わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

奇抜で幻想的な風刺劇「ありがとう、トニ・エルドマン」

2017-06-26 14:00:11 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ドイツ出身の女性監督マーレン・アデ(兼脚本:ドイツ=オーストリア合作)の「ありがとう、トニ・エルドマン」(6月24日公開)は、疎遠な関係にある父と娘の愛を風変わりでファンタジックなタッチで描いた異色作です。戦後世代の父と、キャリア志向の娘。父と娘の物語を紡ぎながら、孤独、世代ギャップ、価値観の相違、搾取、社会格差といったテーマを浮かび上がらせる。そして、グローバル化が進む社会で、人間にとって“本当の幸福”とは何かを問う。劇中、幸せを呼ぶという毛むくじゃらの精霊“クケリ”が登場(チラシの絵参照)。これは、ブルガリアの伝統的祭りの際に着用される被り物で、クケリに身を包んだ人々が腰に付けたベルを鳴らしながら家々を訪れ、悪霊退治や家族の幸せを祈ったという習慣からきた。劇中では、娘の誕生日パーティーに登場して、重要な役割を演じている。
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 悪ふざけが大好きな父ヴィンフリート(ペーター・ジモニシェック)と、コンサルタント会社で働く娘イネス(ザンドラ・ヒュラー)。性格も正反対なふたりの関係は、あまりうまくいっていない。たまに会っても、イネスは仕事の電話ばかりして、ろくに話すこともできない。そんな娘を心配したヴィンフリートは、愛犬の死をきっかけに彼女が働くルーマニアのブカレストへ行く。父の突然の訪問に驚くイネス。ぎくしゃくしながらも、なんとか数日間を一緒に過ごし、父はドイツに帰って行く。だが、ホッとしたのも束の間、彼女のもとに<トニ・エルドマン>という別人になった父が現れる。職場、レストラン、パーティー会場。神出鬼没のトニ・エルドマンの行動に、イネスのイライラはつのる。しかし、ふたりが衝突すればするほど、彼らの仲は縮まっていく。その果てには、いったい何が待っているのか?
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 とにかく、このヴィンフリートじいさんのキャラクターがユニークです。なかば引退した60代の元音楽教師。妻とは離婚し、年老いた母がいて、歩けなくなった老犬の世話が生き甲斐。その犬も死んで、ブカレストにいる娘のもとを訪れる。また、彼には別自我がある。架空の弟“トニ・エルドマン”だ。ダサいスーツに、長髪のカツラ、出っ歯の入れ歯。職業は、ドイツ大使、コンサルティングと人生のコーチングと名のる。こんな姿で、二度目に娘を訪問した彼は、仕事に振り回される娘の邪魔をしたり、余計な口をはさんだりする。その意図は? 娘のイネスに、企業戦士としての生き方の空しさを伝えること? 父娘がパーティーで出会った夫人の家に立ち寄り、父がオルガンでホイットニー・ヒューストンの“GREATEST LOVE OF OLL”の伴奏をし、イネスが吹っ切れたように、やけくそに歌うシーンが象徴的だ。やがて父は、クケリの被り物を身につけ、娘の誕生日に姿を見せる。
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 アデ監督は、ヴィンフリート像は自分の父親から発想を得たと言う。「彼は、しょっちゅう架空の人物や、とんでもない状況を創造して芝居をするのです。あの入れ歯は、私が彼に与えたものです」と。いっぽう、娘のイネスは30代後半。典型的なキャリア志向で、ブカレストで石油会社の近代化と合理化に腐心している。タイトなスーツ姿で、携帯電話を手離さないグローバリズム企業戦士だ。トニ・エルドマンが、そんな彼女の生活をかき乱したあと、面白い場面がある。イネスは、チームの交流を兼ねた自分の誕生日パーティーの準備をするのだが、ドレスのチャックがしまらない。そこで、やけくそになって全裸で客を迎える。「今日は裸のパーティーよ。結束力を強めるため」と言って。上司も同僚もそれに応じて裸で参加。彼らとの会話のなかに、普段気付かなかった優しさを感じるくだりに笑わせられる。いわば、日本で言うところの裸の付き合い? これは、イネスの自我からの解放といえる。
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 展開はシンプルだが、かくのごとく映像はイマジネーション豊か。そして、グローバル企業VS.人間性の本質を問う。アデ監督のコメント―「ヴィンフリートは、娘が自分を殺していることを良く知っている。彼が役柄を演じることで自分を解放するのに対して、娘は役柄を放棄することで自分を解放するというアイデアが気に入った。あの奇妙な頭を持った大きな、メランコリックな怪物は、ヴィンフリートにとっての内なる自分なのです」。“クケリ”は、日本のナマハゲに近い存在で、五穀豊穣、子孫繁栄など、幸せを運ぶものの象徴として今日でも親しまれている。ここではパパの象徴であり、娘を観察し慰める役割をになう。そして、きわめてセンチメンタルなラストシーン。上映時間162分という長尺なのに飽きさせない。ヨーロッパ映画賞では、作品・監督・男優・女優・脚本部門で受賞。引退表明していたジャック・ニコルソンが、ハリウッド・リメイクを熱望しているという。(★★★★)


