スウェーデン出身の俊才リューベン・オストルンド監督は、前作「フレンチアルプスで起きたこと」で、壊れゆく家族の絆をテーマにして高い評価を得た。彼の新作「ザ・スクエア 思いやりの聖域」(4月28日公開)は、第70回カンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞。以後、ヨーロッパ映画賞で最多6部門を制覇するなど各国の映画祭を席巻しています。有名美術館の中庭に展示された“ザ・スクエア”――地面に正方形を描いた珍妙な作品。その趣旨とは――「“ザ・スクエア”は<信頼と思いやりの聖域>です。この中では誰もが平等の権利と義務を持っています。この中にいる人が困っていたら、それが誰であれ、あなたはその人の手助けをしなくてはなりません」。この“ザ・スクエア”が象徴するのは理想的な思いやりの世界、というわけだ。だが、現実にそれが反映したものとは? 展示作品“ザ・スクエア”は、世間に思わぬ反響を生み、とんでもない大騒動へと発展していくのです。
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クリスティアン(クレス・バング)は、権威ある現代美術館のキュレーター。洗練されたファッションに身を包み、バツイチだが2人の愛すべき娘を持ち、キャリアは順風満帆のように見えた。彼は、新企画として“ザ・スクエア”という地面に正方形を描いたアート作品を展示すると発表する。四角の中は、人々に“思いやりの心”を思い出してもらうための聖域であり、社会をより良くするという狙いを持つ参加型アートだ。だが、ある日、携帯と財布を盗まれたクリスティアンは、GPS機能を使って犯人の住むマンションを突き止めると、全戸に脅迫めいたビラを配って犯人をあぶり出そうとする。その甲斐あって、数日たつと無事に盗まれたものは手元に戻ってくる。いっぽう、やり手のPR会社は、お披露目間近の“ザ・スクエア”について、煽情的なプロモーションを持ちかける。だが、あれやこれやの事件が重なり、クリスティアンの行動は同僚や友人、子供たちをも裏切るものとなる…。
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要するに、口では偉そうなことを言いながら、内実はエゴイズムの塊であるエリート(インテリ)の偽善を暴いた物語。“ザ・スクエア”は、逆にクリスティアンの本性を映し出し、彼のアンチテーゼとなるのだ。彼が撒いたビラによって激しく傷つけられた少年。クリスティアンはまた、女性記者アン(エリザベス・モス)とベッドをともにし、ほかにも女性遍歴が多いらしい。その背後に、アートとは何か? エリートとは何か? という問いが浮かび上がる。オストルンド監督は、更に低俗なジョークや下ネタを駆使して、この世の矛盾をブラックジョークに昇華する。クリスティアンのトークショーで卑猥な叫び声を上げる男。パーティーに紛れ込んで、上流人士を打ちのめすゴリラ男。更に、路上の物乞いが多く登場し、クリスティアンが彼らに施すくだりが皮肉に描かれる。また、GPSやスマホ、YouTubeなどのメディアの功罪。ここには、高度福祉社会に潜む矛盾も、みごとにあぶり出されます。
