徒然なるままに…なんてね。

思いつくまま、気の向くままの備忘録。
ほとんど…小説…だったりも…します。

最後の夢(第五十四話 疲れた…。)

2005-12-17 23:52:02 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 久遠は翔矢が自分よりも年上だと思い込んでいた。別に誰に聞いた覚えもないがひょっとしたら何かの折にそう吹き込まれたのかも知れない。
 いつも久遠に対して落ち着いた態度で穏やかに微笑みかける翔矢を知らず知らずのうちに年上と勘違いしていたのかも知れない。
 何れにせよ久遠は今まで一度足りとも翔矢を血の繋がった者だと認識したことはなかった。

 「まさかとは…思うが…。 」

久遠は力なくまた腰を下ろした。

 「翔矢を久遠の兄弟だと考えると樋野にはほとんどメリットのない瀾を殺すことへの異常なまでの拘りや城崎の家への執着心などの説明がつくんです。
翔矢は久遠の城崎家への想いに自分の想いを重ねている…。 」

 修にそう言われて城崎は唸った。
何ということだろう…もし本当なら義兄はずっと城崎を欺いてきたことになる。
こんなにも長い間…いったいどうして…?
 城崎家の長年に亘る樋野に対する差別への仕返しか…それとも単に子どもが欲しかっただけなのか…。
 
 「あくまで僕の推測ですから…真実は分かりません。
僕が去年子どもを亡くしたときに状況が似ていたものですから…。
 陽菜さんとは違って笙子の場合は8ヶ月までは何ともなかったのですが…やはり早産で…男の子ふたりでした…。 
笙子だけは無事でいてくれましたが…。 」

 城崎は痛ましそうに修を見た。
久遠のことで修は亡くした子どもたちのことを思い出してしまったに違いない。
申し訳ないことをした…と城崎は思った。

 「もし…この推測が中っているなら翔矢は必ず何かを仕掛けてくるでしょう。
間をおくことはあっても絶対に諦めることはないはずです。
 瀾と久遠については紫峰が力を尽くしますが…城崎でもくれぐれも警戒を怠らないようにしてください…。
 城崎さんご本人よりも…城崎では頼子さんや佳恵さんが的になってしまう可能性の方が強いでしょう。 」

 城崎は心得たというように頷いて見せた。
そろそろお暇を…と城崎は駐車場で待たせてあった車をポーチまで呼び出し、頼子を促して立ち上がった。

 それでは玄関までお見送りを…と修も立ち上がった。
城崎の陰から頼子が微笑みかけたが修は気付かない振りを決め込んでいた。
 退室する城崎の後について一歩踏み出した途端…急にめまいがして目の前が真っ暗になった。
勢いよく仰向けにその場に崩れ落ちそうになった修を雅人が慌てて支えた。
修の真っ青な顔色を見て周りは騒然となった。

 雅人が考えていた以上に症状が重い…。
修はゑずいているわけではなく、パニック障害のような状態…。
何か修の中でいつもとは違うトラブルが発生しているに違いない。

 「透…黒ちゃんを呼んで…。 
いつもの症状じゃない…。  これは僕の手には負えない…。 」

 

