東欧ハンガリーから、ドエライ映画がやってきました。人間に捨てられ、理不尽なまでに虐げられた犬たちが、怒りに燃えて反乱を起こす! ハンガリーの新鋭コーネル・ムンドルッツォ監督の「ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂詩曲(ラプソディ)」(11月21日公開)です。緊迫感に満ちたパニック・スリラーと、アーティスティックな社会派映画という、ふたつの側面を持つ異色作。ハリウッドからアニマル・トレーナーを招き、クライマックスでは250匹の犬がブダペストの市街を疾走する!というグッド・アイデアなストーリー展開。2014年のカンヌ国際映画祭で、ある視点グランプリを受賞。また、もっとも優秀な演技を披露した犬を称えるパルムドッグ賞(!)をダブル受賞し、センセーションを巻き起こした。
※
雑種犬を排除するため、飼い主に重税を課すという悪法が施行されたある都市。13歳の少女リリ(ジョーフィア・プショッタ)は、両親が離婚、所属するオーケストラでは問題児扱いされている。家庭でも学校でも居場所を見出せずにいる彼女の心のよりどころは、愛犬ハーゲンだった。だが、ある日、威圧的な父親に反抗したせいで、ハーゲンを道端に捨てられてしまう。健気なハーゲンは自力でリリのもとに帰ろうとし、リリもまた愛するハーゲンを必死に捜索する。やがてリリは孤独に打ちひしがれ、ハーゲンは執拗な野犬狩りを行う当局に追われる。そしてハーゲンは、流浪の果てに裏社会の闘犬場に駆り出され、獰猛な野性に目覚める。あげく、何百匹もの犬の群れを率いて、非情な人間に対する反乱を引き起こす。
※
野犬狩りに追いつめられたあげく、ハーゲンが闘犬に仕立て上げられるくだりが強烈です。いままで安全に育てられてきたハーゲンにとって、行く手に広がるのは弱肉強食の世界。捕獲用の棒を振りかざす当局の職員に追われ、野犬ブローカーに売り飛ばされる。更にドッグ・トレーナーに売られて、闘犬になるための過酷な訓練を強いられる。その後、裏社会の闘犬場に引き出されたあげく、そこから逃げ出すが、ついに捕獲されて保護施設へ。そして、施設で人間に牙をむき、数百匹の野犬を率いて脱走し、猛然と市街地になだれこんで、市民を大パニックに陥れる。それは、虐げられた犬たちによる傲慢な人類への報復だった。
※
ムンドルッツォ監督は言います。「犬の視点では、人間は神のようなもの。犬は神という主人に仕える、常に社会的に見捨てられている存在の象徴です。神は本当に白人なのか? 白人は支配し、植民地化することに長けていることを何度も証明してきた」と。それが、題名の「ホワイト・ゴッド」の意味なのだと。そして、「この映画はむしろ、ひと握りの階級がその他大勢を支配するという、かつての、そして未来のハンガリーに対する批判。気をつけないと、いつか大衆が蜂起するでしょう。(最後の犬たちの反乱は)現在のヨーロッパが恐れている大衆の蜂起で、マイノリティの視点を示したかった。アートは、批評的な視点を決して手放してはなりません」と語る。このクライマックスが迫力十分で、驚異的です。
※
主役の犬ハーゲンを演じわけたのは、ルークとボディという2匹の兄弟犬。人なつこそうで愛くるしい茶色の飼い犬が、脅威の世界に放り出されて次々と危険な目に遭い、ついには荒々しく牙を剥いて獣と化していく豹変ぶりが見もの。ハーゲンが何度も危険に遭遇しようとするところを救う、ぶち模様の子犬も可愛い。この作品に出演した犬たちは、みな収容所から連れて来たものだそうで、撮影が終わると評判になり1匹残らず飼い主を見つけて引き取られていったとか。また、リリが吹くトランペットの曲(「ハンガリー狂詩曲」)が巧みな伏線となる。更に、パブに入り浸り、音楽・薬物・アルコールに酔う若者たちの欲望も点描される。本作はまさに、現代社会に対する風刺に満ちています。(★★★★+★半分)
1946年、広島・長崎への原爆投下からわずか10か月後。太平洋のマグロ漁場で、米国による核実験が始まった。その後、多くの漁船が操業する中で100回以上続けられた核実験。闇に葬られたビキニ水爆実験の真相に迫るドキュメンタリー「放射線を浴びたX年後」(2012年)は、大きな反響を呼んだ。この事件に光をあてたのは、高知県の港町で地道な調査を続けた教師や高校生たち。彼らの足跡を丹念にたどったのがローカルTV局・南海放送(愛媛県)のディレクター、伊東英朗。8年間に及ぶ取材の結果を放映したのち、映画化にこぎつけた。そのシリーズ第2弾が「放射線を浴びたX年後 2」(11月21日公開)です。
※
今回の主人公は、東京で広告代理店を経営する川口美砂さん(59歳)。故郷・高知県室戸市で映画「放射線を浴びたX年後」を見たことがきっかけで、元漁師だった父の早すぎる死に疑問を抱き始める。当時「酒の飲み過ぎで早死にした」と言われた父。果たして、本当にそうなのか? 高知県南国市在住の漫画家・大黒正仁さん(ペンネーム:和気一作)もまた、映画との出会いがきっかけとなり父の死に疑問を抱く。そして、愛する父への思いが、ふたりを動かし始める。いっぽう、取材チームは放射線防護学の専門家とともに、1950年代に雨水の中に高い放射線物質が測定された沖縄、京都、山形を訪れ、独自に土壌調査を行う。民家の床板をはずし、半世紀ぶりに現れた土。果たして、その結果はどうだったか?