巨匠アンジェイ・ワイダの遺作「残像」

2017-06-16 14:06:05 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 2016年10月9日、90歳で世を去ったポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督。彼が死の直前に完成させた遺作が「残像」(6月10日公開)です。戦後の社会主義圧政下で、自らの信念を貫き、闘い続けた画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(1893~1952)の実話の映画化。1949年から、彼が亡くなる1952年までの変化に焦点を当てた作品だ。ストゥシェミンスキは、国際的な前衛美術運動のなかで大きな役割を果たし、ポーランド前衛芸術の地盤を築いた画家であり、大学教授だった。第1次世界大戦に出征し重傷を負って、左手と右足を失う。それでも、抽象画を極めることに執着した。そして第2次世界大戦後、全体主義に脅かされ、生命や生活の危機に直面しながらも、自らの主張を曲げなかった。
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 第2次大戦後、ソヴィエト連邦の影響下に置かれたポーランド。スターリンによる全体主義に脅かされながらも、カンディンスキーやシャガールらとも交流を持ち、情熱的に創作と美術教育に打ち込む前衛画家ヴワディスワフ・ストゥシェミンスキ(ボグスワフ・リンダ)。しかし、芸術を政治に利用しようとするポーランド政府が要求した社会主義リアリズムに真っ向から反対したため、芸術家としての名声も尊厳も踏みにじられていく。けれども彼は、いかなる境遇に追い込まれても、芸術に希望を失うことはなかった。“芸術と恋愛は、自分の力で勝負しなければならない―”。そして、いかなる弾圧に遭おうとも、決して屈することはなかった。その気高い信念と理想は、いまの不確かな時代にも鮮烈な光を残していく。タイトルの「残像」とは、太陽を見たときの視覚的反応を描いた連作からとられている。
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 冒頭、なだらかな草原が広がる丘の斜面を転がり降りながら、学生たちと戯れるストゥシェミンスキ教授。そして彼は、「残像は、ものを見たときに目のなかに残る色なのだ。人は認識したものしか見ていない」と説く。次いで、アパートの自宅のアトリエで。教授が松葉杖で体を支えながら絵を描こうとすると、キャンバスが一瞬にして真っ赤に染まる。スターリンの肖像が描かれた巨大な垂れ幕が、ビルの窓という窓を表から覆いつくしてしまったのだ。激怒した教授は窓を開け放ち、松葉杖で垂れ幕を切り裂く。当局はすぐさま、教授を強引に警察に連行する。鮮やかな視覚効果で、ストゥシェミンスキの気概を浮き上がらせた名シーンだ。大学に乗り込んできた文化大臣が、「イデオロギーの欠如した芸術を否定し、社会主義リアリズムを信奉せよ」と居丈高な口調で演説した際には、ただひとり立ち上がったストゥシェミンスキが敢然と芸術表現の自由を主張して、学生たちの拍手喝采を浴びる。
