ピルを積んだコンテナを追う、この列車アクションでは、ナチスの車とバイク、ヘルメットが使われていることも大いに笑わせる。また、彼らの目付役、女警部のコレッテイが可愛いが、最後に憎たらしく変貌する。演じるグレタ・スカラーノは、ミュージシャンのPVやTVドラマなどに出演したのち、映画の世界に進出したという。
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 演出は軽快な展開を見せ、いかにもイタリアらしい楽天的な集団ドラマになっている。警察のエゴイズム、ナチスの乗り物などの要素をからめて、すべてを笑い飛ばすのだ。シドニー・シビリア監督は、「古典的なイタリア式コメディと、アメリカのマーベル3部作的手法を融合する、新しいイタリアン・コメディだ」と言う。彼は、更に語る―「私は、1970年代、80年代、90年代のイタリアとアメリカのシリーズ物の映画を見ることによって、撮影技術を学んだ。その中には、私が大好きな『ゴーストバスターズ2』(89)、『ターミネーター2』(91)、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』3部作(85~90)、『インディ・ジョーンズ』シリーズ」(81~08)などのシリーズ作品、イタリア映画では『ギャグ王世界一/ファントッツィ』(75・未)などがある」。なるほど、なるほど、そういう成り立ちだったのか。
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 そして、この現実的かつ奇想天外なアクション・コメディを支えているのは、冒頭にも言ったように学者たちの頭脳流出というテーマです。監督は付け加えます―「本作は、私たちが生きているこの時代や、ある種の知性に関して、私たちがあまり敬意を払わないことがあるという事実、そして贖罪に関する映画で、それを私の視点を通して描きたかった」と。そういえば、ぼくらの身の回りでも、学究に敬意を払わない為政者や、エゴに凝り固まって周囲に視線を投げかけない人間がいっぱいいますね。本作は1年半がかりで脚本を執筆し、いくつかのシーンはイタリアで前例がないほど準備に時間をさき、世界各地で20週間かけて撮影、ポスト・プロダクションにも数か月を費やしたとか。更に驚きなのは、本作と3作目(完結編)が同時に撮影されたということだ。その3部作のフィナーレ「いつだってやめられる-名誉学位」は、日本でも「イタリア映画祭2018」で上映されています。(★★★★)


名匠フォルカー・シュレンドルフ監督「男と女、モントーク岬で」

2018-06-05 17:13:56 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 フォルカー・シュレンドルフといえば、1960年代後半に興ったニュー・ジャーマン・シネマを代表する名監督だ。いわば、ドイツの“怒れる若者たち”の台頭。代表作は、ギュンター・グラスの小説の映画化「ブリキの太鼓」(1979)。パワフルな演出と鋭い社会性が、作品の特徴です。彼の新作が、盟友だったスイスを代表する作家、故マックス・フリッシュの自伝的小説をもとにした「男と女、モントーク岬で」(5月26日公開)。78歳になるシュレンドルフが、長年にわたり企画を温め、「どうしても撮りたかった」と艶やかなラブストーリーに仕上げた。撮影は舞台となるニューヨークで行われ、アンディ・ウォーホルの邸宅があったことでも知られる、海岸線が美しいロングアイランドのモントーク岬とその灯台が主舞台になる。忘れられないかつての恋人との再会と、男と女の心のすれ違いに迫ります。
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 ベストセラー作家マックス(ステラン・スカルスガルド)は、新作プロモーションのためにベルリンからニューヨークへやって来る。17年前、彼はこの街で、レベッカと出会い激しい恋に落ちた。だが、小説のネタを求めて各地をさまよううちに、いつしか音信も途絶えてしまった。そしていま、人生の折り返し地点で過去を振り返ったマックスは、レベッカこそが“夢の女”だったと確信する。彼女との日々をつづった小説をたずさえ、ついに当のレベッカ(ニーナ・ホス)と再会を果たすマックス。しかし、別れてから何があったのか、いまも独り身なのか、レベッカは弁護士として成功したこと以外は何ひとつ語ろうとしない。失意のマックスがニューヨークを発つ3日前、レベッカからロングアイランドのモントーク岬へ出かけようという誘いが舞い込む。幸せの絶頂にいた頃、ふたりで訪れた場所だ。果たして、彼女の真意はどこにあるのか? そして、語られない過去の秘密とは何なのか?
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 マックスは、自分自身と己の作品が一番大事だという身勝手な男だ。だが、心に嘘や偽りがないために、関わった女性たちから愛される。妻のクララ(スザンネ・ウォルフ)は、自らの生きる道を探すために、夫のマックスと離れて暮らし、ニューヨークの出版社でインターンとして働いている。広報担当のリンジー(イシ・ラボルド)は、マックスの勝手な願いに応えなくてはならない。そして、いまは冷たい頑なな女になっているレベッカ。過去の愛の思い出にひたり、現在の愛に対処するマックス。彼は、きわめて文学的な感性丸出しの小説家であり、哲学的で内省的な面を持つ。演じるステラン・スカルスガルドとしては、新生面といってもいい。スカルスガルドは言う―「フォルカー・シュレンドルフは、真に優れた監督のひとり。その知性と感受性。でも、最終的に脚本が決め手になった。言葉がぎゅうぎゅうに詰め込まれているんだよ。文学作品のように。普通の脚本とは違っていた」と。
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 モントーク(Montauk)は、アメリカ原住民の言語で“地の果て”を意味し、マンハッタンから約180キロ離れた、ロングアイランドの最東端の町だそうだ。「モントークにいると、過去を振り返ってしまう」と、シュレンドルフは語る。「あらゆる物事から切り離される。高い空に、広い海岸。そして突然、過去の亡霊が現れる」。ここでマックスは、レベッカとともに思い出のホテルにチェックインし、かつて行けなかったレストランでディナーを楽しむ。レベッカにも笑顔が戻り、ふたりは情熱的な一夜を過ごす。翌朝、マックスはレベッカこそが残りの人生をともにする相手だと確信し、「人生を変える。パートナーと別れる」と宣言する。だが、ふたりの間には感受性の違いと、心のすれ違いがある。そして、それぞれのエゴがぶつかり合うのだ。レベッカからは、予想もしない答えが返されることになる。
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 ドラマは、5日間にわたって繰り広げられる。シュレンドルフの演出は簡潔で、映像は的確だ。同監督は付け加える―「モントークは、常に感情を波立たせる特別な場所。それは、陸地が終わる場所。そこで人生が終わるわけじゃない。でも、その地点からは、実際に振り返ってみることしかできない」。いわば、かつてのニュー・ジャーマン・シネマの雄が、晩年に差し掛かって手がけた文学的なメロドラマ。そのせいか、テーマが抽象的すぎるきらいがある。見ているほうは、思わず過去に関わった女性のイメージを思い起こすことになるのかもしれないが。過去への思いと振り返り。ま、78歳の創作者としては、やむを得ない心境だろうか。そんなことを言うこちらにしても同年輩なのだけれど。ちょっとの違和感と驚きをもって本作を見たのだった。ドイツ=フランス=アイルランド合作。(★★★+★半分)


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