※
太平洋核実験は、米国によって1946年から1962年まで中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁やクリスマス島などで行われた。1954年3月1日に爆発させた“ブラボー”は、広島に落とされた原爆の1千倍以上の破壊力があるとされ、近海で操業中の第五福竜丸が被ばく、同年9月に無線長の久保山愛吉さんが死亡した。また、太平洋核実験によって大気中に放出された放射性物質が日本列島にまで達し、雨とともに降下したことで全国各地の野菜や飲料水、牛乳などさまざまなものが汚染。そして大量の死の灰を浴び、40代、50代の若さでガンを発症して亡くなっていったマグロ漁船の乗組員たち。また、汚染された魚は廃棄された。しかし、慰謝料200万ドルと引き換えに、日米間で真相は隠蔽されたという。
※
今回の“パート2”では、川口美砂さんが、かつてのマグロ船乗組員を探して話を聞き取っていくくだりが軸となる。2015年元旦から毎月室戸に戻り、“パート1”の上映会を主催していた元漁労長・山田勝利さんの協力を得ながら、元乗組員や遺族たちと出会っていく。膨大な記録や資料、当時の報道から明らかになってきた予想を上回る核実験の被害の大きさ。それは、海や空気、土壌だけではなく、漁師たちの体と心にも大きな爪痕を残した。激しく汚染された漁場で死の灰が混じる雨や海水を浴び、魚を食べていた漁師たち。だが、川口さんらの取材を拒否する人々もいることをカメラはとらえる。彼らは、なぜ口をつぐまなければならなかったのか? かつての核実験は、いまも日本に影響を及ぼしているのか?
※
伊東英朗監督は言う。「いま、新たなX年後に向けてカウントダウンが始まっている。しかし、半世紀前の事件では、放射線を浴びたX年後、何が起こったのか・起こっているのか、まだわかっていない。ぼくはいつも、もし、1946年から1962年の間に行われた120回を超える核実験中、政府が検査を続けていれば…と考える。1954年、わずか数か月で放射線検査を打ち切ったあとも、100回以上の核実験がマグロ漁場で続けられた。誰がどう考えても、海上での従事者の健康、ほとんどの日本人の口に入る食品(魚)の安全を考えると、検査をやめることは非常に不自然だ。また、放射能の雨についても、観測されていた放射線の数値が、天気予報のように日常的に知らされるべきではなかったか」。
※
更に、同監督は続ける。「第五福竜丸の事件から57年後の2011年3月。福島で原発事故が起こり、放射能検査が始まった。ところが、その年の12月、安全宣言がされた」と。福島の事故の際には、多かれ少なかれ日本全国に放射能が拡散したはずだ。また当時の新聞の片隅に、放射能が地球を半周したという記事があったと記憶する。半世紀以上前の核実験による被害は、完全に3:11以後の汚染状況に連環するのである。それは、子孫にどんな結果をもたらすのか。「放射線を浴びたX年後 2」は、ナレーションとインタビュー中心、TVマンらしい現実の切り取りかたである。欲をいえば、いま生きている漁師たちや、取材拒否した人々にも、もっと肉薄してほしかった。それは“パート3”に期待しよう。(★★★★)
イスラエル出身のメナヘム・ゴーラン(1929~2014)とヨーラム・グローバス(1941~)は、キャノンフィルムズを率いて1980年代ハリウッドで旋風を巻き起こした従兄弟同士です。映画監督でもあるメナヘムと、プロデューサーとして高い資質を持つヨーラムのコンビは、低予算のジャンルムービーを次々と製作。「デルタ・フォース」「暴走機関車」、「狼よさらば」シリーズなど、当時のメジャー映画会社を超える製作本数で次々とヒットを飛ばした。1986年には年間46本の作品を製作、巨万の富を稼ぎ、一時代を築く。そんな彼らのキャリアを振り返り、映画に対する愛と情熱をドキュメンタリーに仕立て上げたのが、ヒラ・メダリア監督のイスラエル映画「キャノンフィルムズ 爆走風雲録」(11月14日公開)です。
※
