わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

驚くべき五体投地の旅!「ラサへの歩き方~祈りの2400 km」

2016-07-29 17:03:10 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 チベット自治区東端にある小さな村から聖地ラサへ、そして西のカイラス山へ。2400kmを“五体投地”で、ほぼ1年かけて歩く11人の村人のチベット巡礼旅。チャン・ヤン(張楊)監督の中国映画「ラサへの歩き方~祈りの2400km」(7月23日公開)は、チベット人の祈りの旅を克明に追った驚異のロードムービーです。五体投地とは、両手・両膝・額(五体)を地面に投げ伏して祈る、仏教でもっとも丁寧な礼拝方法。彼らは、巡礼用の靴を買い、歯の無い下駄のような手板と皮の前掛けを身に着け、地に身を投げ、まるで尺取虫のように這いつくばって聖地を目指す。「こころの湯」「胡同のひまわり」などで庶民の視線に寄り添った映画作りを見せたチャン・ヤン監督が、新境地を切り拓いたドキュ・ドラマの傑作です。
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 チャン監督は、助監督時代からチベット文化に憧れていたという。そして今回、20年以上も温めていた企画が実現した。監督は、チベットでのロケハン途中、8~9戸の人家しかないマルカム県プラ村で、映画の中の配役とすべて出会うことになったそうだ。結果、ほぼ3家族のうちの11人が、最終的に旅に出る巡礼チームのメンバーになった。仲間は、老若男女入り混じり、中には妊娠6か月前後の女性も、幼い少女もいる。彼らが監督の要請に応えたのは、ニマという男が、死ぬ前にラサへ行きたいと願っていた亡き父の弟ヤンペルの思いを叶えようとしたことから始まった。撮影期間は1年以上。巡礼の準備から始まり、チベット人の食事の仕方、団欒の過ごし方、祈り方から始まり、すべてがカメラに収められた。
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 一行を先導するのは、リーダーのニマが運転する大型トラクターだ。野宿用テントや夜具、食料が積んである。手にマニ車を持った老いたヤンペルと、妊婦のツェリンは五体投地をせずに歩く。途中、ツェリンは腹痛を訴えたあげく、病院で元気な男の子を産む。同行者が、ひとり増えたわけだ。また、落石で足を負傷した男のため数日休息する。道が川のように水であふれている個所では、飛び込むように五体投地をする。トラクターがほかの車に追突され、車軸が折れると、荷台だけを皆で押して進む。その際、人々は進んだ分だけ後戻りして、五体投地を続ける。やがてラサに到着しチョカン寺に詣でるが、カイラス山に向かう費用が底をついたために、一行は働いて金を稼ぐことにする。旅は、彼らの生活の延長でもある。
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 では、彼らはなぜ、このような辛苦の旅に身を捧げるのか? 旅の途中で出会った元村長は言う。「巡礼とは、まず他者のために祈り、それから自分の幸せを祈るものだ」と。一行は、泊めてもらったお礼に男の畑を耕す。交通事故を起こした相手をとがめずに、ニマらは病院へ急げと見送る。ラサで泊った宿の女主人に請われて、代わりに10万回の五体投地をする。ここには、人間の生き方の原点がある。祈り、五体投地、テントでの睡眠、日常生活、赤ん坊の誕生と生と死。正月から始まり、また冬へと向かう季節、カイラス山に着いたとき、ヤンペルが息を引き取る。彼は、面倒をみた青年によって山に運ばれ、鳥葬にふされる。チベットで鳥葬は、魂の抜け出た遺体を“天国へ送り届ける”方法になっているという。
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 祈りと素朴な生活、互いにカバーし合う共同体、出会った人(他人)を懐に受け入れる、傷害にぶつかっても淡々と乗り越える。旅の途中に、チベット人の生活と哲学ともいうべきものが存在するのだ。それは、見る者の生活・人生観を根底から揺さぶる。いわば、人間性の原点回帰といってもいい。だが、こうした素朴な営みの中にも、現代性が垣間見える。一行が五体投地をしながら進むのは、アスファルト舗装された公道中心だ。道にひれ伏して進む彼らの脇を、トラックや乗用車がビュンビュンと走り過ぎる。そんな彼らをバックアップするのも、ニマが運転するトラクターだ。更に、家族に連絡するのに携帯電話も使われる。
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 チャン監督は言う。「この映画はドキュメンタリーではない。脚本はなく、おおよそのプロットが頭にあるのみだった。頭の中には、人物のイメージと特徴、巡礼の途上でのさまざまな出来事―赤ん坊が誕生し、老人が亡くなるといった生と死の対比は存在していたが、その他はさほど具体的ではなく、撮影しながら考えていく必要があった。この作品は、映画の可能性を探る意味合いを持っていた」と。カメラは、一行11人のキャラを活かしながら、彼らの旅と試行錯誤に寄り添っていく。同時に、チベット人の生活の細部を活写する。地面に這いつくばって2400kmの旅をする驚天動地の世界。それはまた、私たちの日常に対する鏡の役割も果たす。まさに、チャン・ヤン監督の新境地を示す作品である。(★★★★★)