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本作のアイデアは、2015年、スウェーデンのベーナムーにあるデザイン美術館で催されたリューベン・オストルンドと、プロデューサーであるカッレ・ボーマンのアート展示“ザ・スクエア”から来ているという。当初それは、スウェーデン全都市の中心部に人道的な聖域を設置するというアイデアだったそうです。町の広場(スクエア)に設置された四角形(スクエア)の枠内では、すべての人に平等な権利と義務が与えられる。リアルな“ザ・スクエア”はベーナムーの町に設置され、成功を収めた。そして、同じような“ザ・スクエア”がロイヤルファミリーのいるグリムスタに設置され、次々に増えているとか。“ザ・スクエア”には、他人への思いやりを向上させる能力があり、周囲に他人が存在するとき、被害者を手助けしなくなるという社会現象“傍観者効果”に対して、プラスの影響をもたらす可能性があるといいます。こんな意想外なシンボルが、エゴ社会・日本にも存在するといいですね。
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オストルンド監督の語り口も、映像も流麗です。そして、ディテールを未解決のまま放り出し、ブラックな笑いを誘う。同監督のコメント――「この作品は、ドラマであり、風刺劇です。私は、映像的、修辞的な仕掛けを用いて観客を挑発し、楽しませるようなエレガントな映画を作りたかった。主題として、責任と信頼、富と貧困、権力と無力といったトピックに取り組んでいる。個人の重要性の増大と、コミュニティの重要性の低下。メディアや芸術における国家不信といったテーマです」。「クリスティアンは、口では理想主義を唱えながらもシニカルな行動をとり、強い面と弱い面の両方を持ち合わせている。彼は、自分が“インテリのエリート”という役割を期待されていることが分かっていて、それをどう演じればいいかも承知している。多くの人がそうなるように、歩くジレンマと化す」。またメディアについては、ますますセンセーショナルなイメージに変化したと言う。劇中、ヨーヨー・マとボビー・マクファーリンによる“アヴェ・マリア”が印象的に用いられている。(★★★★)
ドイツの名匠ファティ・アキンが、ハリウッドやヨーロッパで活躍するドイツ出身の女優ダイアン・クルーガーと組んで、異色作「女は二度決断する」(4月14日公開)を発表しました。ドイツ警察の戦後最大の失態と言われるネオナチによる連続テロ事件。初動捜査の見込み誤りから、10年以上も逮捕が遅れ、その間、犯人は殺人やテロ、強盗を繰り返したという。それら実際の事件から着想を得て、本作は製作されたそうです。理不尽な暴力によって、愛する家族を奪われた女性が、捜査や裁判の過程で心を引き裂かれる。警察や司法の生煮えな姿勢に愛想をつかした彼女が打って出た行動とは? 第75回ゴールデングローブ外国語映画賞を受賞、第70回カンヌ国際映画祭でクルーガーが主演女優賞を得た快作です。
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ドイツのハンブルク。カティヤ(ダイアン・クルーガー)は、トルコ系移民のヌーリ(ヌーマン・アチャル)と結婚している。かつてヌーリは麻薬の売買をしていたが、足を洗い、カティヤとともに真面目に働き、息子ロッコも生まれ、幸せな家庭を築いていた。ところが、ある日、ヌーリの事務所の前で白昼に爆弾が爆発、ヌーリとロッコが犠牲になる。警察は、外国人同士の抗争と疑って捜査を進める。だが、やがて在住外国人を狙った人種差別主義のドイツ人によるテロであることが判明。その後、容疑者は逮捕され、裁判が始まる。だが、カティヤ夫妻が被害者であるにもかかわらず、相手の弁護士らはヌーリの人種や前科をあげつらい、なかなか思うような結果が出ない。そのせいで、カティヤの心の傷は深まっていく。愛する人、愛する子供と生きる、ささやかな幸せ。それが一瞬にして壊されてしまったのだ。絶望のなかで生きる力を失いそうになりながら、カティヤがくだした決断とは……?
