わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

満島ひかり、4年ぶりの単独主演「海辺の生と死」

2017-07-28 14:29:06 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 満島ひかりが、「夏の終り」以来4年ぶりの単独主演作に選んだのが、越川道夫監督・脚本の「海辺の生と死」(7月29日公開)です。戦後文学の傑作といわれる「死の棘」で知られる作家・島尾敏雄と、その妻でやはり作家の島尾ミホとの出会いの物語。時は太平洋戦争末期、ふたりが出会ったのは自然と神が共存するといわれ、圧倒的な生命力をたたえる奄美群島・加計呂麻島。男は特攻隊の隊長としてひたすら特攻艇の出撃命令を待ち、女はどこまでも彼といっしょにいたいと願う。たとえ、それが死を意味するとしても…。後年、互いに小説家になった彼らが、それぞれ描いた鮮烈な出会いと恋の物語を原作に、奄美大島、加計呂麻島でロケーションを行った。満島の、いつもとは違うキャラと魅力が見どころである。
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 昭和19年(1944年)12月、奄美カゲロウ島(加計呂麻島がモデル)。国民学校の代用教員として働く大平トエ(満島ひかり)は、新しく島に駐屯してきた海軍特攻艇隊の隊長、朔中尉(永山絢斗)と出会う。ふたりは、朔が兵隊の教育用に本を借りたいと言ってきたことから知り合い、互いに好意を抱き合う。島の子供たちに慕われ、軍歌よりも島唄を歌いたがる、軍人らしくない朔にトエは心を惹かれていく。やがて、トエと朔は人目を避けて、海岸の塩焼小屋で会うようになる。しかし、時の経過とともに敵襲が激しくなり、沖縄は陥落、広島には新型爆弾が落とされる。そして、ついに朔が出撃する日がやってきた。母の喪服を着て、短刀を胸に抱いたトエは家を飛び出し、いつもの浜辺へと無我夢中で駆けていく…。
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 脚本監修には、読売文学賞を受賞した『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ』を昨年発表した梯久美子が参加。物語は、島尾ミホ著「海辺の生と死」の中の「その夜」を軸に組み立てられたという。カメラは奄美の自然をみずみずしく切り取り、奄美独特の明るさや、夜中から早朝にかけての海の光景などを美しくとらえる。また、奄美群島で古くから歌い継がれてきた奄美島唄が効果的に用いられる。その歌唱指導にあたったのは、“クジラの唄声”で人々の心を魅了する唄者(ウタシャ)朝崎郁恵。自身もルーツを奄美大島に持つ満島ひかりが歌う島唄の調べが心に残る。島唄には「朝花節(アサバナブシ)」「八月おどりのうた」「千鳥浜(チジュラハマ)」などが登場するが、満島は朝崎郁恵から口伝えで教えてもらったとか。更に満島は、独特の島言葉を発音・話し、これらが作品全体に情緒を醸し出す。
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 しかし、見終わって思うのは、果たしていま、このドラマにアクチュアリティーがあるのかどうかということです。背景には、戦争―空襲、住民の退避、広島に原爆投下、特攻艇の出撃といった要素が横たわる。だが画面からは、戦争の悲劇のリアルさが余り伝わってこない。そして、物語の軸は戦争のただ中に咲いたふたりの純愛。のちに、島尾夫妻は激しい確執を繰り広げたそうだが、映画でのやりとりは古めかしく、情熱に欠ける。つまり、全体的にテーマが甘く、はっきりしない。演出・カメラワーク・演技ともに迫力不足で、期待していたわりにはガックリ。ただ、満島の個性が印象に残るばかり。たとえばトエが、周囲の人々に気付かれないように、海の中に身を潜らせて密会場所の塩焼小屋にやって来るくだり。ラスト、着衣を脱ぎ、水瓶から何度も水をかぶって身を清め、自決を覚悟して短刀を胸に塩焼小屋に向かうシーン。でも、こうしたくだりが現代人に訴えかけるものがあるのだろうか。
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 越川道夫監督は、「ゲゲゲの女房」「海炭市叙景」「かぞくのくに」といったインディペンデント映画の佳作を製作してきた。今回は、「アレノ」に続く監督2作目となる。戦争という異常な空間の中で、死を前提に恋に没入していく若いふたり、それを包み込む神と自然。だが演出は、それらに立脚したダイナミズムに欠けている。むしろ、満島ひかりの受けとめかたが素直で自然だ。彼女は言う―「私は沖縄県で育ちましたが、ルーツは奄美大島にあるので、物語の舞台となった加計呂麻島はやっぱり特別な場所なのです。故郷で過ごす自分は、東京で暮らす自分とは顔も違えば性格も変わるし、場所とか動植物、時の流れとの関わりがより一層深く、濃くなりますから、自らを島に差し出すような気持ちでした」。こうした彼女の素直な気持ちが、演出や共演者と共鳴したかどうか、疑問である。(★★★+★半分)