映画界最大の汚辱の時代「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」

2016-07-23 13:47:11 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 オードリー・ヘップバーン主演「ローマの休日」(1953年)は、いまだに人気が衰えない恋愛映画の名作です。だが、誰がこの物語を思いつき、脚本を書いたのかを気に留める人はほとんどいない。クレジットされている脚本家イアン・マクラレン・ハンターはアカデミー原案賞に輝いたが、本当の作者はハンターの友人ダルトン・トランボ(1905~1976)だった。またトランボは、偽名による別の脚本「黒い牡牛」で3年後に再びアカデミー賞を受賞した。このように優秀な脚本家が、なぜ長らく偽名での活動を強いられたのか。1940年代から1950年代ハリウッドの悪夢の時代を舞台に、彼の苦闘と復活の実像を再現したのが、ジェイ・ローチ監督の「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」(7月22日公開)です。
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 ソ連との冷戦下の1947年、共産主義者を弾圧する赤狩り(レッドパージ)の矛先がハリウッドに向けられ、脚本家ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)が標的にされた。自らの信念を貫き、下院非米活動委員会の公聴会で証言を拒んだトランボは、議会侮辱罪で投獄される。こうして、国家への反逆罪のレッテルを貼られ、ハリウッドのブラックリストに載せられたかつての人気脚本家は、1950年に投獄され、翌年に出所したあとも公に活動できなくなった。だが、愛する妻クレオ(ダイアン・レイン)や子供たちの支えを得たトランボは、幾つもの偽名を使い分けて密かに脚本を書き続け、不屈の戦いを繰り広げた…。
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 トランボ自身は若いころ共産党員だったが、過激な思想を持たない穏健派であったという。不屈の人だが、決して激しい行動には出なかった。だが、不本意に投獄された際、裸体にされて性器の裏側や肛門の中までチェックされるくだりが理不尽で衝撃的だ。彼にとって、恥辱の極みだったといっていいだろう。そんな彼が、1951年に出所後、妻クレアや長女二コラ(エル・ファニング)らの支えを得て、仕事に復帰する姿がすさまじい。生活苦をしのぐために格安のギャラでB級映画の脚本執筆を請け負い、浴槽に入ってタバコと酒をたしなみながらタイプライターに向かう風変わりな一面がエピソードとして紹介される。