 黒田が飛んできたのはそれからしばらくしてだった。
幸いなことに黒田は今日オフィスではなく家の方にいて、透からの連絡を受けるとすぐに駆けつけた。

 突然の騒ぎを丁寧に詫びながら、心配する城崎と頼子を久遠や瀾と一緒に玄関先で見送って、透と隆平は修の寝室へ戻ってきた。

 「雅人…どこかいつもと変わった様子はなかったか? 」

黒田は修の着ているものをゆるめながら訊ねた。

 「頼子さんと戯れてる最中にゑずいて飛び出してったけど…後はみんなの前では普通にしていたよ…。 
顔色は確かに悪かったけど…。 」

雅人は見たままを報告した。

 「女か…。 
何か修が強い衝撃を受けるような…トラブルが起こったんだ。
客がいたので無理してパニック起こしそうなのを我慢していたに違いない…。 

 修…いい子だ…落ち着いて…ゆっくり深呼吸。 
そう…話せるかい? 」

黒田がそう訊ねると修は頷いた。 
 
 「…身体が…勝手に…動く…。
止められないんだ…どちらも僕なのに…止められないんだ…。 」

 困惑した様子で黒田に症状を訴える修をいったん黙らせておき、黒田は子どもたちに部屋の外へ出ているように言った。
雅人を始めみんな素直に黒田に従った。

 「修…大丈夫だ…。心配ない…。
おまえの理性がちょっと勝ち過ぎてパニックを起こしただけだ。
 ほら…何か馬鹿なことをやっている自分を冷静に見つめている自分…そんな感覚が極端になっただけだよ…。

 おまえは後遺症を気にして女に対しては少し臆し気味だし…女に手を出しちゃいけないとどこかで思っているから…さ。
 いくらおまえでも男だから…そりゃあ耐えられない時もあるぜ…。
聖人じゃないんだから時には解放してやらないとな…。

 あの娘が望んでいて…おまえにもその気があるならそれは悪いことじゃない。
自然に任せてしまえばいいことだ。 」

 黒田は小さな子どもにするように修の頭を撫でてやりながらそう諭した。
自然に任せることが修にとってはどれほど苦痛を伴うことか…黒田にも分からないわけではなかった。
 突発的に顔を覗かせる拭っても拭っても拭い去れない性行為への嫌悪感と罪悪感…心と身体の分裂はそこに起因するのだろう。
普段は胸の奥底にしまわれていて、表向きあっけらかんとしているだけに誰も気付かない。

 可哀想に修…ここまでおまえを追い詰めた者を殺してやりたいよ…。
おまえから…こんなにも心と身体の自由を奪ったやつを…。 

黒田は唐島の顔を思い浮かべた。しかしすぐに訂正した。

いいや…修を精神的に追い詰めたのはあいつだけではない…透を修に任せきりにしていた俺もそのひとりだ…。 

あの頃まだ幼かった修に負わせた荷の重さを黒田は今更ながらに痛感した。



 修が寝息を立て始めたので黒田は居間の方へやってきた。
黒田の姿を見るとみんな一様に心配そうな目を向けた。

 「黒ちゃん…修さんは? 」

雅人が不安げな顔で訊いた。

 「大丈夫…落ち着いた。 今は眠っているよ。 
雅人…今夜は修についていてくれ。 
修がこれほどの症状を起こしたのは初めてだから…な。 」

雅人は分かった…と頷いた。

 「親父…修さんはなぜ急に発作を? 
症状は治まってきてるって笙子さんは言ってたのに…。 」

透が怪訝そうに訊ねた。

 「女にゃ分からんこともある…修は黙って我慢してることが多いから余計にな。
冬樹を亡くした時にも…軽い症状はあったんだ。
去年こどもを亡くしたことが相当つらかったんだろう…。
あいつは母親以上に母親的なところがあるからな…堪えたんだ。

 そんな時に長老衆が鈴を連れてきて内妻にしろと言うわ…今度は笙子が頼子を嗾けたりするわ…で修は心身ともに疲れきってしまったんだ。
 ただでさえ…身体が思うようにならないのに…どうしろってんだってね…。
それでも誰にも何も言えずに我慢していたから…こんなことになったのさ。」

黒田は大きく溜息をついた。

 「黒ちゃん…今日は彰久さんの当番だから史朗さんはいないんだけど…史朗さんについててもらった方がいいのかな…? 」

雅人が思いついたように言った。

 「いいや…史朗じゃだめだ…。 修が気を使う。 おまえの方が適任だ。 」

そうか…と雅人は納得したように頷いて急ぎ修の部屋へと戻っていった。

黒田はもう一度溜息をつくとどさっと音を立ててソファに腰を下ろした。 

 「透…決して忘れるな…。
おまえを育ててくれた父さんが…おまえたち紫峰のこどもらを護り育むためにどれほどの犠牲を払ってきたか…。
 修がこれほど苦しむのは単に唐島がしたことの後遺症というだけではない…。 
この紫峰家を護り抜くために…おまえたちを生き延びさせるために修が自分の何もかもを犠牲にして戦ってきた結果生じた後遺症でもあるんだ。
 
