わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

スペイン人監督が創造した近未来SF「オートマタ」

2016-02-26 16:44:56 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

「人類の終焉、人工知能の時代が始まる…」―スペイン出身の監督ガベ・イバニェスが挑んだ近未来SF「オートマタ」(3月5日公開)のキャッチコピーです。2044年、太陽風の増加によって砂漠化が進んだ地球。生き残った人類は、わずか2100万人。人類存亡の危機の中、生き残りをかけて、画期的な人型ロボット・ピルグリム7000型[オートマタ]が開発される。ただし、数多くのロボットが人間社会に入るために、A.I.(人口知能)ともいえるバイオカーネルに、ふたつの制御機能(プロトコル)が組み込まれる。<制御機能1:生命体への危害の禁止>、<制御機能2:自他のロボットの修正(改造)の禁止>の2項目である。
                    ※
 オートマタから人間を守るために作られたプロトコルは変更不可能で、修正(改造)しようとすれば、バイオカーネルそのものが壊れてしまう。だが、この第2プロトコルが失われ、内部を多数改造されたオートマタが相次いで発見される。一体、誰が改造しているのか? その首謀者の目的は何なのか? 開発したROC社保険部から調査員ジャック・ヴォーカン(アントニオ・バンデラス)が派遣され、謎を追う。オートマタは、砂漠化を防ぐ巨大防御壁の建設や、機械式の雲を作るなどの作業に携わっている。そのためヴォーカンは、防御壁を作る建設現場に向かい、奇妙な現象に出くわす。だが突然、ROC社長から調査中止の謎の指示が届き、女性技師デュプレ博士(メラニー・グリフィス)からは驚きの実験結果がもたらされる。やがてデュプレはギャングに射殺され、ヴォーカンも狙われる。そのあげく、ヴォーカンは娼婦用オートマタ、クリオらに出会い、茫漠とした荒野に踏み込んで行く…。
                    ※
 脚本(共同)も手がけたイバニェス監督は、SF小説の巨匠アイザック・アシモフの作品から着想を得たという。同時に、ハリウッドの古典的なフィルム・ノワールからもヒントを得たとか。同監督は、CG、3Dアーティストとして活動を開始、視聴覚効果監督としてのキャリアを持つ。そのため、ロボットの自己進化、人類の破滅というテーマとともに、ロボット(アンドロイド)のビジュアル化がみごとだ。デュプレ博士は言う―「猿の脳が、われわれの知性まで進化するのに約700万年かかった。でも第2プロトコルのないロボットなら、数週間で同じ進化を果たせる」と。なかでも、ドラマの鍵を握るオートマタ、クリオがチャーミング。ヴォーカンは、追い詰められたロボットを人間の手から救おうと試みるのだが…。
                    ※
 ヴォーカンは、常に脳裡に美しい海を思い浮かべる。それは、砂漠化した終末世界と対比をなす。彼が守ろうとするのは、妻レイチェル(ビアギッテ・ヨート・スレンセン)と生まれたばかりの娘だ。作品中、この3人が唯一人間的な側面を示す。イバニェス監督は語る―「この映画のなかでは、人工知能が人間の知能と同じレベルまで達した瞬間が描かれる。ロボットは自ら学習するようになり、人間には成し得ないほどの知識を身に着けようとする」と。そして、混沌のなかでロボットの感情が芽生え、人間の持つ道徳心が失われていく様子が浮きぼりにされる。ロボットの人形作りにも、そのような感情の変化が反映されたという。
                    ※
 本作は、ブルガリア=アメリカ=スペイン=カナダ合作となっている。出演者は、アントニオ・バンデラスがスペイン出身、メッセージ性の強い脚本に惚れ込んで製作も兼任した。また、妻を演じるビアギッテ・ヨート・スレンセンはデンマーク映画界のミューズ。メラニー・グリフィスや、刑事役のディラン・マクダーモットはアメリカの俳優。スタッフも、各国から参加した。更に、主なロケ地となったのはブルガリアで、同国とアメリカ、スペインが混じったチームになったそうだ。しかし、ロボットの自己進化⇒人類の破滅というアイデアは素晴らしいが、ストーリー展開が単純で、不明な点も散見されるのが残念。そういえば、私たちが使っているノートパソコンでも、日々、自己進化しているよね。(★★★+★半分)