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背景には、移民の受け入れと排斥の問題があります。ヌーリは、トルコ人街で在住外国人相手にコンサルタント会社を営んでいる。若い女性が、その事務所の前に置いた自転車の荷台のボックスが爆発する。夫と6歳の息子の無惨な死に直面したカティヤは、警察の事情聴取を受ける。警察は、彼女に質問する。ヌーリは熱心なイスラム教徒だったか? クルド人か? 政治活動は? 敵は? 事務所の壁は釘爆弾による傷だらけで、血痕が残っている。絶望したカティヤは、手首を切って命を絶とうとする。そんなとき、捕まった犯人がネオナチの夫婦だったことがわかる。裁判で明らかにされる事件の詳細に悲嘆にくれるカティヤ。しかし事件当日、容疑者たちはギリシャのホテルに宿泊していたというアリバイを証言する男が現れる。容疑者とギリシャの右翼が結託しているのだ。結果は、疑わしきは罰せず。容疑者は無罪となり、キャンピングカーでギリシャに出かけた彼らを、カティヤが追う。
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かつて、ハリウッドで「トロイ」や「ナショナル・トレジャー」といったスペクタクルに起用されたダイアン・クルーガーが、初めて母国語であるドイツ語で熱演。ヒロインの悲しみ→裁判→怒り→復讐といった心の推移を体当たりで演じる。彼女は、撮影に入る前に約6か月かけて、30家族ほどのテロや殺人事件の犠牲者となった人々に話を聞いたという。「この経験は、私の人生を完全に変えました」と、彼女は述懐する。終幕、カティヤは、裁判を終えてギリシャに赴いた容疑者夫婦を追う。海岸にキャンピングカーを止め、休日を楽しむ容疑者たち。カティヤは、夫と息子を殺したのと同じ材料で釘爆弾を作り、容疑者が乗ったキャンピングカーの下に置く。そして迎える結末は、きわめて衝撃的であると同時に、大いなる共感を呼びます。本作の音楽を手がけたのは、アメリカン・ロック界の雄クイーンズ・オブ・ザ・ストーン・エイジのジョシュ・オム。彼が書き下ろした楽曲は、エレクトリックと生楽器の音を組み合わせて、主人公カティヤの激しく揺れ動く気持ちに寄り添う。
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ファティ・アキン監督は、トルコ移民の両親のもとにハンブルクで生まれた。「消えた声が、その名を呼ぶ」(2014)、「50年後のボクたちは」(2016)など、印象に残る作品が多い。今回は、畳み込むようなダイナミックな演出と、緻密な展開で、パワフルでスリリングな迫力を生み出している。同監督は、本作についてこう述べています―「国家社会主義地下組織(NSU)による連続テロ殺人事件に触発された。このネオナチ・グループは、2000~07年の間に、ドイツ全土で人種差別から外国人を排斥する目的で連続殺人事件を起こし、11年にようやく逮捕された。ドラッグやギャンブル絡みの内部抗争を疑い、警察が被害者周辺ばかりに捜査を集中させ、のちにそれが大きなスキャンダルになった」と。いわば、ネオナチに対する断罪ドラマ。劇中、容疑者の父親が法廷で証言する―「息子はヒトラー崇拝者です。卑劣なことをしました」。物語には、容疑者の若夫婦と同調者のギリシャ人が登場するが、背後の組織は浮かび上がってこない。それでも、リアルさ満点です。(★★★★+★半分)
カンヌ国際映画祭審査員賞受賞をはじめ、各国の映画祭で高く評価されている「ラブレス」(4月7日公開)は、家族・夫婦の愛の不毛を通して絶望的な人間不信を浮きぼりにした異色作です。監督は、デビュー作「父、帰る」(03)以来、「ヴェラの祈り」(07)、「エレナの惑い」(11)、「裁かれるは善人のみ」(14)などで称賛されたロシアの鬼才、アンドレイ・ズビャギンツェフ。ロシアの格差社会を背景に家族の崩壊を描き、重厚な作品を生み出してきた同監督が、今回は社会と人間の歪みに一歩踏み込んでみせる。現代ロシアの富裕層が過ごす冬の季節。常にスマートフォンを手にSNSに気を取られている姿から窺えるのは、利己主義と満たされることのない欲求だ。自分を愛してくれる人との幸福を渇望し、自分が愛せなかった息子の存在を追う身勝手な両親。彼らがたどり着く先は、本物の愛か、空虚な幸せか。足元の幸せを忘れ、人間性を喪失しかかっている現代人への問いかけが、ここにある。
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一流企業で働くボリス(アレクセイ・ロズィン)と、美容サロンを経営するジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)の夫婦。離婚協議中のふたりには、それぞれすでに別のパートナーがいて、早く新しい生活に入りたいと苛立ちをつのらせている。ボリスの若い恋人は妊娠中で、上司は厳格なキリスト教徒で離婚することはクビを意味していた。またジェーニャには、成人して留学中の娘を持つ、年上で裕福な恋人がいる。夫妻は、12歳になる息子アレクセイ(マトヴェイ・ノヴィコフ)をどちらが引き取るかについて言い争い、罵り合う。当のアレクセイは、耳をふさぎながら両親の口論を聞いていたが、ある朝、学校に出かけたまま突然行方不明になってしまう。両親がデートで家を留守にするなか、学校からアレクセイが2日間も登校していないとう連絡が入ったのだ。自宅にやって来た警察は反抗期だからと言って取り合ってくれず、夫妻は市民ボランティアに捜索を依頼し、自分たちの未来のために必死で息子を捜し始める。果たして、息子は無事に見つかるのだろうか、それとも――?