 透…おまえの父さんは紫峰歴代の宗主の中でも最高の宗主だ。
おまえは修の息子だということを誇りに思え…。 」

 実の父親の息子を諭す言葉に透はただ頷いた。
実父でありながら決して名乗ろうとしない黒田…透を捨てたわけではない…透は胎児のまま母親と共に紫峰本家に奪われたのだ。
30年近くも一左を封じ込めたあの悪魔のような三左の企みで…。
 だが黒田はその透を我が子のように愛し育んでくれた修の手から今さら奪い返そうとは考えていなかった。

 黒田たちの様子を見ていた久遠は紫峰家の人々を巡るおぞましくも悲しい過去を彼らの心から垣間見た。
 酷い思いをしてきたのは自分だけじゃない…生きることは多かれ少なかれ苦しみや悲しみを伴うものなのだと改めて思い知らされた。

 俺は…確かに他人にその苦しみも悲しみも話しはしなかったが、仲間がそれと簡単に気付いてしまうような隠し方をしていたのかもしれない…。
 修は…いかにも人生を謳歌しているような姿を見せることですべてを覆い隠し、周りを安心させようとする。
 そのことが逆に自らの身体と心とを蝕んでいっても他人に気取られまいとする姿勢を崩さない。
 どちらがいいとか悪いとかという問題ではないけれど長としては見習うべきものがあるような気がする…身体や心の崩壊を招くのは避けるべきだと思うが…。

 修の記憶の中のあの樹という男が早死にしたのも修のように自らを犠牲にし続けた結果なのだろうか…?

 久遠はふと…そんなことを思った。





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最後の夢(第五十三話 突然の衝動)

2005-12-15 23:29:46 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 舞の教室は週に一度開かれている。これは一般向けのもので、隆平や瀾、小峰の健太や雄太に関してはまた別枠が取られている。
 頼子は勿論一般向けの教室に通っていた。
頼子の他には舞の初心者はいないのでついていけるかどうかが懸念されていたが、若い頼子は教室の雰囲気にはすぐ慣れ、親以上に齢の離れた先輩たちに可愛がられて結構いろいろ教えて貰い、何とか無事続けられそうに思われた。

 稽古が終わって他の生徒が帰ってしまった後、頼子は洋館の方へ向かった。
今日は城崎が久遠と会う約束をしているというので、頼子はその時間に城崎とそこで落ち合うことになっていた。

 洋館の居間にはまだ誰も来ておらず、久遠がいないかと部屋に行ってみたが留守のようだった。
 約束の時間までにはまだ随分と間あるので無理もないが、他人の家でひとりきりでいるのはなんとも心細かった。
 
 多喜が気を利かせてお茶やお菓子を出してくれたが、ひとりでお茶を飲むのもなんとなく味気なかった。
 洋館までの道が寒かったせいか暖房の部屋で熱いお茶を飲むと身体が火照ってだんだん眠くなってきた。
うつらうつらしている内にいつの間にか眠ってしまった。

 どのくらい眠ったのかパソコンのキーを叩く音の中で目を覚ました。
頼子の身体には毛布が掛けられてあり、文机でいつものように仕事をしている修の姿が見えた。

 「ご…ご免なさい…。 つい眠ってしまって…。 」

 頼子は慌てて起き上がった。
時計を見るとそれでもまだ30分くらいしか経ってはいなかった。

 「いいよ…別に…。 久遠も城崎さんも少し遅れると連絡があったし…寝てて構わないよ。 」

 修はこちらも見ずにそう言った。
寝てていいと言われても…頼子は毛布の下の自分の姿に気付いて顔を赤らめた。
稽古用の着物のまま寝乱れた姿はさぞしどけなく修の目に映ったことだろう。
またとんでもない姿を見られてしまった…頼子は情けなくなった。