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 ストゥシェミンスキの苦難は続く。共産党上層部から迫害を受け、大学の教授職から追放され、美術館・ギャラリーに飾られた作品は破棄され、学生と開催しようとした展覧会は跡形もなく破壊される。あらゆる権利を剥奪され、生活の糧を失ったストゥシェミンスキは、伝手を頼ってプロパガンダ看板の似顔絵描きまでこなすが、それすら当局に察知されてクビになる。配給切符さえ支給されず、無許可のため画材すら買えずに、困窮の果て病魔に侵された彼は、ショーウィンドーに並ぶ裸のマネキンを抱きかかえるようにして倒れ込み、非業の最後を遂げる。とにかく、各キャラの人間性とディテール描写が精妙だ。金が無くなる、家政婦がスープを皿に入れて持ってくる。だが、給金が貰えないことを知ると、スープを鍋に戻す。ストゥシェミンスキが、皿に残ったスープの残滓を舐めるシーンがすさまじい。
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 アンジェイ・ワイダは、大戦中に対独レジスタンス運動に協力。その体験が、初期の「地下水道」(1956)に反映されている。戦後は、一貫して分断された祖国ポーランドを支配する権力に抵抗。代表作「灰とダイヤモンド」(1958)の主人公で、共産党政権に対峙する青年暗殺者マチェックの精神は、「残像」にまで引き継がれている。その後、連帯の運動と協同し、一時迫害を受けるが、2013年には「ワレサ 連帯の男」を発表。生涯、全体主義体制への抵抗を試み、亡くなるまで主義を貫いた。彼のコメント―「ひとりの人間が、どのように国家に抵抗するのか。表現の自由を得るために、どれだけの代償を払わねばならないのか。全体主義のなか、個人はどのような選択を迫られるのか。これらの問題は過去のことと思われていましたが、いま再び、ゆっくりと私たちを苦しめ始めています。―これらにどのような答えを出すべきか、私たちは既に知っているのです。このことを忘れてはなりません」。
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 「残像」は、前衛画家の抵抗と非業の最期を描くだけではない。ワイダは、シンボリックな映像で豊かな人間味を描き出す。たとえばストゥシェミンスキは、個人的には無愛想で家族を無視するが、学生には心を開く。学生たちが筆記したといわれるストゥシェミンスキ未完の「視覚理論」は、死後の1958年に出版された。また彼は、別れた彫刻家の妻の死後、ひとり娘ニカ(ブロニスワヴァ・ザマホフスカ)を引き取る。だが、彼を慕う女子学生ハンナ(ゾフィア・ヴィフワチ)を見ると、ニカは怒って家を出て行く。こうして、登場する女性たちがユニークなキャラを示す。とは言っても作品を貫くテーマは、芸術家や物書きらの使命は「常にスタイルを崩さないこと」。そして問う。「表現の自由を制限する権利が国家にあるのか。人々の生活を隅々まで干渉する権利が政治権力にあるのか」―それに対する応えは「ナイ、ナイ!」。いまの日本にも同じような問いかけができると思います。(★★★★★)


