わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

ファッションはアートたり得るか?「メットガラ ドレスをまとった美術館」

2017-04-24 16:49:14 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ファッションには、ほとんど関心がありません。それなのに埒外の映画を見てしまった。アメリカのドキュメンタリー作家アンドリュー・ロッシ監督「メットガラ ドレスをまとった美術館」(4月15日公開)です。ニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)では、毎年5月の第1週に豪華なイベント“メットガラ”が開催される。ファッション誌US版「VOGUE」の編集長アナ・ウィンター(映画「プラダを着た悪魔」の鬼編集長のモデルになった)が主催するファッション・イベント。アナは同美術館の理事でもあり、同イベントで服飾部門の活動資金を調達してきた。この映画を見た理由は、ウォン・カーウァイが芸術監督を務めていて、テーマが映画とファッションの関係に主眼を置いていることです。
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 ロッシ監督がカメラを向けるのは、2015年の服飾部門の企画展覧会。テーマは、キュレーターのアンドリュー・ボルトン発案による「鏡の中の中国」。中国の影響を受けた西洋のファッションと、美術、歴史、映画との融合をテーマにした企画展だ。150以上の服飾を展示し、40人以上のデザイナーが関わった企画は、アジア美術部門と協力しながら進める準備期間に8か月もかかった。だが、企画展はスタートから難産の予感。アメリカと中国の政治的に微妙な関係も影を落とし、映画は関係者の横槍に頭を抱え、頑迷なインタビュアーの質問に苦笑するアナとボルトンをとらえる。世界のデザイナーの協力を得て、アナとボルトンは「ファッションはアートたり得る」との信念のもとに邁進。カメラは、初日のガラ開催までの準備の慌ただしさ、困難さを、イベントの舞台裏を追いながら的確にとらえていく。
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 この企画は、並行して1930年代のハリウッド映画が、西欧にステレオタイプの中国の美を伝えた歴史にも注目。「ブエノスアイレス」「花様年華」のウォン・カーウァイに芸術監督を依頼し、デザイナーたちに影響を与えた映画を会場で上映するアイデアを託した。その結果、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督、マレーネ・ディートリッヒ主演「上海特急」(1932)から、ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラストエンペラー」(1987)、ウォン・カーウァイの「花様年華」(2000)まで、軸となる映画の場面が挿入される。ウォン・カーウァイは言う―「展覧会に古い固定概念は要らない。中国の庭のような構成に。入り口をくぐれば自由に歩き回れる」と。そして、毛沢東時代の制服も展示したいというアメリカ側に断固反対する。しかし、映画を見る限り、彼が具体的にどんなことをやったのか不鮮明だ。
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 底流に流れるのは、ファッションは芸術か商売か、という議論だ。アナ・ウィンター「ファッションは、もっと認められるべきです。ファッションは人々の心をつかみ、感動させる。アートと同じです」。アンドリュー・ボルトン「ファッションの力に、とても感動した。その気持ちは、いまも同じ。私は、あの少年の日々のまま、感動し続けている」。ガラの装飾スタッフを率いたバズ・ラーマン「アナは“巨大な事業体”だ。でも、彼女にとってのメットガラは商業目的ではない。カルチャーのためだ」。反対に、ドイツ出身の異色デザイナー、カール・ラガーフェルドの意見がユニークだ。「デザイナーが、自分をアーティストと言うのは最悪だ。アーティストなら、ランウェイでなくギャラリーへ行くがいい。シャネルはアーティストではない。ドレスメーカーだ」。結果、展覧会には、中国伝統工芸の粋を集めた芸術品と、それらに強く影響を受けた一流ブランドの豪華絢爛たるドレスが登場する。
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 そして、2015年5月2日、メットガラが華やかに幕を開ける。大階段にはレッドカーペットが敷かれ、ポップスターのリアーナやレディ・ガガ、俳優ジョージ・クルーニーやアン・ハサウェイ、デザイナーのジャン=ポール・ゴルチエら着飾ったセレブたちがフラッシュを浴びて登場。本展覧会は4か月の展示期間を延長、同部門史上最多の80万人以上の来場者を記録したという。初日のガラでは、一人当たり25,000ドルもする600席が瞬時に満席になる。アナは、出席者に気前よく寄付してもらうために、パーティーの席順に頭を悩ませる。美術館の企画展に、これほどの時間と人員、とてつもない労力が費やされるのを見ていると驚く。しかし、映画を見終わって思うのは、ファッション界は所詮“虚飾の世界”ということ。ファッションって、庶民のための実用性が主な役割じゃないの?(★★★+★半分)