ゴーランとグローバスは、1970年代後半にハリウッドに進出。「サンダーボルト救出作戦」「グローイング・アップ」などをヒットさせて、インディペンデント製作会社キャノンを買収。製作・配給・興行を含めた総合的な会社・キャノン帝国を作り上げた。ゴーランは監督を含めた映画作りを引き受け、グローバスは資金面を担当。低予算のエンターテインメントを手がけるいっぽうで、ジャン=リュック・ゴダールやジョン・カサヴェテス、ロバート・アルトマンなどアート系作家の作品にも出資。映画の全方向へと突き進んだが、やがて大きな資本の流れに押し流されて、ふたりの関係にも亀裂が入っていく。会社の買収、劇場チェーンの経営など、間口の広げ過ぎで、キャノンは倒産寸前に追い込まれるのだ。
※
「アメリカに来た時の所持金は500ドルだった。小さなアパートを借りて同居した。毎日ホットドッグを食べ、LAで最も危険な地域で小さな事務所を借りた。貧乏暮らしだったが、人生で最高の時期だった」と、ゴーランは語る。彼らは、エンタメに徹したムービーメーカーとしてアメリカン・ドリームを達成したわけだ。「映画は娯楽だ」という哲学で、大衆化に固執した低予算映画を手がけた。そして泥臭く、エネルギッシュ、何でもやる、イケイケの映画作りに専念する(本作の原題・主タイトルは「The Go-Go Boys」という)。時代の流れにも敏感で、LAの路上で流行したダンスを即映画化したり(「ブレイクダンス」)、珍しくシドニー・J・フューリー監督の大作「スーパーマン4/最強の敵」を手がけたりもした。
※
ゴーランの監督作品には、「燃えよNINJA」「デルタ・フォース」「オーバー・ザ・トップ」などがある。きっと、大いに楽しんだファンもいるのでは。また、キャノンで活躍した主なキャラクターは、チャールズ・ブロンソンのマグナム、ショー・コスギのニンジャ、ジャン・クロード・ヴァン・ダムの股割り、などなど。本作には、チャック・ノリス、ヴァン・ダム、ジョン・ヴォイトらのインタビューも登場。なかでも、ヴァン・ダムがゴーランらに「ひざまずいて、(股割り芸で)スターにしてくれ、と頼んだ」というエピソードには笑える。キャノンで製作された作品の特色は、勧善懲悪のアクション主体、そしてセクシーすぎる美女たちの登場。そこには、ハリウッドに乗り込んだ男たちのバイタリティーがみなぎっていた。
※
ゴーランは、「映画がすべて。その他は不要」と、映画一筋に生きてきた。そして、キャノン帝国が凋落しても、グローバスと別れ自由な映画作りを続けることにこだわる。それは2000年代に入っても止むことなく、2014年にテルアビブで死去する。本作のメダリア監督とのインタビューで、ゴーランが「失敗したことや苦労話は語りたくない!」と怒り出すシーンがある。そこには、失敗も成功も含めた上での映画製作への情熱が感じられる。キャノンが倒産状態に陥った際も、ゴーランはそれまでの映画作りに固執し、グローバスと衝突してキャノンを辞めたという。いっぽう、ヨーラム・グローバスは独立して、活動の拠点をイスラエルに移す。決別後も、彼らの映画への執念は変わりがなかった。(★★★★+★半分)
「神々のたそがれ」「草原の実験」に続いて、またロシアから問題作が登場しました。アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の「裁かれるは善人のみ」(10月31日公開)です。土地の再開発をめぐって、アメリカで実際に起きた悲劇的な事件をベースに、無実の罪に問われて財産を奪われた男の物語「ミヒャエル・コールハースの運命」、旧約聖書「ヨブ記」、そしてトマス・ホッブズによって書かれた国家についての政治哲学書「リヴァイアサン」などから着想を得て作られたという。土地の買収をもくろむ行政と対立して、孤独な闘いを続ける男のドラマ。カンヌ国際映画祭脚本賞、ゴールデングローブ外国語映画賞などを受賞、米アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされるなど、世界の映画祭で評価されています。