スラム街に住む肝っ玉かあさんの受難「ローサは密告された」

2017-07-17 14:16:14 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 いま、フィリピン映画が隆盛だそうです。“第3黄金期”といわれる現在を牽引するのが、異才ブリランテ・メンドーサ監督。彼の新作が、麻薬問題と警察の腐敗に挑んだ「ローサは密告された」(7月29日公開)。同監督作品としては、実話に基づいた「囚われ人/パラワン島観光客21人誘拐事件」(2012)が日本公開され、その演出力のダイナミズムに引き込まれた。今回は、第16代大統領ロドリゴ・ドゥテルテによる施策――麻薬に関わる者は超法規的に殺害されるという麻薬撲滅戦争を背景に、マニラのスラム街に住む主婦ローサと一家の受難にスポットを当てる。小型の手持ちカメラがスラムの狭い路地を走り回り、どんよりとして猥雑な街並みをとらえ、庶民の苦渋を通して、その生活ぶりや人情を活写します。
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 ローサ(ジャクリン・ホセ)は、マニラのスラム街の片隅でサリサリストア(雑貨店)を夫ネストール(フリオ・ディアス)と経営している。そこでは、密接して暮らす人々のつながりは深い。ネストールは常にダラダラしているが、気は悪くない。店を切り盛りするのはローサ。彼女には4人の子供がいて、彼らは家計のため本業に加えて少量の麻薬を扱っている。ある日、密告されてローサ夫婦は逮捕される。引っ張って行かれた警察では、売人の密告、高額な保釈金を要求され、まるで恐喝まがいだ。フィリピンで、法は誰のことも守ってくれない。ローサたち家族は、したたかに自分たちのやり方で腐敗した警察に立ち向かう。
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 2015年現在のフィリピンの貧困率は約22パーセント、その多くがひしめき合ってスラムで暮らしている。そこでは犯罪が絶えず、薬物常用者や密売人も多い。だが警察は、押収した麻薬の横流しや、密売人への恐喝など“捜査”の名のもとに私腹を肥やし、悪事がバレそうになると暴力も殺人もいとわないという。この警察の腐敗ぶりが凄まじい。ローサ夫婦は、分署の中心からはずれた部屋で取り調べを受け、調書の記録はなく、正式な事件として処理されていないようだ。警官たちは売人を売るように強要し、逮捕した売人から押収した金を山分けする。さらに警官は「麻薬の取引は終身刑だ」と脅し、「金を払えば助けてやる」とのたまう。ローサの子供たちは、親しくもない知人や友人をあたって金を借りる。あげくに次男は、同性のビジネスマンの恋人と寝たあとで金をせびる。このあたりの描写が無常だ。
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 ローサを警察に密告したのは、息子同然に面倒を見ている青年。彼は、兄の釈放と引き換えに、ローサとネストールを売ったという。家族のために、誰かが誰かを密告する。麻薬の取引が日常になっているスラム。人々のどん底生活と貧困。そこにつけこむ警官たち。彼らは、貧しい庶民から金を搾り上げる。メンドーサ監督は、容赦ない警官たちの姿を暴き、冷徹に見つめる。庶民のやり場のない、どうしようもない絶望感。警官の命令に抵抗できない人々を見ていると、限りない怒りを覚える。「両親がどうなるか分かってるか? 金を払うまでは帰せない」と、巡査部長がローサの子供たちに言う。そこで、子供たちが金集めに駆け回るくだりに、家族の絆の固さと人情の機微が浮かび上がる。カメラは、街の雑踏、車のクラクションの音、暴風、スコールまでをとらえながら、巧みにスラムの情況を映し出す。
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「私の映画は、どれも貧しいフィリピン人を描いたもの」とメンドーサ監督は言う。そして、視聴覚の両面にわたる混沌のなかから、フィリピン社会の断面を浮かび上がらせる。強烈なリアリズムを持たせるために用いられるドキュメンタリーのような撮影方法。出演者にはシナリオを渡さず、撮影現場で与える指示のみで動いてもらったとか。そして、俳優の個人的な本能から生まれたセリフは自然なものになったという。「俳優たちは、撮影が進むにつれ、自分の演じる人物の置かれた苦境を感じていくことになる」と監督は語る。気のいい肝っ玉かあさん、ローサを演じたジャクリン・ホセは、第69回カンヌ国際映画祭でフィリピン初の主演女優賞を獲得。ラスト、彼女が屋台で買った串刺しのキキアム(魚のすり身を揚げたもの)を食べながら涙するくだりが、なんともいえず哀しい。(★★★★+★半分)


女性たちの心の傷を癒す自由への旅「歓びのトスカーナ」

2017-07-06 14:15:18 | 映画の最新情報(新作紹介 他)