ダルデンヌ兄弟の心理サスペンス「午後8時の訪問者」

2017-04-14 16:36:10 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌは、ベルギー出身の兄弟監督です。初期は社会派ドキュメンタリーを手がけ、その後「イゴールの約束」(96年)、「ロゼッタ」(99年)、「ある子供」(05年)、「少年と自転車」(11年)などの意欲作を発表、カンヌ国際映画祭などで受賞した。彼らの新作が「午後8時の訪問者」(4月8日公開)です。若い女医の身辺に起こった事件と、彼女の行動を通して、暗鬱とした現代社会を浮かび上がらせる。主人公の女医ジェニーを演じるのはフランスの若手実力派アデル・エネル。まだ幼さが残る新鮮な演技で、現代では失われつつある医師としての原点ともいうべき側面を浮きぼりにします。
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 診療時間をとっくに過ぎた午後8時に鳴ったドアベルに、若き女医ジェニー(アデル・エネル)は応じなかった。研修医ジュリアン(オリヴィエ・ボノー)が応じようとするのを止めて。翌日、診療所近くで身元不明の少女の遺体が見つかる。それは、診療所のモニターに映っていた少女だった。いったい、この少女は誰なのか? なぜ死んでしまったのか? ドアベルを押して、なにを伝えようとしていたのか? あふれる疑問のなか、ジェニーは亡くなる直前の少女の足取りを探るうちに、身の危険に巻き込まれていく。彼女の名を知ろうと、必死で少女のかけらを集めるジェニー。そして、彼女が見つけ出す意外な死の真相とは…。
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 まずは、ジェニーのキャラクターがユニークだ。彼女は老齢の医師に替わり、郊外の小さな診療所に勤務している。近く彼女は、多くのライバルを押しのけて大きな病院に勤務することになっていて、歓迎パーティーも開かれ、用意されている自分の部屋を紹介される。だが、亡くなった少女の手がかりを探るうちに、小さな診療所が、貧困や国籍などが原因で大病院にはなかなか行くことができない人々に必要とされていることを実感する。そして、大病院での勤務を断り、閉めようとしていた診療所を継ぐ決意をするのだ。そのひたむきさが、社会の裏面に隠されている醜い部分に触れる。診療所で貧しい人や国籍不明の人々を助ける、そのためにはいつでも出張診療する。そこに、若い女医の真摯な姿勢が感じられる。
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 いっぽう、身元不明の亡くなった少女は黒人だった。ジェニーが調べるうちに、少女はどうやら娼婦だったらしいことがわかる。あげくにジェニーは襲われ、ヒモらしい男たちから「この件に近づくな」と脅される。ジェニーを訪ねてきた少女の姉は、ネットカフェに勤めていて売春を生業にしているらしい。そして、この件に絡んで、周囲の人々の内面があらわになる。ダルデンヌ兄弟ははっきりと触れてはいないけれども、犠牲になった少女がアフリカ系黒人の娼婦だとすれば、そこにはヨーロッパの不法移民の問題も絡んでくる。そのあたりが、ドラマに不安と緊張感を生む。こうしたことを含めて、ダルデンヌ兄弟の演出はサスペンス・タッチでジェニーの行動を追う。それにしても、ジェニーがよく動き回ること!
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 ダルデンヌ兄弟のコメントから―「ジェニーは扉を開けなかったことに罪悪感を覚えますが、彼女の探求には自己満足も自己陶酔もありません」「ジェニーは名もなき少女の身元を探ることで、同時に患者たちの苦しみを聞き、彼らを癒そうとしているのです」「(貧困や分断に苦しむ)登場人物は、いまの社会の現実に根ざしています。彼らは、暴力的なまでに周縁化された社会の一員なのです」。ちょっとした判断の迷いから失われてしまった“救えたかもしれない命”。「もしかして、なにかが変わったのではないか」と思わせる人生の転機。その裏に存在する、移民問題などに象徴されるヨーロッパの混乱。黒人少女を食いものにしようとした連中は、いったい何者なのか? ジェニーは、こうした事態のなかで変化し、成長する。ラスト、老婦人の手を取り診療所に導くジェニーの姿が印象的です。(★★★★)