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 同時に、トランボをめぐるハリウッドの裏切りと共鳴の構図も、実名入りで明るみに出される。言論と思想の自由を訴えるトランボに、いわれなき非難の言葉を浴びせるのは、ジョン・ウェインや映画コラムニストのヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)らだ。はじめ赤狩りの標的となったギャング映画の名優エドワード・G・ロビンソンは、公聴会の席でかつて理想を語り合った仲間を密告、トランボの名も含まれていた。そして、再出発後の彼を支えたのは、B級映画専門キング・ブラザース社のフランク・キング(ジョン・グッドマン)、赤狩りに異を唱えるカーク・ダグラスはスタンリー・キューブリック監督「スパルタカス」で、オットー・プレミンジャー監督は「栄光への脱出」でトランボに脚本を依頼してくる。
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 また、記録映像や映画の一部フッテージも挿入される。赤狩りの先鋒となったジョセフ・マッカーシー上院議員やロナルド・レーガン。更に「ローマの休日」で、オードリー・ヘップバーンが恐るおそる真実の口に手を入れる名シーンなど。同時に、こうした受難の時代にトランボを支えた家族愛の描写が印象に残る。周囲の冷たい目にさらされ、生活が困窮するなか、彼を支えた妻子。トランボの出獄後、家族は電話の応対や脚本の配達を手伝い、彼を助ける。1954年3月のアカデミー賞授賞式で「ローマの休日」が原案賞を受賞した際、家族はトランボを祝福し、ささやかな喜びを噛みしめる。トランボの苛立ちは、多感な娘二コラの心を傷つけることもあったが、その陰には優しく家族を見守る賢妻クレオの姿がある。
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 ジェイ・ローチ監督は、「オースティン・パワーズ」シリーズなどで人気を得たが、TVムービーで政治的なテーマに挑んでいる。不条理な時代に、決して権力に屈しなかった男の長く孤独な闘い。それを歯に衣を着せずに描き出す姿勢が素晴らしい。彼は言う―「社会から追放されても、こっそりバスタブの中で書いたり、友人の脚本家たちと書くことを絶対に止めない。最悪の状況の中で傑作を生みだすというところに感動した」と。トランボに正式にオスカー像が贈られたのは、「黒い牡牛」が1975年、「ローマの休日」は死後に夫人に渡された。ラストは1970年、トランボが映画脚本家ギルドから功労賞を贈られるくだり。その際のスピーチは、「この問題にヒーローはいない、いるのは被害者だけだ」だった。(★★★★★)
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[ハリウッドを襲った赤狩り(レッドパージ)とは?] ソ連との冷戦時代、政府が共産主義者と同調者を取り締まった運動のこと。中心的役割を担った下院非米活動委員会は、疑いの目を向けたハリウッドの映画人を公聴会に召喚。最初の標的となり、証言を拒否して議会侮辱罪に問われた10人は“ハリウッド・テン”と呼ばれ、最も有名なのがダルトン・トランボだった。また、「真昼の決闘」の脚本家カール・フォアマン、のちに「日曜はダメよ」を手がけるジュールス・ダッシン監督、「十字砲火」のエドワード・ドミトリク監督、チャールズ・チャップリンらが告発されたあげく、ヨーロッパに渡った。