 「みっともないところをお見せして…。 」

頼子は恐る恐る言った。修はチラッと頼子の方へ顔を向けて笑みを浮かべた。

 「どういたしまして…なかなかに色っぽいお姿を拝見しました。 」

 頼子の頬が紅く染まった。
恥ずかしそうに押し黙ってしまった頼子を見て修は何か悪いことを言ってしまったのかな…と思った。

 「…気に障った? 」

 修は頼子の傍まで来て膝を突き心配そうに顔を覗き込んだ。
頼子は首を横に振った。なぜかぽろっと涙が落ちた。

 「あたし…宗主に…失礼なことばかり…。 
旦那にきちんとしてなきゃいけないって…いつも言われてるのに…。 」

涙はやめてくれ…修は天を仰いだ。   

 「ごめん…言い方が悪かった。 」

 おそらく城崎が礼儀や行儀作法について厳しく言い聞かせ、何処に出しても恥かしくないように頼子を躾けているのだろう。
頼子はそれに真剣に従おうとしている。 健気と言うべきか…。

 「でも…僕には気を使わないでもいいよ。 僕はきみの先生じゃないし…。 
居眠りくらいどうってことないんだから…。 」

頼子が上目遣いに修を見つめた。

 「礼儀と作法は時と場所を選んで用いたらいいのさ…。
素のままのきみがいい…。 僕には飾らない姿を見せて…。 」

 そう言いながら修は何か自分がとんでもない事を口走っているような気がした。
まるで求愛じゃないか…。 おい修…まじかよ…。
城崎の細工でも笙子の悪戯でもない…これは僕自身…まいったな…。

 唇を重ねると後はまるで吸い寄せられるように修の身体が頼子の豊かな肢体を求め始める。
 ところが心の中では冷静な自分がこの唐突な性衝動に頭を抱え込んでいる。
嘘だろ…なぜ今? なぜ…頼子を?
 心の制止命令に反して身体は欲求を深める。こんな馬鹿なこと…。
どうしようもないジレンマに苦しむ中で肉体と精神の葛藤がまた修の胃を刺激し始めた。

背後で咳払いの声が聞こえた。雅人の気配だ。
 
 「お邪魔だったかなぁ? 」

 正直…助かったと修は思った。危機一髪の冷や汗ものだ。
頼子は慌てて居住まいを正した。

 頼子の見ている前で修はいきなり口元を抑え、背後の雅人を突き飛ばさんばかりの勢いで部屋を飛び出していった。

 「ど…どうなさったんですか? 」

目の前で起きたことが理解できずに頼子は雅人に訊ねた。

 「気にしなくていいよ。 宗主はそっち方面の行為が苦手で時々ゑずくの。
いつもってわけじゃないからベッドに誘うのは構わないけど…気分悪そうだったら無理させないでね。 」

 雅人は何でもないことのように頼子にそう話した。
頼子は雅人があまりにあっけらかんと言うので特別な感慨もなく、ああそうなんだ程度に受け取った。

 「きっとすごく繊細で神経質なのね…。 どおりで晩熟だと思ったわ。
分かりました…今度から気をつけます。 初心者マークつけとこう。
何だかますます可愛くなってきちゃった…。 」
 
 頼子は笙子そっくりな笑みを浮かべた。
雅人はやれやれというように肩を竦めた。とうとう蜘蛛の巣に引っ掛かった…。
 女は魔物だ…修さんはもう頼子さんから逃げられないね。
戻ってきた修の複雑な表情を見ながら気の毒そうに雅人は笑った。



 雅人が作った写真を手にした時、城崎は動揺を隠せなかった。
30何年もの昔に亡くなった恋人がそこにいた。

 「これはどういうことだろう。 陽菜だ…。 間違いなく陽菜の写真だ…。 」

城崎は久遠を見つめてはっきりと断言した。 

 「でも父さん…これは母さんじゃないんだ。 翔矢といって樋野の伯母の妹の子なんだ。 
 伯母の家も樋野と血の繋がりは確かにあるけれど、ほとんど他人と言ってもいいくらいの関係の男がここまで似ているのは不思議だろ? 」