ウェイン・ワン+ビートたけしの名コラボ「女が眠る時」

2016-02-20 14:26:01 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ウェイン・ワン監督は香港出身。若くしてアメリカに渡り、映画製作を学ぶ。「ジョイ・ラック・クラブ」(1993年)で注目され、「スモーク」(1995)がベルリン国際映画祭で銀熊賞を受賞。その彼が、初めて日本映画に挑んだ。ニューヨーカー誌に掲載されたスペイン人作家ハビエル・マリアスの短編小説に基づいた「女が眠る時」(2月27日公開)です。加えて話題は、作品中謎めいた初老の男を演じるビートたけしが、自作以外での映画主演は12年ぶりとなり、怪演を見せていること。すべてが幻想的な官能の世界。撮影は、静岡県河津町の伊豆今井浜東急ホテルを中心に行われ、撮影現場ではビートたけしが、いつも新しいアイデアをワン監督に提供する姿があったという。まさに名コラボレーションといえます。
                    ※
 海辺のリゾートホテル。夏の休暇でやって来た小説家・健二(西島秀俊)は、処女作のヒット以来、良い題材に恵まれず自らの才能に疑念を抱いている。ともに滞在する文芸担当の編集者である妻・綾(小山田サユリ)との関係も倦怠期を迎えていた。だが滞在初日、健二はプールサイドで、異様な存在感を放つ初老の男・佐原(ビートたけし)と、若く美しい女性・美樹(忽那汐里)のカップルに目を奪われる。翌日から健二は、彼らを見かけるたびに後をつけて行くようになる。夜、眠れずにプールサイドを散歩していた際には、思わず佐原たちの部屋を覗いてしまう。部屋では、美樹のうなじの産毛を丁寧に剃り、彼女が眠る姿を撮影している佐原の姿があった。やがて、初めて会話を交わした佐原は、健二に美樹が眠る動画を見せながら「あの子の最後の日を記録しようと思ってる」と語る。ほんの好奇心から始まった健二の“覗き”は、恐怖と共に常軌を逸した行動へとエスカレートしていく。
                    ※
 小説家の妄想の世界、それに斬り込む形をとる佐原の狂気とも思える言動。そして、4人の男女の異常な関係。健二と美樹、佐原と綾にも怪しげな繋がりがうかがわれる。また、健二がふたりを追ううちにたどり着く民宿居酒屋店主(リリー・フランキー)も不気味な雰囲気を漂わせる。更に健二は、佐原の部屋に呼ばれ「君は若くて無垢な女が寝ているところを見たことがあるか?」と聞かれ、幼い頃から現在までの、美樹が眠っているところだけを撮影したテープを見せられる。そして佐原は「愛が死ぬなら、あの子を殺したほうがいい」と激昂する。やがて、ある朝、健二のもとに伊豆署の刑事が訪れ、美樹の失踪を告げる…。
                    ※
 すべてが危うさとアンバランスな上に構築された男と女の世界。ウェイン・ワンの演出は、ドラマから因果関係を解き放ち、あらゆる説明を排除して映像のみを提起します。リゾートホテルという閉塞的な空間で、次第に自分自身を見失っていく健二。「狂っているのは自分なのか。それとも<あの男>なのか?」。ウェイン・ワン監督は言う。「私は誰かが眠っているところを見たことがあるだろうか。それが他人で、特に無垢な若い女性の眠る時を。どんな感じなんだろう」と。正直に言って、それが意味する真意はよく分からない。この世ならぬ幻想と妄想の世界という意味か。こうした寓意は、ラテン系の作家が好むところらしい。
                    ※
 それにしても、謎の男・佐原を演じるビートたけしが抜群の存在感を示す。冒頭、プールサイドで、無表情で美樹の肌に丹念に日焼け止めクリームを塗る姿。そして彼が、偏執狂のように美樹の寝姿を撮るくだり。「いつか、この子がわたしを裏切る日がくる…」と、異様な目で呟く佐原を見て、思わず怯えた表情を浮かべる美樹。そうか、もしかしたら、これらはすべて、小説家・健二が現実の彼方に透視した幻影、悪夢なのではなかろうか? 彼にとって、佐原こそ創作の火をつけてくれるメフィストフェレスなのではなかろうか? 映画のラストで佐原が見せるニヤリとした笑いが意味深だ。「ウェインは、映画をアートとしてとらえてクリエイトしている監督だと思う。自分が面白い!と思ったら、妥協を絶対にしない」と、ビートたけしは言う。いずれにしても、奇妙にあとを引く作品です。(★★★★)