ただ“喋る”だけの青春、そこに潜む光と影…「セトウツミ」

2016-07-18 14:41:32 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」や「まほろ駅前」シリーズで、若者たちの日常の心情を鮮やかにとらえた大森立嗣監督。新作「セトウツミ」(7月2日公開)も、実にユニークな作品です。原作は、“別冊少年チャンピオン”で連載中の此元和津也の同名漫画。ウィットに富んだセリフと独特な“間”のセンスを駆使、ユニークな関西弁での“会話”の面白さで読者を惹きつけているという。本作でも、ふたりの高校生の、全編川原の石畳でのムダ話が繰り広げられる。ツッコミまくって時間をつぶすインテリメガネの“内海”を演じる池松壮亮と、ボケまくって時間をつぶすツンツン頭の“瀬戸”役・菅田将暉のやりとりが愉快だ。
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 高校2年生の内海想(池松壮亮)と瀬戸小吉(菅田将暉)は、いつも放課後を川原でダラダラ喋りながら一緒に過ごす。性格は真逆のようだが、くだらない言葉遊びで盛り上がったり、好きな女の子に送るメールの文面で悩んだり、時にはちょっと深いことも語り合ったり…ふたりでいれば、中身があるようでないような話も尽きない。そんな彼らを影ながら見守るのは、同級生の女の子・樫村一期(中条あやみ)だ。瀬戸は彼女が好きだけど、樫村は内海が気になっていて、内海はそんな彼女につれない素振り。更に、ヤンキーの先輩・鳴山(成田瑛基)や、謎のバルーンアーティスト(宇野祥平)らが、ふたりの日常にちょっとした荒波を立てる。まったりと流れる時間の中で移ろう季節。瀬戸と内海の無駄話は止まらない…。
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 映画は、6話と第0話、エピローグの8話から成る。学校が終わったら塾へ行くまでの間、お気に入りの川原でイヤホンから音楽を聴きながら本を読む内海。そんなある日、先輩と揉めてサッカー部を辞めたらしい瀬戸が侵入。以後、ふたりの川原での会話が始まる(第0話)。その他、女の子に送るメールのこと、ちょっとした諍い、離婚協議中の瀬戸の両親、内海の家庭の事情などのエピソードが入る。中でも、瀬戸の誕生日に、内海が大道芸人のバルーンさんから手に入れたバルーンアートの花を頭に飾ってやるシーンが傑作だ。ピエロの恰好をしたバルーンさん、夏の花火、猫、季節の移り変わりを示すイメージショットが印象的。そして、かったるいような関西弁の雑談から、青春の光と影がキラめきだしてくる。
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“セトウツミ”の語源は“瀬戸内海”だという。「瀬戸と内海のモデルは僕自身。自分の中にいるふたりのキャラクターを瀬戸と内海に分けたという形です。関西弁なのにリアルなやり取りの面白さみたいなものを知ってほしい」と、原作者の此元さんは言う。世の中をシニカルに見つめながらも、瀬戸に対しては鋭く突っ込みつつ見守る内海。そんな彼に、天然の明るさと瞬発力で応じるお調子者の瀬戸。川原の階段に座って、時々の気分で会話するふたり。特別な出来事は起こらないが、雑談から彼らの悩みや苛立ちが立ちのぼる。大森監督は、池松壮亮と菅田将暉に「台本はあるけれど、そのときそのときで相手が何を言っているのかちゃんと聞いて、そのつど考えてリアクションするように」とアドバイスしたとか。
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 映画の構成、演技、カメラアングル、イメージともに斬新で、かつてない試みといっていい。映像(イマジネーション)も豊か。とりわけ川原のショットは、考えられるあらゆるアングルからとらえられる。原作の舞台は作者の住む大阪の町に実在する場所であるというが、本作でも撮影は、ほぼ全編、大阪の堺市で行われたという。撮影日数は10日間。上映時間1時間15分に収められた。エピローグでは、内海が、実家の寺の前を掃除している樫村の前を何気なく通る。そして、川原で落ち合った瀬戸と内海の周りでは、雪がちらつき始める…。何気ない日々のくだらなさや可笑しみ、愛おしさ。バカバカしさとシリアスさの同居。大森監督は、散文的な語り口で現代の青春像をみごとに映し出した。(★★★★)


