わくわく CINEMA PARADISE 映画評論家・高澤瑛一のシネマ・エッセイ

半世紀余りの映画体験をふまえて、映画の新作や名作について硬派のエッセイをお届けいたします。

満洲映画協会について知っていますか?

2016-01-08 17:44:56 | 映画の本

 1932(昭和7)年、日本の関東軍主導のもとに、現在の中国東北部に傀儡国家・満洲国が創立された。1937(昭和12)年、首都・新京(現在の長春)近郊に国策映画会社・満洲映画協会(略称:満映)が設立される。資本金は、満洲国と南満洲鉄道(満鉄)が共同出資。日満親善、五族協和、王道楽土を謳い、満洲人を教育することが目的だった。看板スターは李香蘭(山口淑子)。2代目理事長が、戦前の憲兵大尉時代にアナーキスト・大杉栄らを殺害したとされ、満洲国建国にあたっては夜の帝王と呼ばれた甘粕正彦。反面、彼は文化・芸術面に明るく、満映理事長になってからは中国人従業員の待遇に気を配ったといわれる。だが、敗戦(1945年8月15日)から5日後に青酸カリで自殺。満映は中国共産党に接収され東北電影公司となり、やがて東北電影制片廠を経て長春電影制片廠へと引き継がれた。
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 戦後70年にあたる昨年、この満映を取り上げた本が3冊出版されました。まずは、戦後の旧満洲で育った中国人女性チャン・シンフォン著「旧満洲の真実―親鸞の視座から歴史を捉え直す」(藤原書店)。彼女の母親は満映最初の中国人タイピストであり、本文では満洲国の盛衰を追いながら、中国人従業員を重視した甘粕の話など、満映のエピソードが織り込まれていく。もう1冊は、経済学教授などを経て早稲田大学名誉教授である小林英夫著「甘粕正彦と李香蘭―満映という舞台<ステージ>」(勉誠出版)。経済学者らしく主に満映の経営を経済面から分析、甘粕正彦と李香蘭の足跡をとらえる。とりわけ、憲兵時代の大杉栄殺害事件を、誰かの罪をかぶったものとして、甘粕を比較的擁護している点が目新しいといえる。
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 この2冊に比べ、ダントツに面白く、勉強になるのが、映画編集者・岸富美子の回想録「満映とわたし」(文藝春秋/文責・石井妙子)です。岸さんは、女優・原節子や李香蘭と同年の1920(大正9)年生まれの95歳。家庭の事情から、15歳で京都の映画会社に入り、編集助手となる。兄たちは映画カメラマンだった。映画編集とは、簡単に言えばフィルムのカットとカットをつないで1本の映画に仕立てる作業だ。1939(昭和14)年に、兄の誘いで満洲に渡り、満映に入社。甘粕正彦の指示の下で、中国人従業員とともに仕事をする。日本の敗戦間際には、巨匠・内田吐夢監督も満映にやって来た。やがて敗戦、ソ連の侵攻、戦後は国共内戦の最中、運命に翻弄される。岸さんらは、敗戦後すぐには帰国できなかった。岸さんは、敗戦直後に社員をそっちのけにして自死した甘粕を「卑怯だと思った」という。
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 満映が共産党に接収された後は、国民党軍に追われて列車に映画機材を乗せ、ソ連との国境近くまで逃れる。赤ん坊を抱えた岸さんが、仲間と極寒の地に逃れていく過程が過酷だ。リーダーを内田監督らがつとめた。更に、人員削減のため炭鉱地帯に送られ、映画人は石炭の積み下ろしや採掘に従事。やがて共産党の治下となるや、長春に戻り、東北電影公司で中国人スタッフに技術を伝える。この頃の教え子が礎となり、のちの中国映画界を支える。日本に戻ったのは、終戦から8年後の1953(昭和28)年。帰国したのはいいけれど、日本映画界からはアカ呼ばわりされ、主に独立プロで仕事をした。本書では、戦中の映画人の苦難の道のりが詳細かつ具体的に述べられる。とりわけ、日本の映画人同士の間で生まれた分裂、裏切り行為などのタブーに触れているくだりが印象に残る。まさに、満映にかかわる貴重な一次資料である。映画人、映画ファンとも必読の書だ。ちなみに、満洲国は中国では「偽満洲国」と表記され、日本では「中国東北部(旧満洲)」と呼ぶことが通例になっています。



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