N・キッドマンが母国オーストラリア映画に「虹蛇(にじへび)と眠る女」

2016-02-10 14:01:30 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ニコール・キッドマンは、非常にユニークな女優です。彼女は、「アザーズ」「めぐりあう時間たち」「オーストラリア」などで独特の女性像に挑んできた。その彼女が、25年ぶりに母国オーストラリア映画「虹蛇(にじへび)」と眠る女」(2月27日公開)に出演。ドキュメンタリー出身、長編劇映画を初めて手掛ける女性監督キム・ファラントがメガフォンをとった。同監督が、20代前半の頃に父親を亡くしたときの感情的な経験をもとにした物語だという。不思議な失踪ミステリーの形をとりながら、夫婦や親子の間に隠された秘密や潜在意識をあぶり出す。そこに、アボリジニが伝承してきた天地創造神話“ドリームタイム”のなかの“虹蛇”のエピソードを織り込んで、不可解な形の映像世界が繰り広げられます。
                    ※
 オーストラリアの荒涼とした砂漠地帯にたたずむ小さな町ナスガリ。訳あって、都会から越してきたキャサリン(キッドマン)とマシュー(ジョセフ・ファインズ)夫妻に予想もしない事件が降りかかる。ある満月の夜、早熟な娘リリー(マディソン・ブラウン)と、多感な息子トミー(ニコラス・ハミルトン)が、神隠しに遭ったように突然姿を消したのだ。猛烈な暑さのこの土地で行方不明になった者は、2~3日で命の危険にさらされるという。地元のベテラン警官レイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)らが大がかりな捜索を行うなか、キャサリンはリリーの驚くべき本音が綴られた日記を発見して衝撃を受ける。更に夫マシューとも感情がすれ違い、やるせない孤立感と無力感を深める。だが子供たちの手がかりはつかめず、人々の疑惑の目は次第に夫婦へと向けられる。そんな時、先住民族アボリジニの子供がキャサリンに謎の言葉を告げる―「虹の蛇がふたりを呑み込んだ。歌えば帰ってくる」と。
                    ※
 男たちを誘うように挑発的な衣装を身にまとった娘リリー(彼女はかつて教師と不適切な性的関係に陥り、一家はその過去を断ち切るために越してきたらしい)。夜な夜な夢遊病者のように近所を徘徊する息子トミー。キャサリンとマシューの夫婦仲もうまくいかず、ナスガリでの新生活は崩壊の危うさをはらんでいる。そんな状況下、夫妻は子供たちを捜し回る。行く手を阻む凄まじい砂嵐。巨大な蛇が荒野に横たわっているようにも見える茫漠とした風景。町に漂う閉塞感と、原住民が醸し出す排他的な雰囲気。そこに滲みだしてくる夫婦・子供間の不信感。それは、先住民の地を支配してきた人々に対する大地からの復讐を象徴するものなのか? 精神的に参ったキャサリンが、全裸で街を彷徨するシーンが痛々しい。
                    ※
 独特の風土に呑み込まれる主人公一家。キム・ファラント監督は言う。「この神秘的な土地で、子供たちが行方知れずになるというのは、何世紀にもわたって白人がこの未開拓地について抱いている不安、いつまでも消えることのないパラノイアを反映している」と。更に「リリーは、両親の抑圧されたセクシャリティを表面化する」とも語る。またニコール・キッドマンは「この映画には女性の性に関する強烈な感覚があって、キム(監督)は女性の精神、力を固く信じている人だと思う」と言う。キャサリンが示すセクシャリティ(性への飢え)、アボリジニの存在、不安定な人間関係。オーストラリア映画には、男性の暴力性、女性差別、抑圧された人間像などの要素が潜むが、それは本作にも共通する風土感覚でもある。
                    ※
 劇中に登場する“虹蛇の伝説”とは、アボリジニが伝承してきた天地創造の神話において、最も偉大な精霊とみなされる“虹蛇”の言い伝えだそうだ。オーストラリア大陸を形成する川や谷などの地形は、虹蛇の移動によって作られたという話。その信仰は、現代オーストラリア社会にも深く根付いているとか。そうした土着思想が生み出すミステリアスなムード。しかし、その神秘主義がキャサリンの抑圧された性や、白人が抱くパラノイアと具体的に、どう結びつくのか。このテーマは、余りに文学的で観念的でもある。映画は、各エピソードや主人公親子の行く末を、ほとんど未解決のまま放り出す。加えて「虹蛇と眠る女」という邦題の意味もよく分からない。原題の「Strangerland」の方が明快です。(★★★+★半分)