 イタリアの才人、パオロ・ヴィルズィ監督が手がけた「歓びのトスカーナ」(7月8日公開)は、外見も性格も対照的なふたりの女性が織りなす友情ドラマです。ただし、重要な舞台となるのは精神医療施設。社会のアウトサイダーとなってしまった女性たち――極度の虚言癖があり、嵐のようなハイテンションで周囲の人々を引っかき回す中年のベアトリーチェと、常に何かに怯えているようなローテンションで自らの殻に閉じこもる若いドナテッラが、ほんの少しの自由を得るために旅に出る。そして、時に互いに激しくいがみ合いながらも、かけがえのない友情を育んでいく。その裏には、女性が体験した過酷な過去があり、ドラマの進行につれて、それが明らかになっていきます。イタリアのアカデミー賞といわれるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞では、作品・主演女優を含む5部門で受賞しました。
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 イタリア・トスカーナ州の緑豊かな丘の上にある精神診療施設ヴィラ・ビオンディ。ここでは、心にさまざまな問題を抱えた女性たちが、広大な庭でくつろいだり、農作業にいそしんだりしながら、社会復帰するための治療を受けている。大声を張り上げて意気揚々と闊歩する“自称・伯爵夫人”のベアトリーチェ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は、施設の女王のような存在。ある日、彼女の目に留まったのは、痩せ細った体のあちこちにタトゥーが刻まれた、若く美しい新参者のドナテッラ(ミカエラ・ラマッツォッティ)。ルームメートになったふたりは、ある時施設をひょっこりと脱け出し、行きあたりばったりの逃避行のなかで徐々に絆を深めていく。やがて、心に傷を負ったドナテッラの脳裡に、ある痛切な記憶がよみがえり、ベアトリーチェは病院に引き戻された彼女を救い出そうとするのだが…。
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 イタリアは、精神病院を全廃した世界で唯一の国だという。1978年に、精神病院廃絶を決める新精神保護法を制定。1999年3月、精神病院がイタリアから消え、隔離されていた患者は社会に出た。そして、精神病院に代わって誕生したひとつが、“コムニタ”と呼ばれる精神科ケア付きのグループホーム。映画に登場するのは、女性専用のコムニタだという。しかし、司法精神病院や私立精神病院の何か所かはしばらく生き残った。ベアトリーチェとドナテッラが居住する施設では、社会的復帰に向けての療養と治療のプログラムが組み込まれ、行き届いていて開放的、むしろ牧歌的な雰囲気があります。ここで、ふたりは施設外の作業で得た報酬で、バスに飛び乗り自由への旅に出る。そして、誇大妄想的でお喋り、躁のベアトリーチェと、心に傷を抱く鬱のドナテッラの愛と衝突、心の触れ合いの旅が始まる。
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 やがて旅の過程で、ふたりの過去と心の傷が明らかにされる。ドナテッラの生まれ故郷では、彼女の母親は金持ちの老人の愛人となっており、娘との再会も上の空。そんな母から金を盗み、旅は続く。次に、ドナテッラが働いていたクラブにたどり着く。かつて彼女は、妻子がいるオーナーの子を宿したあげく捨てられた。絶望し、母子で心中をはかるが救い出され、子供(息子)は養子に出される。ドナテッラは、そんなオーナーと諍いを起こし、司法精神科病院に再び収容される。彼女を救い出すべく、ベアトリーチェは著名弁護士の元夫が住む邸宅に乗り込み、冷たくあしらわれるが宝石を盗み出して逃避行の軍資金にする。ベアトリーチェのおかげで隔離された病院から脱け出したドナテッラは、ある場所に行きたいと、過去に起こったすべてを話す。そして、感動的な結末とともに、ふたりの友情は深まる。
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 テーマは深刻だけれども、ヴィルズィ監督の演出は独特の明るさと陰りが混ざり合い、ふたりの女性の入り組んだ心理状態を解き明かしていきます。同監督は、着想を得た映画として「カッコーの巣の上で」(1975)をあげ、テネシー・ウイリアムズの戯曲「欲望という名の電車」の主人公ブランチとベアトリーチェの共通性を認めています。そして、こう語っています。「社会からレッテルを貼られ、無視され、非難され、遮断や隔離されている女性たちのように、繊細な人々が直面する不正や、支配、苦しみといったものに光を当てたかった。そして、なるべく明るく、アップビートな仕上がりになるように全力を尽くした」と。映画の惹句には、「しあわせは、いつでも隣に寄り添っている。最高の友情で結ばれていく女性たちの、人生賛歌!」とあります。しかし、本質は「哀しみの(苦しみの)トスカーナ」ではないかなと思います。ちなみに、イタリア語の原題は「狂気の快楽」という意味だそうです。ま、ユニークな発想を持つドラマゆえ、目をつぶりましょうか。(★★★★)


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