わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

日系移民社会の裏側に焦点を当てた「汚(けが)れた心」

2012-07-30 19:46:55 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

3_2 ブラジルのヴィセンテ・アモリン(「善き人」)が監督、日本とブラジルのスタッフ・キャストによる異色作が「汚(けが)れた心」(7月21日公開)です。ブラジル資本100パーセントで製作された作品で、日本が第二次世界大戦で敗れた直後、地球の裏側で“もうひとつの戦争”が繰り広げられたという驚きの事実が明かされる。多くの日本人にとって、かつて知られることのなかったその凄惨な出来事は、世界最大の日系人居留地であるブラジル移民社会でも封印され、長らくタブーとされてきたという。原作は、ブラジルの作家フェルナンド・モライスのノンフィクションで、歴史の闇に光を当てた真実の物語だ。
                    ※
 第二次世界大戦直後のブラジル。サンパウロ州の小さな町に住む日系移民の大半は、日本が戦争に勝ったと信じていた。当時のブラジルと日本は国交が絶たれており、移民たちが正確な情報を入手することは困難だったのだ。そんな状況の中、日系人コミュニティーのボスで元日本帝国陸軍大佐ワタナベ(奥田瑛二)は、大和魂の名のもとに裏切り者の粛正に乗り出す。彼の一味が標的にしたのは、日本が降伏したという事実を受け入れた同胞たち。ワタナベによって刺客に仕立てられた写真館店主タカハシ(伊原剛志)は、血腥い抗争の中で心身ともに傷つき、妻ミユキ(常盤貴子)との愛さえも引き裂かれていく…。
                    ※
 なによりも、日系人同士が殺戮を行なったという事実に衝撃を受ける。ドラマはオーソドックスな展開だが、登場人物の容赦のない、緊迫感に満ちたやりとりがリアルだ。キーワードは「國賊」という言葉。ブラジル側による尋問で日本語通訳をつとめた人間の家の壁には「國賊」と大書される。勝ち側の手先になったタカハシは、彼に「日本の勝利を信じられない奴は日本人じゃない。お前は心が汚れている。非国民め!」とののしり、日本刀で抹殺する。こんなシーンを見ると、国家ってなんだろう、愛国心ってなんだろうと思ってしまう。事実、ブラジルの日系人社会には“臣道聯盟”という組織があったそうです。
                    ※
 原作者のモライスは、「この“隣人同士の喧嘩”で人の血が流れ、3万人を超える移民が逮捕された。私は“臣道聯盟”が、100万人を超す日系人社会の中で50年にわたって封印されてきた秘密だったことに気付いた」と言う。更にアモリン監督は、「この物語は、現代に生きる私たちにとって切実な問題-不寛容、人種差別、原理主義、真実という理念-をはらんでいる」と語る。そういえば、こうした浅はかで不当なバッシング現象は現代でも存在しますよね。暴力で真実を封じようとする不当な圧力、捻じ曲げられる事実。それによって、同じ民族、同胞同士、隣人たちが血を流さなければならないという不条理。
                    ※
 本作では、日本の俳優たちがブラジルでのオールロケに参加、現地のスタッフ&俳優とのコラボレーションに成功。主演の伊原剛志は言います。「このストーリーを日本人が手がけていたら、ブラジル人監督のように公平な目では撮れなかったでしょう」と。ブラジルの作家と映画監督が発掘した歴史に埋もれた真実を、日本の俳優が日本語で明らかにする。確かに、こうした手法でなければ、客観的な事実が把握されることはなかったかも。奥田瑛二がアソシエイト・プロデューサーとして参加、その狂信的な演技が印象に残る。そして、この血にまみれた事件の後日譚-映画のラストの余韻に要注目、です。 (★★★★)


