わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

少年たちのオデッセイ⇒中国社会の矛盾「僕たちの家に帰ろう」

2015-08-26 16:10:53 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 映画の原題は「家在水草豊茂的地方」(わが家は水草生い茂る場所にある)という。中国の新鋭リー・ルイジュン監督(兼脚本・編集・美術)の「僕たちの家(うち)に帰ろう」(8月29日公開)は、幼い兄弟の旅を通して中国の少数民族、環境破壊の問題に迫る秀作です。広大な大陸で、現在わずか約1万4千人しか存在しないといわれる少数民族ユグル族。本作は、古代シルクロードの一部としてかつて繁栄した中国北西部“河西回廊”を舞台に、ユグル族の幼い兄弟が離ればなれに暮らす両親のもとに帰る途中、さまざまな出会いと別れを経験し成長していく姿を、雄大な自然を背景に描く。リー監督は、ラクダで砂漠を行く兄弟の離反や絆と、現代社会の環境の変化を緻密な感情表現でスケッチしていきます。
                    ※
 放牧する土地を求めて、両親がより奥地の草原に移住したため、兄のバーテルは祖父のもとで暮らし、弟アディカーは学校の寮に住んでいる。ふたりは、親の愛情をめぐって互いに誤解し、嫉妬し合っている。夏休みが来ても父が迎えに来なかったために、アディカーは拗ねる兄を説得して、父母を探すためにふたりだけで旅に出る。そして、広大な砂漠をラクダにまたがり、干上がった河の跡を道しるべに、ひたすら荒野をたどる。痩せて枯れてしまった大地、見捨てられた廃村、崩壊した遺跡…回廊の変わりゆく風景は、光り輝いていた土地が工業化のために消滅し、伝統が新しい社会へと変貌するさまをまざまざと見せつける。やがて兄弟の旅は、彼らユグル族としてのアイデンティティーの探求へと変わっていく…。
                    ※
 兄は弟が母親の愛情を独り占めしていると思い込み、弟は兄ばかりが目をかけられていると感じている。弟の着るものは兄のお下がりばかり、おもちゃも兄が独占。こうした子供の複雑な感情をはらんで、おじいちゃんの家から6泊7日の砂漠の旅が始まる。旅の初めは互いにケンカ腰で、少なくなった飲み水の容器をこっそり相手のものと取り替えるなど、兄弟の敵対関係が微笑ましくもあり、ドラマに深みを与える。やがて、彼らは石窟寺院でラマ僧に出会い、やはり寺院を捨てようとする僧の人間性に触れ、仲直りをする。このあたりの兄弟の感情の揺れ、素直なぶつかり合いと絆、彼らの素朴で可愛いキャラクターが素晴らしい。兄弟を演じたのは、実際に撮影地のシルクロードに住んでいる子供たちだったという。
                    ※
 リー・ルイジュン監督は、少年たちの過酷なオデッセイを、寡黙なドキュメント風叙事詩とでもいうべきタッチでつづる。とりわけ、画面いっぱいに広がる荒々しい砂漠と岩山、干上がった河の風景、そこを行く兄弟を超ロングショットでとらえる画面が見る者を圧倒する。そして、彼らが出会い目撃する光景から、滅び行く少数民族の生活と文化、工業化により環境が破壊された悲劇が立ちのぼっていく。兄弟が大きな風船を拾うシーンがある。それは、砂漠の気候を観測する使い捨ての天候気候観測機。この風船には「子供たちの希望と、それから兄弟の絆がこめられていたように思う」と、プロデューサーのファン・リーは言う。だが、その風船は、果たして実際に少年たちの希望のシンボルであり得たのだろうか?
                    ※
 リー監督は語る。「ふたりの子供は、自分たちの家・文化を求めて旅をするが、それはなかなか取り戻すことができない。それは環境も含めてだ。空気や水などが非常な危険にさらされ、森林や動物も脅威にさらされている」と。とりわけラストが衝撃的だ。やっと父親に巡り合えた兄弟は、非情な現実に直面する。そこには青々と緑が茂った家はない。父は河で砂金を採掘しており、あたりにはハッパの音が鳴り響く。加えて、砂漠には工場がそびえ立つ。緑の草原と放牧地は、まさに夢だった。この現実に直面した際の、少年たちの悲しみと絶望は、いかばかりのものだろう。中国と、自らの民族を支えるはずの次世代の希望と失望の物語。経済大国からバブル崩壊へ…。これが、いまの中国の現実でもある。(★★★★★)