アンジーのダイナミックな演出!「不屈の男 アンブロークン」

2016-02-03 14:41:28 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 アンジェリーナ・ジョリーの監督(兼製作)2作目「不屈の男 アンブロークン」(2014年)は公開が見送られてきたようですが、やっと上映の運びとなりました(2月6日公開)。公開が延びた理由は、太平洋戦争中の日本軍の残虐行為が物語の主旋律になっているから。この実話の主人公は、1936年のベルリン・オリンピック5000メートル走で驚異的なタイムを記録したルイ・ザンペリーニ。その後、彼は第2次世界大戦で米軍の空軍爆撃手となるが、日本軍の捕虜となり、精神的にも肉体的にも地獄のような辛酸を舐める。2002年、ルイとベストセラー作家ローラ・ヒレンブランドが出会い、2010年にルイの体験記“Unbroken”が出版されてベルトセラーになった。そして、アンジーが映画化に乗り出したというわけだ。
                    ※
 イタリア移民の子として育ったルイ・ザンペリーニ(ジャック・オコンネル)は、第2次世界大戦で米軍の空軍爆撃手になる。だが、彼を乗せた爆撃機が南太平洋に不時着。仲間と共に47日間の漂流の末、日本軍に見つかり、捕虜として東京の大森捕虜収容所に送られる。1940年に予定されていた東京オリンピックへの出場を望んでいたザンペリーニにとっては、皮肉な形での東京行きだった。そして収容所では、彼に対して病的な執着を見せる渡辺伍長(MIYAVI)による執拗な虐待を受ける。やがて、新潟県の直江津収容所に移されるが、ザンペリーニは不屈の精神で逆境に耐え抜いて、終戦によって遂に解放される…。
                    ※
 当時、ジュネーブ条約を批准していなかった日本と連合国とでは、捕虜の扱いが異なったという。ルイは、生き残ったキャプテン、フィル(ドーナル・グリーソン)と共に、まずクェゼリン島で独房に入れられ尋問・殴打される。大森捕虜収容所では、精神のバランスを欠いた収容所長・渡辺伍長のサディスティックで残虐な仕打ちに遭う。ルイは、日本軍のプロパガンダのためラジオでアメリカを非難するように強制されるが、拒否。渡辺は、捕虜全員にルイの頬を殴らせる。その後、直江津収容所で待っていたのは、皮肉にも軍曹に昇進した渡辺だった。ここで捕虜は、石炭を船に積み込む作業をさせられ、衰弱の限界まで追い詰められる。更に、渡辺はルイを目の敵にして迫害を加える。この渡辺を演じるのは、ミュージシャンで映画初出演のMIYAVI。臆病さと残虐さを裏腹に持つ日本軍人の典型を好演する。
                    ※
 アンジーの演出力はダイナミックだ。冒頭、ルイが乗るB-24スーパーマン号が日本の零戦と空中戦を行うシーンがド迫力。短いカットを積み重ね、臨場感たっぷりに凄まじい戦いを見せる。次に、救命ボート上でのルイらの海上サバイバル。サメの襲撃、照りつける太陽、容赦ない嵐、日本の爆撃機による機銃掃射。ボートで漂流するルイとフィルの頭上、海面に銃を構える日本兵の影が映るくだりがショッキングだ。更に、日本の収容所でのやりとり。優位に立つと残虐になる日本の軍人たち。これは事実なのだから仕方がない。逆境の中での、ひとりの男ルイの生きざまが強烈だ。彼のサバイバルのテーマは、忍耐と、くじけない精神、そして許し。さすがの渡辺も、最後にルイの持つ不屈の精神に敗れていく。映画の最後には、ルイが80歳で聖火ランナーとして長野オリンピックに参加した実写が挿入される。
                    ※
 アンジーは語る―「世界はこんなにも苦痛に満ちています。いま私たちが求めているのは、このような物語なのです。闇の中でも光を求めてやり抜く男の旅。私たちを助け、鼓舞し、目覚ましい何かを示してくれ、人生を肯定的に見ることが出来るようにしてくれる物語」と。いわば、戦争と歴史の交錯、人類の悲劇が、ここに提起されます。共同脚本の一員としてジョエル&イーサン・コーエン兄弟が参加、内容を磨き上げたという。女優としてのアンジーは、仕様もないスペクタクル映画が多いけれど、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争をテーマにした監督デビュー作「最愛の大地」(11年)に次いで、彼女の演出はズッシリとした社会派の視点に貫かれている。近頃のハリウッド=アメリカ映画の中では稀に見る力作です。(★★★★+★半分)
                    ※
 昨年は戦後70年。ということで、書物で昭和という時代を振り返ってみました。まずは、大西巨人著「神聖喜劇」(全5巻)に始まり、映画編集者・岸富美子の回想録「満映とわたし」、半藤一利著「昭和史」(全2巻)、松本清張著「日本の黒い霧」(上・下巻)など。その結果、眠っていた昭和の記憶が蘇り、自分の立ち位置が鮮明になった気がします。1931(昭和6)年に起こった満洲事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争、そして日本という国が破滅寸前まで追い込まれた1945(昭和20)年の敗戦まで。こうした無謀で無意味な戦争の道を跡付けてみると、自分が生まれ育った昭和とは、なんと絶望的な時代だったか、と思います。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

にほんブログ村 映画ブログ 映画評論・レビューへ
にほんブログ村