屈折、捨てバチ、クレージーな青春像!「苦役列車」

2012-07-26 17:20:01 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

2 昨年、芥川賞を受賞した西村賢太の小説「苦役列車」が映画化されました(7月14日公開)。原作者自身は小説について「あくまでも一人の落伍者の内面描写が眼目であり…」と語っているが、山下敦弘監督は、屈折して捨てバチ、クレージーな青春像を、アクチュアルな自然体でとらえていきます。なんといっても「中卒後、定職に就かず、日雇い労働で稼いだ金も、酒と風俗に消える。唯一の趣味は読書…」という主人公・北町貫多を演じる森山未來のキャラクターが素晴らしい。「その街のこども 劇場版」(10年)や「セイジ-陸の魚-」(12年)で見せたアクの強い個性が、グーンとパワーアップされています。
                    ※
 ドラマの舞台はバブル前夜の1986年。19歳の貫多(森山)は、明日のない暮らしを送っている。日雇い肉体労働者生活、わずかな賃金は酒と風俗に消え、家賃は滞納するばかり。あるとき彼は、職場で新入りの専門学生・正二(高良健吾)と知り合う。孤独に過ごしてきた貫多にとって、正二は初めての友達ともいうべき存在に。やがて、古本屋で店番をする康子(前田敦子)にひと目惚れした貫多は、正二の手引きで彼女とも友達になる。でも“友達ってなんだ?”。友ナシ、金ナシ、女ナシ……不器用に、ぶざまに、屈折しながら、だが何かを渇望しながら生きてきた貫多は、戸惑いながら青春の日々を送っているが…。
                    ※
 山下監督は、日雇いの肉体労働で日々を過ごす貫多の浮き草生活をリアルにとらえ、彼の自我や本能、欲望を通して、むきだしの青春像を活写します。その手抜きのない、容赦なしの人間ドラマが、見る者の胸に突き刺さってくる。とりわけ場末の風俗店や居酒屋、海岸の倉庫での労働などの描写が実に生き生きとしています。自らはグータラな生活を送っているくせに、いい加減な奴らに対する貫多の痛烈な批判や痛罵が小気味いい。ひと目惚れした康子には「やらせてくれる?」と突撃攻撃、無二の親友になったはずの正二に恋人ができると突如罵倒する。貫多にとっては、生ぬるく曖昧な人間性が禁忌なのです。
                    ※
 時代は昭和末期。ロケ撮影は、当時の風情が残る場所で行われたとか。風俗店、貫多の安アパート、康子がバイトしている古書店などがリアルに再現。ファッションや風俗も、当時のものを考証したとか。でも、描かれているテーマは、今日の貧困青年そのものです。ラスト、すべてを失い、チンピラにボコボコにされて、裸でボロ・アパートに帰ってきた貫多が、そのままの姿で机に向かって原稿を書き始める。そのあたりは、原作者の自伝的要素を投影しているらしい。創作や芸術は、案外そんな捨てバチの果てにたどり着いた地点から生まれるのかもしれない。山下映画の傑作が生まれました。 (★★★★★)