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子供が両親から愛されていないという状況ほど残酷なことはない。ジェーニャは、ベッドインした恋人に、母親に愛されなかった子供時代のこと、そして自分も子供を愛せないのだと語る。また、息子の所在を求めて母親のもとを訪ねた際、ジェーニャは夫のボリスに言う―「結婚したのは、母から逃げたかったから。あなたを利用したつもりが、家族を求めるあなたに利用された」と。加えて中絶をすればよかったと、後悔の念を口にする。なんという両親だろう。ボリスは、保身に励むサラリーマンである。彼らは息子に対して無関心で、利己的で激しいやりとりを交わす。家族と人間関係の不毛。社会主義国ロシアの首都モスクワ郊外を舞台にした中流階級の人々のエゴイズム。スマホ、SNS、激しいセックス・シーン。その結果生み出される男女の苦悩、子供の悲劇。こうした設定を見ると、ロシアの市民生活も自由世界並みになったかなと思う。また、背後にはウクライナ危機のニュースが流れる。
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ドラマには直接特定されていないが、ウクライナ危機と言論抑制によって「自由な人間が、見る見るうちに茫然自失した人間に変わった」と、ズビャギンツェフ監督は言う。また、見ていて意外に思うのは、行方不明の子供を捜索してくれるボランティア団体の存在だ。警察が頼りにならないと知ると、夫婦はいとも簡単にこの団体に連絡する。これは架空の存在ではなく、実際にロシアで目覚ましい活躍をしているそうだ。映画では架空の救助団体になっているが、ロシアに実在する非営利の捜索救助団体“リーザ・アラート”に基づいているとか。撮影に際しては、このメンバーがコンサルタントとして参加、劇中ではプロの俳優がボランティア役を演じた。依頼者に的確なアドバイスを行い、捜索の際には深い森に散開して子供の姿を求める姿がリアルだ。それだけ、ロシアではこうした子供の行方不明事件が多いということだろうか。この事件を契機に、ボリスとジェーニャの心理が微妙に変化していく。
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映画の冒頭とラストでは、荒涼とした枯れ木林と水の流れが映し出され、登場人物たちの心象風景を象徴する。そして、ドラマ展開や映像は濃密だ。ズビャギンツェフ監督は、イングマール・ベルイマン監督の「ある結婚の風景」と対になる作品を作りたかったという。「自己認識や自己不信の感覚を欠いた都会人、今日の平均的な中流家庭の夫婦を登場させて」と。また、こうも語る―「ポストモダン時代とは、個人が受け取る絶え間のない情報の流れに水没した脱工業社会のことだ。他人のことは単なる目的達成の手段ととらえ、ほとんど興味を抱かない。目下、誰もが自分のことしか考えていない。この無関心から脱け出す唯一の方法は、他者に尽くすことだけだ」と。それは、失踪した子供を街中懸命に捜すボランティアの行動が象徴すると。こう紹介すると、いかにも難しい映画みたいだ。だけども、エゴイズムの最たるスマホ社会は、ぼくたちの日常に蔓延している。映画の衝撃的な結末、そして人間心理と社会生活の崩壊。これは、きわめて身近な出来事のように思われます。(★★★★)