久遠が言うと城崎は確かにそうだ…と頷いた。

 「城崎さん。 久遠が生まれたときの状況を詳しく話して頂けますか? 」

 修がそう頼んだ。
城崎はしばらく思い出そうとするかのように目を閉じていたが、やがてゆっくり語り始めた。

 久遠を身籠ったと分かった頃から陽菜の体調は思わしくなく、医師の勧めで臥せっていることが多かったが、御腹が大きくなると頻繁に早産しそうになり、大事をとって樋野の実家に戻った。

 当時はまだ親の許で仕事を覚えている最中だった城崎は通院の時も樋野に戻ってからもめったに陽菜と一緒にいてはやれなかった。
 それでも時々は訪ねて行っては子どもの名前をふたりで考えたりもしたが、いつも城崎の親からの急な呼び出しがあり、すぐに帰らねばならなかった。

 城崎の親は用事があって息子を呼び出しているわけではなく、息子が樋野の娘の許に長くいることが気に食わないだけだった。

 そんな状態だから陽菜の容態が急変して久遠が早産で生まれた時も立ち会うことができず、やっと陽菜と久遠に会えたのは翌日になってからだった。
 陽菜は出産で力を使い果たしたのか城崎の顔を見ると力尽きたように人生の幕を閉じてしまった。
子どものことをくれぐれもと城崎に頼みおいて…。

 「陽菜が不憫で…久遠が不憫で…私は長いこと泣き暮らしました。
しかし…遺された久遠を何とか立派に育てて城崎の後継者にすることが陽菜に報いることだと心に決め、それからの私の人生のすべてを久遠を育てることに捧げてきたつもりです。
 あんなことがなければ…今でもそうしていたことでしょう。
私の愚かな過ちのせいで…久遠を城崎から追うようなことになってしまって…。」
 
 城崎は悲しげに久遠を見つめた。
久遠は穏やかに微笑んだ。

 「でも…俺は戻ってきた…。 もうじき父さんの傍に帰るから…。 」

城崎は嬉しそうに目を細めて何度も頷いた。

 「出産の時に何か異変が起きたとか…そういう話は聞かれていませんか? 」

 修が訊ねると城崎は首を傾げ何も聞いていないと答えた。
自分の考えをふたりに話すべきかどうかを修はしばし考えていたが意を決したように口を開いた。
 
 「陽菜さんの体調その他の状況を考えるとその出産は妊娠したその当初から相当な負担を陽菜さんの身体に与えていたものと考えられます。

 通常の出産でもそれは起こり得ることなので…これは僕の想像の域を脱しませんが…多胎児の場合はその危険性がさらに増すと言われます…。 

 翔矢は久遠の兄弟…双子だったのではないかと思うのです…。 」

 修は自分の思うところを述べた。
そこにいた者たちはみな愕然として修の顔を見た。
久遠も…城崎も知らない秘密が本当に存在するのか…。

 馬鹿な…久遠は衝撃のあまり立ち上がった。
翔矢が…兄弟…。

 修は久遠に向かってそうだ…と頷いた。
想像どころかまるで…すでにそのことを確信しているかのように…。




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最後の夢(第五十二話 写真)

2005-12-13 23:57:00 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 「夕べまた怒りのメールが届いてたわ…。 
雅人くんはほんとにあなたのことが大好きなのね…。」

 笙子はベッドの上の大きなクッションにもたれかかりながら修に笑いかけた。
御腹が重くなってきて完全に仰向け状態になるのがつらいと話したら史朗が早速気を利かせて用意してくれたものだった。

 「紫峰の外で育った雅人にとって本当に心許せる者は僕しかいないんだよ。
だから僕の傍から離れようとはしない。
この頃ちょっと史朗には心開いてきたようだが…。 」

 笙子の丸い御腹をいとおしげにそっと撫で擦りしながら修は笑顔を見せた。
たまにしか会えない笙子の御腹は見るたびに膨らんでいって本当に不思議だ。
新しい命は確かにここで育っている。