伝説のダンサー、ロイ・フラーの軌跡と転変「ザ・ダンサー」

2017-06-07 14:05:29 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 ロイ・フラー(1862~1928)は、パリが最も華やかだった19世紀末ベル・エポックに、斬新な振り付けで熱狂を巻き起こしたダンサーです。彼女は“モダン・ダンス”の祖として認められると同時に、パフォーマーや演出家としての天才的なセンスも発揮した。長い衣装をまとって踊るロイの写真に衝撃を受けたフランスの女性フォトグラファー、ステファニー・ディ・ジューストの処女監督作が、ロイの伝記をもとにその実像に迫った「ザ・ダンサー」(6月3日公開)です。劇中には、のちに最大のライバルとなるダンサー、イサドラ・ダンカンも登場、雰囲気を盛り上げます。ロイ・フラーに扮するのは、ミュージシャンとしてブレイクし、映画出演もしているフランス出身のソーコ。その実在感と熱演に注目、です。
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 アメリカの農家で生まれ育ったマリー=ルイーズ・フラー(ソーコ)の夢は、女優になること。ニューヨークで何度オーディションを受けても、セリフのない役しかこない。だが、偶然舞台で踊った彼女は、初めて喝采を浴びる。その日から彼女には、衣装から照明、舞台装置まで、オリジナルのダンスのアイデアが湧いてくる。ダンサー・ネームを“ロイ・フラー”と名乗り、踊り始めた彼女の才能に気付いたのは、ルイ・ドルセー伯爵(ギャスパー・ウリエル)だった。やがてロイは、バレエの殿堂“パリ・オペラ座”で踊る夢をかなえるため海を渡り、“フォリー・ベルジェール”出演を果たす。初日、観客は初めての体験に驚き、ロイは一夜でスターに。再会したルイと友情と愛情を行き来する関係を続けながら、ついにパリ・オペラ座から出演依頼が舞い込む。そして、無名だが才能豊かなイサドラ・ダンカン(リリー=ローズ・デップ)を共演者に抜擢、彼女への羨望と嫉妬、肩の痛みに苦しみながら、夢に向かって準備を進める。だがロイには、思わぬ試練と裏切りが待っている…。
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 とにかく、ロイ・フラーのダンス・シーンの迫力に圧倒されます。ふわりとした長いシルクの衣装をまとい、両手に持った棒と速い回転による激しい身体的パフォーマンスによって巨大な蝶のように舞い、観客を驚嘆させる。これが、のちにサーペンタインダンスと呼ばれ、トレードマークに。パリでも、アール・ヌーヴォー時代のミューズとして、ロートレック、ロダン、コクトー、ドビュッシーらを魅了。また、独自に開発したカラーフィルターを用いることで、さまざまな色の照明を実現させ、それまでになかった照明による舞台空間を創造するなど、舞台演出の革新者でもあった。シルクと光の踊り。しかし、その際には極度の肉体的重圧と闘わなければならない。映画の冒頭、踊り終わったロイが担架で運ばれる場面がある。そして熱い風呂に入り、氷で肩を冷やして疲れを癒す。瞳は照明に焼かれ、サングラス着用を余儀なくされる。“光のダンス”と呼ばれたものが、いかに重労働を強いるか。
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 また、ロイのライバルとしてイサドラ・ダンカンが登場します。この革新的ダンサーの半生は、カレル・ライス監督、名女優ヴァネッサ・レッドグレーヴ主演のイギリス映画「裸足のイサドラ」(1968)でも映画化された。男性遍歴も華やかで、奔放なダンスで魅了した煽情的なダンサー。今回、彼女を演じるのは、ジョニー・デップとヴァネッサ・パラディとの娘、リリー=ローズ・デップ。若く、美貌も才能も生まれつき手にして、優美に舞うだけで人々を虜にしたというイサドラ。ロイ・フラーとは対照的なダンサーとして、ロイとは複雑な愛と確執で結ばれます。「その一方で、ロイは一生懸命努力を重ねて、たくさんの技術に頼らなければならなかった。私は、こうした不公平に興味をそそられた。それは、私たちみんなが、いつも自分自身の限界に直面しているから」と、ディ・ジュースト監督は言う。
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 いわば、この作品はロイ・フラーというダンサーの華やかさよりも、アーティストとしてのダークサイドに焦点を当てたものといっていいでしょう。本質は多才な芸術家、その人間性と内面。同時に彼女は、女性の社会進出を広げたことで、ベル・エポックに大きな功績を与えたそうです。たとえば、ルイの豪邸で奇妙な共同生活を始める。だが、力になったくれたルイとは肉体関係があったかどうかは曖昧だ。このルイは、監督によって創造された架空の人物だそうだ。それにしても、鮮明な映像や写真がほとんど残っていなかったために、ロイ・フラーは一度は歴史の中に埋もれていたダンサーだったとか。ディ・ジュースト監督は、「ロイ・フラー:ベル・エポックの象徴」と書かれた一枚のモノクロ写真に出会い、彼女の生涯に感動したという。「彼女は、開拓者のような精神の持ち主でありながら、そうした自分を表に出さずに有名になった。そこが好きなの」と同監督は語っています。(★★★★)


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