アレクセイ・ゲルマン監督のロシア映画「神々のたそがれ」に次いで、またまたドエライ映画を見てしまいました。ウクライナの新人監督ミロスラヴ・スラボシュピツキーの長編デビュー作「ザ・トライブ」(4月18日公開)です。セリフや音楽は一切なく、字幕も吹き替えもなし。すべての登場人物が聾唖者で、職業俳優はひとりもいない。全編、彼らのコミュニケーションは手話のみで表現されるのだ。スラボシュピツキー監督は、「この作品は、サイレント映画へのオマージュである。それを表現することは昔からの夢だった」と語る。ただし、サイレント映画との決定的な違いは、鮮やかな色彩感覚と<音>が存在することだ。
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主人公の若者セルゲイ(グレゴリー・フェセンコ)が、聾唖者専門の寄宿学校に転校してくる。だが、そこでは無慈悲な暴力が横行し、犯罪や売春などを行う悪の組織=族(トライブ)によるヒエラルキーが形成されており、セルゲイも入学早々彼らの手荒い洗礼を受ける。やがて、何回かの犯罪にかかわりながら、組織の中で徐々に頭角を現していったセルゲイは、リーダーの愛人で、イタリア行きのために売春で金を貯めているアナ(ヤナ・ノヴィコヴァ)を好きになってしまう。彼は、アナと関係を持つうちに、彼女を自分だけのものにしたくなる。そして、組織のタブーを破って、抑えきれない激しい感情の波に流されていく…。
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とにかく内容が過激だ。リーダーを中心とする集団が観戦するなか、セルゲイが数人の学生を相手に殴り合いを強要されるくだり。毎夜のように、族はアナと同室の女性を車に乗せ、長距離トラックが駐車するエリアに送り届け、運転手たちと売春の交渉をする。このやりとりは、くどいほど繰り返して登場。また、セルゲイたちが恐喝で相手を殴る時に響き渡る平手打ちの音。チンピラ(生徒)と不良教師、背後にある組織、という構図。また、セルゲイとアナが激しい性愛にふけるシーンの美しく露骨な描写。とりわけ、妊娠したアナが医療室で粗悪な中絶手術を受ける場面がすさまじい。地の底から響くようなアナの苦悶の喘ぎ。
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映像作法も、実にユニークです。クローズアップはほとんどなく、ロングショットとミディアムショット中心で、かつワンシーン・ワンショットでカメラが動き回る。冒頭、大通りをはさんだバス停で、セルゲイが学校への道を尋ねるくだり、カメラは道の反対側から彼をロングでとらえ、パントマイムのようなやりとりを示す。また、迫力たっぷりな乱闘シーンのダイナミズム。更に、前進移動や後退移動を駆使して、カメラはセルゲイが住む寄宿舎の内部空間を、閉ざされた迷宮をさまよっているかのような、悪夢的な感触でとらえる。まさに、犯罪と暴力、セックスが紡ぎあげる怒涛のパワフル・ドラマといっていい。
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導入部、全寮制の寄宿学校では公式祝賀会が開かれ、一見民主的な雰囲気に包まれている。また、授業も多少の邪魔はあるものの穏やかだ。しかし、観客はそこで用いられる手話を理解しようと必死になる、あるいは、対話を理解できずに焦ってしまう。だが、やがてワルたちが校舎の中や、雪の道を疾走するくだりになると、もはや手話の理解などはどうでもよくなるから不思議だ。手話で紡がれる展開が、いつしか迫力あるパントマイム=ボディーランゲージとなり、徹底した悪やセックスの息遣いが人間の本能=本質に即物的に迫っていくことで、見る側の内部に無意識のうちに侵入し、一種のリアルな美学を形作るのである。
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さあ、今回も、ある種の裏目読みを試みてみよう。スラボシュピツキー監督は言う。「撮影は、ヤヌコビッチ政権に対する反政府デモの前に始まった。そして、ロシアによるクリミア支配の後に終わった。状況は緊迫していた。役者を含め撮影チームの何人かのメンバーは、空き時間に反政府デモや暴動に参加していた」と。そう、悪を極める族が支配する聾唖者寄宿学校こそ、今日のウクライナの状況を暗示してはいないだろうか。セルゲイ役のグレゴリー・フェセンコはストリートチルドレンであり、アナ役のヤナ・ノヴィコヴァはベラルーシ出身で障害がありながら女優を志し、キエフでスラボシュピツキーに採用されたという。
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もうひとつ、興味深いことがある。スラボシュピツキー監督は、ロシアのサンクトペテルブルク(旧レニングラード)にある映画撮影所レンフィルム・スタジオ出身。かつて錚々たる作家映画を輩出したこのスタジオの先輩には、なんと「神々のたそがれ」のアレクセイ・ゲルマンも所属していたというのだ。この伝説の撮影所は、破天荒な天才監督を続けて生み出したわけだ。「ザ・トライブ」のラスト、主人公セルゲイはアッと驚くショッキングなやり方で族のリーダーらを断罪する。そのシーンは痛快きわまると同時に、腹の底からの哄笑を誘い出す。映像の無限の可能性が、この作品には存在します。(★★★★★)