 「僕もここに居たことがあるんだよ…。 きみと同じだね…。 」

 修は御腹の子に向かってそう話しかけた。
笙子はそんな修の様子をまるで我が子を見る母親のような眼差しで見つめていた。
 実子かどうかも分からないのに生まれる前から溢れるような愛情を注いでいる。
笙子の御腹に手を触れるときの修の幸せそうな顔が笙子の心にも満足感を与える。
笙子はそういう修を心から愛しく思った。

 愛しいけれど時々思いっきり苛めたくなる…少年のような心を傷つけて弄んでその反応を確かめたい…。
 笙子のサディスティックな悪戯は愛情の裏返し…そのことは修にもよく分かっていてこれまでも他人を巻き込んだりしなければ甘んじてそれを受け入れてきた。
  
 ところが最近では雅人がまるで修の保護者にでもなったかのように笙子の悪戯を手厳しく叱りつけるので笙子も少し手控えざるをえなくなっている。
そのせいでちょっとばかり欲求不満だったところへ頼子の出現でまたまた悪戯心がむくむくと湧いてきたのだった。
 
 「修…その気があるならさっさと行動にでなさい…。
ぐずぐずしてると鈴さんの時みたいにまた誰かに寝取られるわよ…。 」

笙子の口調は穏やかだったが毒を含み、修はまたまたきたかと…うんざりした。

 「笙子…頼むからほっといてくれないか…。 僕も疲れた…。
もし縁があるならそうなるだろうし…なければそのまま…それでいいだろ。 」

 修は大きな溜息をついた。  
笙子は不承不承ながら…お好きなように…と頷いた。

 

 相変わらず部屋の中で圭介が持ってきてくれる情報だけを頼りにあれこれと考えるだけの生活が続いていて敏はいい加減辟易していた。 

 店回りをしている久遠の代理人というのが若い女であることは分かった。
おそらく佳恵だろう。昭二がいろいろと教え込んでいたから…。
佳恵が勝手に動くわけがないから久遠は必ずどこかにいるはずだ。
元気だといいのだが…。

 扉の外で何か話し声がした。
聞き耳を立てていると敏を閉じ込めていた扉が開いてあの男が姿を現した。  

 「あんた…いつまで俺を閉じ込めておくつもりだ…? 」

敏は不愉快そうな声で訊いた。男はそれには答えなかった。

 「久遠を…久遠を連れ戻して…。 ここに連れて帰って…。 」

まるで子どもが何かをねだる時のような言い方で男はそう言った。

 「久遠は紫峰家にいる…。 どんな手を使ってもいい。
久遠を僕から奪っていこうとするあの瀾という子を殺して…。

 邪魔をするなら紫峰の連中をみな殺しにしてしまっても構わない…。
必ず久遠を取り返してきて…。 」

 その口調に敏は戸惑った。誰なんだこいつ…樋野のお偉方の中にはいなかった。
久遠を僕から奪う…? 何のこっちゃ?
正直…敏はこの男が何か妙な考えに取り付かれているのではないかと疑った。

男はきちんと帯つきで束ねられた万札を敏の前に放り出した。

 「前金…久遠を連れ帰ってくれたら海外へ脱出させてやるよ。
当分暮らせるだけのものは持たせてやる…。 
断ることは許さない…僕にはおまえを殺すだけの力がある…。 
圭介たちをつけてやる…必ず久遠を…。 」

 敏はぞっとした。ちょっと見た感じ…男は穏やかで美しい容姿の持ち主だ。
だが口を開けば久遠…久遠…狂気のような執着心。
こんなところへ久遠さんを連れ帰って大丈夫だろうか…?
敏の胸に不安がよぎった。

  