※
ロシア北部、バレンツ海に面した入江の小さな港町。自動車修理工場を営むコーリャ(アレクセイ・セレブリャコフ)は、若い後妻リリア(エレナ・リャドワ)、亡き妻との間に生まれた息子ロマとともに、住み慣れた家で慎ましく暮らしている。だが、1年後に選挙を控えた強欲な市長ヴァディム(ロマン・マディアノフ)が、権力に物を言わせ彼らの土地を買収しようと企む。人生のすべてともいえる場所を失うことに耐えられないコーリャは、強硬策に対抗すべく、友人の弁護士ディーマ(ウラディミール・ヴドヴィチェンコフ)をモスクワから呼び寄せる。そして、ようやく市長の悪事の一端をつかんで、それを明るみに出そうとするのだが…。肥大化した権力を前に闘うコーリャは、成す術もなく打ちのめされていく。
※
ズビャギンツェフ監督は、「父、帰る」(03年)で劇場長編デビュー。以後、「ヴェラの祈り」(07年)、「エレナの惑い」(11年)で世界の映画祭を席巻した。今回の作品の着想を得たキルドーザー事件とは、アメリカ・コロラド州で起きた改造ブルドーザーによる大規模な建築物破壊事件。町の再開発による隣接する工場建設に反対して、巨大企業、市役所、警察、州に異議を申し立てた溶接工が、孤立して業務停止となり、あげくブルドーザーで市役所、工場、新聞社、市長宅などを破壊した末に自殺したという事件だ。「この話に強く心打たれ、そこにとてつもない反逆者を見た。次にハインリッヒ・フォン・クライストの小説で、これに似た“ミヒャエル・コールハースの運命”を読んで、舞台をロシアに置き換えることにした」と、同監督は語る。つまり「人と国家と神、そして悪についての普遍的な物語」だと。
※
結果、権力の腐敗の構造を庶民の視点から分かりやすくとらえた作品に仕上がった。権力+司法+神(教会)の癒着と、コーリャの孤独な闘いと挫折。コーリャの判決シーンで、事務的に早口で判決を読み上げる判事たち。多くの船が朽ち果てて、打ち捨てられている入江の傍に建つコーリャの簡素な家。悪事の証拠を握り、市長を脅すディーマ。これに怒り、意のままに動く判事や検察官、警察官を呼びつける市長。弁護士のディーマが、つい友人の後妻リリアと不倫に陥るくだり。更に、コーリャは友人家族と射撃に出かけた際、歴代の指導者らの写真を標的に銃を撃つ。レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ等、加えて、「エリツィンは三流だから、いない」とうそぶく。なんという反逆精神だろう!
※
市長は、コーリャの家を排除して複合施設を作るつもりだ。人気のない荒地で袋叩きにされる弁護士ディーマ。魚の加工場で仕事をしていたリリアは、ある日、入り江で水死体として発見される。追い詰められたコーリャが神父に訴えかけても、どこか相手は頼りない。あげくに、妻殺しの犯人として逮捕される。彼の家は無残に壊され、橋のたもとにきらびやかな教会が建てられる。やがて、教会の周辺は造園され、飲食店ができる予定だ。ラストは、潮が引いた海辺に、クジラとおぼしき巨大な生物の骨が横たわるシーン。凍り付いた入り江。まるでなにも変わらぬかのように、波が荒く冷たく、ただ打ち寄せる、という象徴的な場面だ。ズビャギンツェフ監督は、荒涼としてシンボリックな自然描写でドラマを際立たせる。
※
映画の原題は「Leviathan」という。“リヴァイアサン”とは、聖書に出てくる巨大な海獣(クジラまたは海ヘビ)のこと。1651年に刊行されたトマス・ホッブズの著書では、リヴァイアサンは個人が抵抗することができない国家を象徴するものとして名付けられたという。いわば、本作はロシアの体制批判を寓話的に描いたものでもある。また「どこに神はいるのか?」と問うコーリャに、神父はヨブ記の話をする。このあたりは、旧約聖書に馴染みのない身には分かりにくい。でも、権力と神との結託という観念が主題のひとつでもあるのだろう。それにしても、日本題名「裁かれるは善人のみ」とは言い得て妙、ですね。音楽は、フィリップ・グラスのオペラ「アクナーテン」の楽曲が使用された。(★★★★+★半分)