フレッシュなカナダ映画「ぼくたちのムッシュ・ラザール」

2012-07-19 20:27:38 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

Photo フィリップ・ファラルドー監督・脚本のカナダ映画「ぼくたちのムッシュ・ラザール」(7月14日公開)は、学校教育の問題を通して、さまざまなテーマを提供する話題作です。女優としても活躍するエヴリン・ド・ラ・シュヌリエールの戯曲を原作としていて、彼女自身も映画の中で主役の少女アリスの母親を演じている。カナダのアカデミー賞といわれるジニー賞では、作品賞はじめ主要6部門を独占。今年開催された米アカデミー賞では、外国語映画賞にノミネート。2011年のカナダ映画を代表する作品になっています。
                    ※
 物語の舞台は、モントリオールの小学校。ある冬の朝、教室で担任の女教師が首を吊って死んでいる。生徒たちはショックを受け、学校は生徒たちの心のケアと、後任探しの対応に追われる。そんな中、アルジェリア移民の中年男性バシール・ラザール(フェラグ)が代用教員として採用される。朴訥で、少々野暮ったいラザール先生は、授業内容も古臭い。だが、いつも真剣に向き合ってくれる彼に、生徒たちは次第に心を開き始める。このラザールにも、祖国で心に傷を負った経験があり、彼自身、政治難民の申請中だった。
                    ※
 まず主要なテーマは、生と死に直面する生徒たちの問題です。女教師の死が自分のせいではないかと動揺するシモン少年(エミリアン・ネロン)。彼と同時に先生の死を目撃しながらも、後任のラザールを信頼し、新しい環境を受け入れようとする少女アリス(ソフィー・ネリッセ)。彼ら生徒たちのキャラがフレッシュで、それぞれが抱える悩みが生き生きと浮きぼりにされます。そして、ラザールが象徴する難民問題。ラザールは祖国アルジェリアで先進的な教師だった妻と娘たちをテロで失い、ケベック州で難民申請中の身。彼は教員の資格も持っておらず、ましてや永住権すら無いことが最後に公になってしまう。
                    ※
 いわば本作は、難民先生の目を通して、教育や学校内の矛盾、文化の落差をクローズアップしていきます。先生の死を生徒の目から逸らし、極力刺激を与えないで穏便に済まそうとする学校側。対してアリスやラザール先生は、子供たちが愛する人の死を乗り越えなければならないことを自覚している。そこから起こる学校側との確執。カナダでは、毎年100以上もの国から平均44,500人の移民を受け入れ、合計すると約70万人の移民が住んでいるというが、彼らの価値観が新しい血を導入している、ということなのでしょうか。
                    ※
 ファラルドー監督は、教室や校庭での子供たちの生態を淡々とみつめ、ラザール先生の飄々とした態度が現実と対峙していく過程を、ほんわかととらえていきます。そんなカナダの小学生の物怖じしない、真実と向き合う態度を見ていると、日本の生徒たちよりも遙かに大人に思えてくる。ムッシュ・ラザールを好演するフェラグは、自身アルジェリア生まれ。フランスとカナダを旅しながら舞台活動に参加。のちチュニジアに移住するが、1995年、舞台出演中に劇場の女子トイレで爆発が起こり、危険を感じてパリに亡命。コメディアン、演出家、作家として活躍、映画にも多数出演しているという。 (★★★★)


知的無頼派チアン・ウェンの傑作アクション「さらば復讐の狼たちよ」

2012-07-14 18:21:57 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

Photo チアン・ウェン(姜文)は、中国映画界で独自の地位を築いた俳優・監督です。俳優としては、「芙蓉鎮」(86年)、「緑茶」(03年)などに出演。93年に「太陽の少年」で監督業に進出。2作目の「鬼が来た」(98年)で監督・脚本・主演を兼ね、00年のカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得。常に反骨精神を貫いて、映画作りを続けてきた。彼の4作目の監督作品(兼共同脚本・主演)が、歴史アクション「さらば復讐の狼たちよ」(7月6日公開)です。この作品で、チアン・ウェンは中国監督協会最優秀監督賞を受賞、中国映画歴代興行収入№1のヒットを記録したそうです。
                    ※
 ドラマの舞台は、孫文が辛亥革命を起こしたのち、政治が腐敗し、軍閥が割拠した1920年頃。金で県知事の地位を買った詐欺師マー(グォ・ヨウ)一行が、地方都市・鵝城に向かう。だが、彼らが乗った列車が、アバタのチャン(チアン・ウェン)率いるギャング団に襲撃される。妻と共に捕えられたマーは、県知事になれば金儲けができると、チャンに知事になりすますようにそそのかす。こうしてチャン一味は県知事として鵝城に向かうが、そこは金と暴力ですべてを牛耳る独裁者・ホアン(チョウ・ユンファ)が支配する街だった。そして、チャンとホアンとの間に、民衆を巻き込んだ戦いが始まる…。
                    ※
 映画は、痛快かつ笑いを呼ぶコミカル・パロディー・アクションに仕上がっています。登場人物すべてのキャラが強烈で、個性的。かつ、中国革命や現代中国社会のパロディーが下味になっている。チアン・ウェン演じるギャングのボスが、人身売買や麻薬の密売で儲けるホアンに憤りをおぼえ、いつしか正義感に燃えて、民衆の側に立ち革命家の悲哀を味わうくだりなどは、なんとなく、かつて革命のリーダーだった毛沢東を彷彿させます。そして、物語の底に流れるのは、中国人独特の価値観=無頼の正当性。冒頭のチャン一味が馬列車を襲うシーンから、街での戦いまで、容赦ないアクションにも魅せられます。
                    ※
 劇中至る所に織り込まれた中国革命史をなぞるような描写や、汚職や腐敗に満ちた社会を風刺した個所が話題になり、中国では大きな反響を巻き起こし、この状況を重く見た当局は上映館数を減らすように指示したが、勢いが止まることはなかったとか。チアン・ウェンの豪快な正義漢ぶりはもとより、薄気味悪い大悪党を演じるチョウ・ユンファの迫力も十分。「製作中、無意識のうちに自分自身の信念や感性をチャンのキャラクターに組み込んだかもしれない」とチャン・ウェンは言う。でも“無意識のうちに”というよりは、明らかに“故意に”という感じ。チャン・ウェン自身、まさに知的な無頼派なのです。 (★★★★)