反骨ファミリーのロードムービー「はじまりへの旅」

2017-04-03 16:55:41 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 森の中から鹿が現れる。突然、ひとりの少年が飛びかかって、鹿を仕留める。そんな長男に対して、父親は言う―「今日、少年は死んだ。これで、お前は男だ」と。アメリカの新鋭マット・ロス監督(兼脚本)「はじまりへの旅」(4月1日公開)の衝撃的な冒頭シーンです。登場人物は、現代社会に背を向けてアメリカ北西部の山奥にこもり、自給自足のサバイバル生活を送る一家、厳格な父親と18歳から7歳までの6人の子供(男3人と女3人)。インターネットなどのテクノロジーには依存せず、森で鍛え抜かれた子供らの身体能力はアスリート級で、ロッククライミング、狩猟、マーシャルアーツと何でもござれ。更に古典文学や哲学書を読みふけり、誰もが6か国語を喋る。長男が仕留めた鹿は、彼らの食料になる。
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 ベン(ヴィゴ・モーテンセン)と6人の子供たちは、現代社会に触れることなくアメリカ北西部の森深くで暮らしている。父仕込みの訓練と教育で、子供たちの体力は抜群。みな6か国語を操り、18歳の長男ボウドヴァン(ジョージ・マッケイ)は名だたる大学すべてに合格。だが、入院中のベンの妻で子供たちの母レスリーが亡くなり、一家は葬儀のため、母の最後の“願い”を叶えるために旅に出る。葬儀が行われる母の実家があるニューメキシコまで2,400キロ。哲学者で言語学者のノーム・チョムスキーは知っていても、コーラもホットドッグも知らない。世間知らずの彼らは、西海岸の北(ワシントン州カスケード山脈)から南(ニューメキシコ州ラスクルーセス)への旅で何に遭遇するのか。果たして、母の願いを叶えることが出来るのか?
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 一家のサバイバル生活が半端じゃない。電気やガスはおろか、携帯の電波さえ届かない大森林で、彼らはナイフ1本で生き残る術を身につけている。そして、原始人のように森を走り回って、身体を鍛える。父親にナイフをプレゼントされて、子供たちが大喜びする場面が愉快だ。その反面、知的教育も半端じゃない。夜になると、哲学書や古典文学を読みふけり、知力と考える力を養う。チョムスキーの著作はもちろん、アメリカの「権利章典」や古代の哲学者プラトンの「国家」まで読みこなす。そこから導き出されるのが左翼的な姿勢だ。何かというと、一家で「市民(人民)に力を! 権力にノーを!」と叫ぶくだりが傑作だ。おまけに、みんな個性的。双子の姉妹、キーラーの得意言語はエスペラント語、ヴェスパーは狩りが得意。三女サージは、動物の剥製作りが趣味。末っ子の三男ナイは、裸でいるのが好き。唯一次男のレリアンだけが、森での生活やベンの教育方針に疑問を持ち、父に反抗する。
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 こんな彼らが文明社会に旅に出たら、どうなるか? 一家は“スティーブ”と名付けたバスで山を下りる。目的は、仏教徒のママを教会から救出すること。「戦闘開始だ!」というベンの号令に、子供たちは雄叫びをあげる。途中、空腹のためダイナーに入り、子供たちはホットドッグやハンバーガーに目を輝かせるが、コーラを毒液とみなすベンは何も注文せずに店を出る。そして、スーパーマーケットで“食べ物を救え!”作戦を実行、ベンは万引きしたチョコレートケーキを子供たちに振る舞う。次に、典型的な小市民階級であるベンの妹の家に泊まるが、彼らの常識はずれの言動は妹夫婦や子供たちを白けさせる。またキャンプ場で、長男ボウドヴァンが偶然出会った美少女に恋をするが、女性に慣れない彼はあっけなく敗北。ついにニューメキシコに到着した一家は、葬儀進行中の教会にド派手な服装で乱入。ベンの義父ジャック(フランク・ランジェラ、懐かしい!)の怒りを呼んでしまう。死んだら火葬にして遺灰をトイレに流して、というママ、レスリーの遺言は果たせるのか?
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 いわば、あらゆる常識(=現代文明)を否定した一家の奇抜なドラマといっていい。子供たちは自然児で、文明や権力を無視し、教会の存在まで否定する。それは、現代のヒッピー的な存在とでも言えようか。映画は、諧謔に富んだユーモアと、徹底した抵抗・(左翼的な)反骨精神をスリリングに描く。とりわけ、社会や小市民生活に対する罵倒の精神が痛快だ。それらは、いまの子供や青年たちに欠けている人間の原点といったらいいだろうか。しかしマット・ロス監督は、単に反逆精神だけを突出させるのではない。次男レリアンは、ベンの極端な教育方針に反発し、祖父ジャックの快適な生活に興味を示す。また、大学進学を夢見る長男ボウドヴァンも、新たなる旅立ちを目指す。つまり、ベン一家のなかのそうした反乱・独立精神を敢えて許容しながらも、ドラマが進行するくだりがアクチュアルなのである。
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 マット・ロス監督は1970年生まれ。長らく俳優として活躍、今回が2本目の長編監督作となる。バラエティ誌の“2016年注目の監督10人”に選出され、本作では第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門で監督賞を受賞した。ドラマ自体が監督の生い立ちとも関係があるそうで、出演する若い俳優や子役たちには、森で生き抜くための基本的なスキルを身につけるキャンプに通ってもらい、読んでほしい本のリストを与えたとか。また彼らには、撮影現場でジャンクフードを食べたり、iPadや携帯を使ったりしないという契約書にもサインしてもらったという。劇中、ガンズ・アンド・ローゼズやボブ・ディランの名曲も挿入される。結果、インディペンデント映画ならではの、ハリウッドでは不可能な反文明ドラマが出来上がった。究極のマイノリティー・ファミリー。それは不道徳?常識はずれ? けっこう!! そんなこと、どうでもいいじゃないか。時代に逆行しているからこそ、かえってリアリティーを感じさせる。さて、この極めて風変わりなドラマの結末は、どうなる? ちなみに、映画の原題は「CAPTAIN FANTASTIC」です。(★★★★★)


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