軽妙なタッチの人生再生ドラマ「しあわせへのまわり道」

2015-08-20 17:03:37 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 アメリカ女優パトリシア・クラークソンは、なかなかチャーミングで、かつ知的な人です。代表作は「エデンより彼方に」「エイプリルの七面鳥」などで、多くの監督や俳優たちから尊敬されているそうです。現在56歳、人間的にも深みを見せる演技派だ。彼女が脚本に惚れ込み、「エレジー」で意気投合したスペイン出身の女性監督イサベル・コイシェと、名優ベン・キングズレー(「ガンジー」でアカデミー主演男優賞)に企画を持ちかけたという新作が「しあわせへのまわり道」(8月28日公開)。原作は、雑誌“ニューヨーカー”に掲載されたキャサ・ポリットの実体験に基づくエッセイ。原題は“Learning to Drive”(運転を学ぶ)。ニューヨークを舞台に、軽妙なタッチの人生再生ドラマに仕上がっています。
                    ※
 売れっ子文芸評論家ウェンディ(クラークソン)は、NYマンハッタンのアッパー・ウェストサイドで暮らしている。あるとき、彼女の順調な人生は、突然あっけなく崩壊した。長年連れ添った夫が、すきま風の吹いた結婚生活に見切りをつけ浮気相手のもとに去ってしまったのだ。書物に囲まれ熱中する余り、愛する人に寄り添っていなかったと反省しても、あとの祭り。絶望の中で、遠くに住む娘を訪問するにも車を運転できない現実に直面したウェンディは、インド人タクシー運転手ダルワーン(キングズレー)のレッスンを受けることに。伝統を重んじる堅物の男性だが、宗教も文化も階級も対照的なダルワーンとの出会いは、過去の思い出にしがみつくウェンディの進路を変え、未来に踏み出す勇気を与えてくれる。
                    ※
 イサベル・コイシェ監督は、きめ細やかなタッチでヒロインの心理の起伏を表現する。妻であり母であり、知識と言葉を武器にキャリア&ライフスタイルを築き上げてきたウェンディ。だが、書物とパソコンにばかり向き合って、結婚生活をおろそかにしてきたと気付く。おまけに、夫の浮気相手は彼女お気に入りの女性作家。エレガントな外見からは想像できないほどのパニックに陥ったウェンディ。彼女が、運転指導と人生訓を重ね合わせたダルワーンの教えに導かれて、他人の人生に思いを馳せ、自らの生き方をも見つめなおしていく過程が見どころだ。運転免許の試験に落ちて落胆したウェンディが、挫折を乗り越えて再びハンドルを握るシーンに、クラークソンは中年インテリ女性の心の移ろいを巧みに投影する。
                    ※
 この作品には、もうひとつポイントがある。それは、ウェンディが代表するニューヨーカーと、インド人運転手ダルワーンとの異文化の融合だ。ターバンを巻いたヒゲ面のダルワーンは、歴史的な弾圧を経験してきたシク教徒。インドで大学教授までつとめた人物だが、アメリカに亡命してタクシー運転手をしている。おまけに、自分のタクシーで運転指導までつとめる。ウェンディが差別を受けるダルワーンを擁護し、ふたりが次第に親密になっていくくだりが心地いい。「運転中は平常心を保つことが大切。もちろん普段の生活でも」と、ダルワーンはウェンディに説く。このダルワーンが、故郷から来た花嫁を出迎えたり、不法入国した甥の面倒をみたりする場面では、今日的な問題がユーモラスにさりげなく描写される。
                    ※
 イサべル・コイシェ監督は、「死ぬまでにしたい10のこと」(03年)や「あなたになら言える秘密のこと」(05年)など、女性の苦悩と再生を描いた作品で注目された。原作者キャサ・ポリットの大ファンだという彼女は、本作についてこう語っている。「私も8年前に、この脚本を見せられて魅了された。ちょうどその頃、娘の父親と離婚手続き中だったからです。しかも、運転免許証を持っていなかった。ポリットのエッセイが名作たり得たのは、愛と喪失、それでも生きていくことについて、賢くて知的で思いやりをもった視点で描かれているからです」と。登場人物の意図しない形で、自動車運転の教習が“人生のレッスン”へと変わっていくストーリー展開。まさにグッド・アイデアではあります。(★★★★)