亡命チベット少年の運命から3:11を透視する…「オロ」

2012-07-10 19:54:13 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

13 いま77歳、岩波映画出身の岩佐寿弥監督が、3年間かけてチベットの少年をカメラで見つめた作品が「オロ」(6月30日公開)です。チベットは現在中国の一部になっていて、独自の文化や言語が否定され、独立運動が弾圧されています。1959年に指導者ダライ・ラマ14世が亡命、インド北部のダラムサラにチベット亡命政府を樹立。チベット難民数は、インド・ネパールを中心に全世界で約15万人といわれ、中国との紛争が絶えない。この映画の主人公オロ少年も、母親に背中を押されて6歳のときにチベットから亡命。いまはダラムサラで、亡命政府が運営するチベット子ども村に寄宿して、学んでいるという。
                    ※
「なぜ母は、ぼくを異国へ旅立たせたのだろう?」-自力でその答え=生きる道を探し求めるオロの姿を、岩佐監督はカメラで追っていきます。冒頭、監督の「ヨーイ、スタート!」のかけ声を受けて、オロがダラムサラの町の狭い路地を戸惑いながら駆け抜ける場面に引き込まれます。夏休み、オロは中国と闘ったことのある怖いおじさんの家で過ごす。そこで、遊び仲間の姉妹と彼女らの母親に会う。姉妹の父親は、チベット本土で映画を作ったという理由で逮捕され、中国の刑務所にいるという。冬休み、オロは岩佐監督とネパールのポカラへの旅に出る。そして、監督が10年前に作った映画の主人公に出会う。
                    ※
 いわば映画「オロ」は、岩佐監督がチベットの悲劇に私的に迫った作品といっていい。そこにあるのは、祖国から追われた人々の故郷への思い、そして彼らの明るさと心の温かさ。現地でとらえられたオロ少年の心の軌跡は、決してドキュメンタリーではなく、監督の思いの枠内でのドラマになっています。オロが監督と“孫とおじいちゃん”のように旅をして、心の扉を開いていくくだりが印象的だ。オロは、ポカラの難民キャンプで出会った三姉妹の前で、亡命のときに体験した過酷な記憶、自らのトラウマとなった出来事を語り始める。監督のおかげで知らない人たちと胸襟を開きあい、「それでも、ぼくは歩いていく」と決意するオロ少年。
                    ※
 そして、映画はどこへつながっていくのか? 岩佐監督は、本作を撮りたかった理由を、こう語る-「どうやら国が壊れたあの時の少年=自分に出会いたがっていたのではないか」と。“あの時”とは、67年前の日本の敗戦時のこと。「それを、ぼくは10歳のときに体験した」。敗戦時の焼け跡の荒廃した風景。それは更に、昨年3月11日の東日本大震災の情景につながる。「ぼくの中で『オロ』は、“チベットの少年”という枠を超えて、日本の、いや地球上のすべての少年を象徴するまでに変容していった」と監督は付け加える。事実、本作の編集中、昨年3:11の午後2時46分に東北で大地震が起こり、大津波が来襲した。
                    ※
 この種の作品を見ると、映画とは何なんだろう、と考えさせられます。現実にコミットし、未来を見つめるために、現地に出向き、何年でも腰を据えて対象を凝視する。そうした映画作りが、TVのバラエティー・ドラマの映画化などとは遙かに乖離したものであることは明らかだ。たとえば、ニューヨーク在住の日本人女性監督・楽真琴(ささ・まこと)は08年に、33年間の投獄と拷問を体験したチベット僧パルデン・ギャツォの実像に迫った傑作ドキュメンタリー「雪の下の炎」を発表しました。映画とは、それがどんな形であれ、作者と現実との格闘から生まれるべきではないのか。そんな風に思います。 (★★★★)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村