映画への愛、そして歴史への糾弾!「シアター・プノンペン」

2016-07-12 14:46:25 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 カンボジア映画史上、初の女性監督ソト・クォーリーカーのデビュー作が「シアター・プノンペン」(7月2日公開)です。1975年からカンボジアを呑み込んだ暗黒の3年8か月20日、その間クメール・ルージュの圧政により国民の4分の1が命を失い、知識人はもとより、一般大衆までも巻き込む空前の悲劇がもたらされた。本作は、そんな時代をくぐり抜けた1本の恋愛映画をめぐって繰り広げられるヒューマン・ドラマ。クォーリーカー監督は、クメール・ルージュ政権下と、その崩壊後の混乱と内戦の時代に育つ。民間飛行機の操縦士だった彼女の父親は、軍への入隊を拒否したためクメール・ルージュに殺されたという。
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 カンボジアの首都プノンペン。女子大生ソポン(マー・リネット)が、廃墟のような映画館で見た古い恋愛映画「長い家路」。クメール王国を舞台に、1974年に作られたその未公開作の主演女優は彼女の母親だった。美しく輝いていた母の知られざる女優時代。そして、40年間も母を慕い続けている映画館主で映写技師のソカ(ソク・ソトゥン)。映画の最終巻が失われていることを知ったソポンは、ソカや大学の映画学科の教授・学生とともに、映画を完成させようと決心する。いまは病床にある母(ディ・サヴェット)のために。だが、その時から、厳しい軍人の父、かつて母と愛し合った映画監督など、世界を揺るがせたクメール・ルージュの時代を懸命に生きた人々の、半世紀にも及ぶ数奇な運命が明らかになっていく。
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 歴史上類がない悲劇から40年。冒頭では、現代のソポンの行動が描写される。彼女は、授業をさぼって遊びに明け暮れ、父が決めた将軍の息子とのお見合い話から逃げ回る。彼女のボーイフレンドのベスナは、ピストルを隠し持つ不良だ。そんなある晩、ソポンはベスナとはぐれ、夜の街をさまよううちにバイクの駐輪場として使われている廃墟の映画館にたどり着き、母の映画と出会う。このあたり、現代の無軌道な若者の生態描写に、40年前の悲劇がすでに歴史の闇に埋もれてしまった様子が浮きぼりにされる。しかし、1本の映画との出会いが、ソポンの心の中で過去の歴史の皮を剥いでいく。クメール・ルージュによって引き裂かれたソカと母の愛。いまだに過去の影を引きずる、クメール・ルージュ出身の父。
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 クォーリーカー監督は語る。「残念ながら、いまの若者はカンボジア人であることに誇りを持っていないように思える。多くは自国で起きた出来事を知らず、自分がどんな国の国民なのかを理解していない。過去を乗り越え、未来に向かうことが出来ない状態だ。大多数の知識人は、クメール・ルージュ時代に命を落とすか、外国に亡命した」と。かつての女優時代の母、見る影もなく病を得ている現在の母。過去の影を宿す父親。日常に潜むクメール・ルージュの影、虐殺と裏切りの歴史が浮上し、ソポンの家にも忍び寄る。そして、ソポンは母への愛ゆえに、映画の最終巻を復元することで母を再生させようとする。そこには、映画への愛によって過去の歴史(悲劇)を止揚しようとする監督の姿勢をうかがうことができる。
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 クメール・ルージュ時代、庶民への影響力を敵視された多くの芸能・芸術関係者が殺害されたという。映画人も例外ではない。本作の最後のクレジットには、虐殺された映画人の名前が掲げられている。ソポンの母を演じるディ・サヴェットは、この時代を生き延びたカンボジア唯一の女優といわれる。監督が子供の頃は、映画館などなかったそうだ。映画に登場するシアター・プノンペンは、多くの映画人を見守ってきた映画館で、かつての国立劇場として利用されてきた実際の劇場だという。この劇場を守り、ひそかに映画「長い家路」を映写し続ける映写技師ソカの気持ちが、痛いほど伝わってくる。そして、映画作りに身を入れ、父母の姿から歴史を認識するソポンの変身ぶりを演じるマー・リネットがチャーミングだ。
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 クォーリーカー監督の演出は、時に幻想的、時に時代を交錯させて、歴史の闇を暴いていく。彼女は言う。「ソポンが、母親のために映画のエンディングを作り直そうとする気持ちや愛情は、私と同じです。ソポンは自分の家族の歴史を探る過程で、国の歴史にも出会うのですが、私も映画を作りながら自国の歴史を発見することができた」と。クライマックス、最終巻を加えた「長い家路」がシアター・プノンペンで上映されるくだりが感動的だ。また、最後には思いがけない結末も用意されている。芸術、とりわけ映画は、政治・社会状況が深刻なときに佳作が生まれることは周知の事実です。そこには、必ず作者と歴史との格闘がある。安逸な社会から生み出される作品には、所詮オバカ映画が多いようです。(★★★★★)
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[クメール・ルージュ(Khmer Rouge)とは?] カンボジア共産党・極左集団のこと。指導者だったポル・ポト(本名はサロット・サル)の名前をとり、ポル・ポト派とも呼ばれている。彼らによる大虐殺を主題にした映画に、ローランド・ジョフィ監督の秀作イギリス映画「キリング・フィールド」(1984年)があります。