その日、日本で何が起こったのか?「日本のいちばん長い日」

2015-08-12 19:00:20 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 原田眞人監督が、「駆込み女と駆出し男」に次いで発表した作品が「日本のいちばん長い日」(8月8日公開)です。半藤一利の同名ノンフィクションを原作に、「昭和天皇実録」などを参考にした実録ドラマ。太平洋戦争終結から、今年で70年。日本がポツダム宣言を受諾し、1945年8月15日、降伏へと至るまでに二転三転した道のりと、終戦前夜に起きた事件を、手際よく見せる力作になっている。中心になるのは昭和天皇と陸軍大臣・阿南惟幾で、和平か本土決戦か、議論が百出する混沌の中での上層部の苦悩が描かれていきます。
                    ※
 太平洋戦争末期、戦況が絶望的となった1945年4月、鈴木貫太郎(山努)内閣が発足、陸軍大臣に阿南惟幾(役所広司)が任命される。7月、日本は連合国からポツダム宣言(日本に対し無条件降伏を求める共同宣言)の受諾を迫られる。降伏か本土決戦か、連日連夜、閣議が開かれ、議論は紛糾。降伏勧告を黙殺すると発言した日本に、アメリカは原爆を投下、広島と長崎で何十万もの人命が失われる。そして8月14日に御前会議が開かれ、昭和天皇(本木雅弘)の聖断のもと、閣僚たちは降伏を決定。だが、終戦に反対する畑中少佐(松坂桃李)ら若手将校たちはクーデターを計画、皇居やラジオ局への占拠へと動き始める。そのときから、天皇の玉音放送が国民に届く8月15日正午まで、いったい何が起こったのか?
                    ※
 かつて鈴木貫太郎が侍従長を務めた際に、阿南惟幾は侍従武官の任にあって昭和天皇の信頼が篤かったといいます。その阿南陸軍大臣は、和平を求める天皇や最高戦争指導者会議と、本土決戦を主張する青年将校との板挟みにあって、クーデターの失敗、降伏を告げる玉音放送のあとで自決する。その間、徹底した軍国主義者の東條英機陸軍大将らが戦争継続を主張する存在として登場する。この戦争の責任をとって自裁すべき人間は、阿南以外にもいたのではあるまいか? すべての状況が降伏に流れたとき、阿南が海外放送で聞く曲がある。それはヴェラ・リンが歌うワルツ“また会いましょう”。原田監督が尊敬するスタンリー・キューブリック監督の「博士の異常な愛情」のラスト、核爆弾のキノコ雲が地球上を覆いつくすシーンで使われた。日本の終戦時に対する原田監督の大いなる比喩といえようか。
                    ※
 先ごろ、宮内庁が玉音放送の原盤を公開して話題になりましたが、本作では、この原盤を青年将校たちが奪おうとするくだりが目新しいところです。侍従職たちは必死に玉音盤を守り抜き、自分たちの気持ちを国民に向けて放送させてほしいとNHKに押し入る兵士を阻止しようとする放送局員たち。また、東京大空襲や、広島・長崎への原爆投下のシーンには心が塞がります。更に言えば、閣僚・軍部の視線だけではなく、戦争の一番の被害者だった庶民の姿をスケッチするくだりも、もう少しあってよかった。本作は、運命を決した“日本のいちばん長い日”を克明に描いたもので、若い世代にとっていい勉強になると思います。
                    ※
 いまから思うと、当時の日本の支配者たちは、愛国主義、軍国主義、滅私奉公、国体、本土決戦などと、極めて古臭いモラルに裏打ちされた存在だったようです。なかでも、クーデター・本土決戦派として狂奔する若い将校たちの激昂ぶりはナンセンス(映画では、彼ら将校の出入りが不明な部分がある)。日本敗戦の8月15日。福島県に疎開していたぼくは、母親の手に引かれて田舎道を歩いていた。そして、「もう戦争は終わったの?」と母に確かめて、幼いながらホッとしたことを覚えています。その後、埼玉県に移り、終戦の翌年に小学校に入学。以後、貧困と飢えに悩まされる数年間が待ち構えていました。(★★★★)