フランス女優ジュリエット・ビノシュは、20代にレオス・カラックス監督と組んだ「汚れた血」(1986年)、「ポンヌフの恋人」(1991年)で衝撃的な青春像を作り上げました。デビュー時は「ほとんど精霊の域にある美貌と無垢さ」と評されたが、その奥の深い個性は、以後次第に洗練されていきます。その彼女も、すでに50歳。オリヴィエ・アサイヤス監督の「アクトレス~女たちの舞台~」(10月24日公開)では、歳を経た女優の試行錯誤を表現、変幻自在のメーク(スッピンに近いときもあり)・髪型・衣装で登場、女優としての貫禄を溢れさています。アサイヤスとは4度目の共作となる彼女は、クランクインの数年前、同監督に「時間と対峙する女性の本質をより掘り下げてほしい」と耳打ちしたといいます。
※
大女優マリア(ビノシュ)は、優秀で忠実なマネージャーのヴァレンティン(クリステン・スチュワート)と二人三脚で世界を股にかけて活躍している。そんな時、マリアはかつて女優として花開く機会を与えてくれた舞台劇への出演を再び打診される。だが、マリアは躊躇していた。なぜなら、20年ぶりのリメイク作品で依頼されたのは、かつて自分が演じた若い小悪魔のシグリッド役ではなく、彼女に翻弄され自滅していく中年の上司ヘレナ役だったからだ。若い主人公の配役は、すでにハリウッドの大作映画で活躍する若手女優のジョアン(クロエ・グレース・モレッツ)に決定していた。混乱するマリアは、ふたつの役柄の間に自らに流れた時間を重ね合わせることで、次第に演じることの意味を見出していく…。
※
映画は、最初はメロドラマ風の展開を見せるが、次第に演技・演劇論とシリアスな方向に収斂していく。また、ジュリエット・ビノシュを支える、ふたりの女性像もユニークだ。クリステン・スチュワート演じるマネージャーのヴァレンティンは、スター女優に寄り添い、見守りながら、客観的で冷静な言動を見せる。彼女は、若いジョアンを軽蔑するマリアに「ジョアンはゴシップまみれの問題児だが、ハリウッドでは珍しく減菌されていない」と語り、ふたりでジョアンが出演するハリウッド式モンスター映画を見に行く。そして、「続編の脚本は物体のようなもの。立場によって見方が変わる」という予言的な言葉を残して、忽然と姿を消す。スチュワートは、この演技で米女優初のセザール賞最優秀助演女優賞を獲得した。
※
対して、クロエ・グレース・モレッツ扮する若いハリウッド女優ジョアンは、不倫相手を堂々と同行させてマリアに会いに行くような傲岸な存在だ。そしてマリアに対して、このゴシップ・クイーンは「敬愛している」と言いながらも、物怖じしない発言を繰り返す。このジョアンという存在を媒介にして、マリアは言い放つ。「CGとワイヤーに頼った『X-MEN』のネメシス役は一度で懲りたわ」と。それは、ビノシュの本音ともとれるアンチ・ハリウッド的な姿勢そのものでもある。一説には、大作「GODZILLA ゴジラ」(2014年)への出演が、マリアを演じる上で経験値として役立っているという噂もあるようだ。そしてラスト、ロンドンでの舞台リハーサル本番では、マリアは予測通りにジョアンと対立してみせる。
※
映画の原題は「Sils Maria」。また、劇中マリアとジョアンが共演する舞台のタイトルは「マローヤのヘビ」。本作のメインのロケ地は、スイス東南部のリゾートとして知られるサン・モリッツ近くの集落シルス・マリア。このあたりでは、初秋の早朝、湿った空気がイタリアの湖で生じて雲に変わり、マローヤ峠をうねりながらヘビのように進む壮観な風景を望むことができるという。劇中、マリアとヴァレンティンが、この山と湖の風景を楽しむくだりがある。アサイヤス監督は、「こちらを圧倒させるものを持ちながらも、とても人間的な風景の中の、不変であると同時に絶えず変化する風景」と語る。とは言うものの、そうした抽象的な概念よりも、観客はヒロインの演技論、若さの喪失、女優としての心理的な葛藤などを通して、ひたすらビノシュの華麗な魅力を堪能すればいい、と思います。(★★★★)