ワル警察官のピカレスク・ドラマ!「日本で一番悪い奴ら」

2016-07-05 17:11:26 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 白石和彌監督の「日本で一番悪い奴ら」(6月25日公開)は、北海道警察で実際に起こった不祥事をもとにした話題作です。2003年4月21日、北海道警察の警部だった稲葉圭昭が、覚せい剤の使用、営利目的所持、銃刀法違反の罪で“懲役9年、罰金160万円”の有罪判決を受けた。札幌地裁は“幹部警察官による前代未聞の不祥事”として、稲葉に判決を言い渡した。本作は、稲葉が執筆した「恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白」を原作にして製作された。でっちあげ、やらせ逮捕、おとり捜査、拳銃購入、覚せい剤密輸等、ありとあらゆる悪事に手を汚して点数稼ぎに精を出した警察官の姿を容赦なく描き出しています。
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 大学時代に鳴らした柔道。その腕っぷしの強さを買われて、柔道特別訓練隊員として北海道警・刑事となった諸星要一(綾野剛)。彼は、20代後半になって現場に配属されるが、叩き上げの刑事たちの前では右往左往するのみ。だが、ある時、署内随一の敏腕刑事・村井(ピエール瀧)から刑事の“イロハ”を叩き込まれる。警察組織に認められる唯一の方法―それは“点数”を稼ぐこと。あらゆる罪状が点数別にカテゴライズされ、熾烈な競争に勝利した者だけが認められ、生き残る。そのためには裏社会に飛び込み、S(エス=スパイ)を見つけ出せば、優先的に情報が手に入る、というのだ。こうして、諸星を慕って集まった元暴力団幹部・黒岩(中村獅童)をはじめ3人のSたちとの、狂気と波乱の四半世紀が始まる。
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 この諸星の出世街道を進む過程がすさまじい。S作りのため名刺を至る所にばらまき、裏社会との接触をはかる。結果、暴力団の幹部・黒岩と盃を交わし、札幌中央署のマル暴に移動。ロシア語が堪能なシャブの運び屋・山辺(YOUNG DAIS)、ロシアルートの拳銃横流しに精通するパキスタン人(植野行雄)をSにする。そして虚偽の拳銃摘発をし、銃器対策課の係長を拝命。上司から手早く拳銃の摘発をしたいと相談され、首なし(所持者不明の銃)を摘発。銃器対策課から予算を引き出し、ロシアや東京のヤクザに拳銃の仕入れを打診。そのうち拳銃の価格が高騰、黒岩の提案でシャブを捌くことで金を作る決断をする。やがて最終的に、税関・道警を巻き込んだ“日本警察史上、最大の不祥事”の幕が切って落とされる。
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 諸星を演じる綾野剛が熱演。そのワルぶりが痛快で、大いに笑える。警察内外で暴れまくり、点数を荒稼ぎし、腕利き刑事として高級クラブのホステスをモノにし、署内の美人婦警の心もつかんでしまう。そして「正義の味方、悪を断つ」という信念のもと、チンピラ風にヤクザの世界でのしあがっていくのだから始末が悪い。銃器対策のエースと呼ばれるまで昇りつめていく、そのプロセスはむしろ単純明快だ。それをやり過ぎて、やがて転落、夕張署へと飛ばされる。これが実際にあったことなのかは不明だが、それでは夕張市がかわいそう。そのほかの役者も個性的。腹の内が読めず、最後にドエライことをやる黒岩役の中村獅童。薄汚い刑事の典型で諸星の先輩を演じるピエール瀧。登場人物すべてがリアルな存在だ。
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 つまりは、この作品の主眼は諸星の暴走だけでなく、道警の組織ぐるみのヤラセ捜査(拳銃、麻薬)に置かれていて、組織の影の部分を暴いてもいるのだ。白石監督も「組織が逸脱しているから<悪い奴ら>なんですよ」と言う。「凶悪」(13年)で評価を得た同監督の演出は、細部も手を抜かずダイナミック。加えて、暴力・SEX・麻薬といった悪の描写で、いままでの邦画には無かった徹底ぶりを見せる。テーマが過激だけに、はじめ企画は難航したらしい。だが監督は「グッドフェローズ」や「カジノ」みたいな一代記をやったら、といわれ、ギャングの一代記のような映画が出来ると思ったとか。それは、ズバリ的中。映画の惹句のひとつに曰く―「日本で一番悪い奴ら、それは、警察だった」。(★★★★+★半分)


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