アブストラクトで皮肉な人間スケッチ「さよなら、人類」

2015-08-06 15:05:06 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 スウェーデンのロイ・アンダーソン監督は、実にユニークな映像作家です。彼の新作が、“リビング・トリロジー”3部作の最終章といわれる「さよなら、人類」(8月8日公開)。全39シーンを、固定カメラ、1シーン1カットで撮影。ロケーションはなく、巨大なスタジオにセットを組み、4年の歳月をかけて創り上げたという。徹底的に練られた遠近法の構図や配置、細部にまでこだわった配色や美術、エピソードが絡み合う構成。まるで、ダイナミックで完璧な動く絵画のような趣を持つ。同監督は言う―「抽象を濃縮し、精製し、単純化する。各シーンは記憶や夢のように、浄化された状態で現れなければならない」と。その結果、この作品は2014年のヴェネチア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を獲得した。
                    ※
 物語の主人公は、面白グッズを売り歩く冴えないセールスマン・コンビ、サム(ニルス・ウェストブロム)とヨナタン(ホルガー・アンダーソン)。商品は、ドラキュラの歯、笑い袋、歯抜けオヤジのマスクなど。そして彼らは、現代のドン・キホーテとサンチョ・パンサのように、さまざまな人生を目撃する。ワインを開けようとして心臓発作で死んでしまう夫と、そのことに気付かず料理を作り続ける妻。臨終の床にいる老女は、天国に持って行くため宝石の入ったバッグを手放さない。更に、現代のバーに突然現れるスウェーデン国王カール12世率いる18世紀の騎馬隊。それは未来なのか、過去なのか、はたまた夢なのか…。何をやっても上手くいかない人々の哀しくも可笑しな人生が万華鏡のように映し出される。
                    ※
 それらは一見コントの連続のようでいて、人間の営みの愚かさ、滑稽さ、生と死、たまには恐怖、そして真実を浮きぼりにする。面白グッズが売れずに、いがみ合うサムとヨナタン。「元気そうで何よりね」と、おざなりに携帯電話に向かって呟く人々。そんな中に、歴史の不条理が出現する。モスクワ遠征に出かけるスウェーデン国王は、バーで働くハンサムな青年に言い寄る。クライマックスでは、巨大シリンダー状のオルガンが崇高な音楽を奏でている。周囲をイギリス兵が取り囲む。鳴り響くのは、オルガンの中でゆっくりローストされているアフリカの囚人たちの哀れなうめき声。アブストラクトな筆致で、権力や国家の残忍さをスケッチする秀逸なシーンだ。そして、愚かしくも平和な人類の日常は流れていく…。
                    ※
 アンダーソン監督は、クローズアップを用いず、ロング&ミディアム・ショット中心の画面を重ねていく。そこに浮かび上がるのは、シュールな絵画・演劇的な映像―それでいて、人間の日常の群像に肉薄する。映画の邦題は「さよなら、人類」だが、原題を訳すと「生存を熟考する枝の上の鳩」となる。冒頭、博物館の場面。大きな顔を覗かせる恐竜の全体骨格。展示された剥製を見つめる男。画面手前のガラス・ケースには、木の枝に止まる鳥の剥製が収まり、無言で人間たちを見下ろしている。「散歩する惑星」(00年)、「愛おしき隣人」(07年)、そして本作と“リビング・トリロジー”で、アンダーソン監督は悲喜劇を用いて「私たちは何をしているのだろう? 私たちはどこへ行くのだろう?」と問いかけたという。
                    ※
 またアンダーソン監督は、すべてのセリフを書いた完全な脚本なしに製作をすすめるとか。スケッチやドローイングを壁に貼り付けていくだけの作業。いわば、頭の中にある観念、イメージの連鎖が最後に映画として編集されるわけだ。そして、それらを支える思いとは? 「ある意味、私の映画はすべて屈辱について描いている。私は労働者階級に育ち、親類が上司の前で罪の意識を芽生えさせるだけだったのを見てきた。人生において、すべて経験してきたからこそ、私はそういったことと戦おうと決めた」と、71歳の同監督は言う。そういえば、サムとヨナタンが売り歩くドラキュラの歯、歯抜けオヤジのマスクといったバカバカしい商品こそ、現代に流通する商品の象徴といえるのかもしれない。(★★★★+★半分)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村