 久遠から借りた写真を手に部屋に籠もっていた雅人は久遠から教えられた人物の拡大写真を作って出てきた。
ちょうど通りがかった隆平にその写真を見せた。

 「隆ちゃん。 この人分かる? ちょっとピンボケだけど…。 」

隆平はじっと写真を見つめた。

 「久遠さん…みたいだけど…。 ちょっと違うかなぁ…線が細いし…。 」

 透が何事かと近づいてきた。
雅人は透にも同じ質問をした。

 「久遠さん…もうちょっと若い時の久遠さん…痩せてるし…。 」

 透はそう答えた。
ふたりともまったく別人とは思わなかったようだ。
雅人は我が意を得たりとばかりに気分を良くした。

 「俺が何だって? 」

 居間の方から久遠の声がした。
雅人は久遠にもその写真を見せてみた…。
久遠はじっと食い入るように写真を見ていたがやがて呟くように言った。

 「お袋の遺影にそっくりだ…。 あれもピンボケではっきりはしてないんだが…親父に見せたら確認できるかもしれない。 」

 どうして…?と久遠は不可思議に思った。
翔矢とはそれほど濃い血の繋がりを持っているわけではない。むしろ薄い。
 それなのに他人とは思えないほど久遠にも似ている。
直接会った時には自分に似ているなどとは思ったこともないのだが…。
 樋野の伯母の実家は樋野とは遠縁にあたるからどこかで繋がってはいるだろうけれども、あらためて他人がこれだけ似ていることを知ると何だか薄気味が悪い気がした。
 
 「まあ他人の空似ってやつがないわけじゃないけれど…これはやっぱり意味を持ってると思うんだ…。 
今週の舞の教室の時に城崎さんにも来てもらって確認して貰おうよ。 」

雅人は久遠にそう持ちかけた。久遠も無言で頷いた。

 「でもなぜこんなことに気が付いたんだ…? 」

久遠は不思議そうに雅人に訊ねた。

 「気付いたのは修さんだよ…僕はただ方法を考えただけ…。 」

 雅人はそう言って笑った。
ふたりがあの時そんな会話をしていたようには見えなかった。

 「だいたい分かるんだよ。 
修さんがあんたに訊ねた内容を聞いていれば修さんが何を考えているか…。
心閉ざしていない時には…だけどね。
修さんにも僕の言いたいことが分かる…。 」

 ふうんと久遠は感心したような声を上げた。
久遠にも読もうと思えば人の心を読み取る力は存在する。
 しかし、兄弟のように生きてきた昭二との間にさえ、それほどツーカーな意思の疎通はなかった。

 「それは…紫峰の持つ特殊な能力なのか? 」

 久遠は真剣に訊ねた。
雅人は笑いながら首を横に振った。

 「とんでもない…ひとえにこれは僕の愛の力よ~。
修さんの愛情を得るためにはそれなりの努力と才知が必要なわけ。
 生まれた時から修さんに育てられている我が子同然の透の向うを張っていこうとすれば、好き嫌いの感情だけじゃどうにもならない。
役立ってこそなんぼのもんよ~。 」

久遠は呆れて目をぱちくりさせた。

 「おまえ…婚約者がいて…そのうえ年上の女に手え出してもうじき親父になるとか聞いたぞ。
それでこと足りずに修とも…とんでもないやつだな…。」

 「うふふ…修さんにとっては迷惑な話だろうけれど時々襲ってます。
よかったら久遠さんも襲ってあげるよ~。 」

 遠慮しとくよ…久遠はそう答えながらも雅人の真意を探っていた。
こいつ口では軽いことを言っているが相当な曲者だ。
 閨房のこともただの遊びではないだろう。
修との駆け引きの手段として利用しているに違いない。
そうなると…史朗よりも一枚上手だな…年若いくせに…。

 雅人は意味ありげな笑みを浮かべながら久遠を見つめている。
まだ大人になりきっていないはずの雅人にそうした老成した力が備わっていることを久遠はそら恐ろしく感じた。




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最後の夢(第五十一話 細工)

2005-12-12 22:10:18 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 帰ってくるなりぼーっとして時折にやけている頼子の様子に、城崎は何かあったな…と感付いた。
 
 「お友だちはゲットできたかな…? 」

 冗談交じりに城崎は訊ねた。頼子はポッと頬染めて俯いた。
こいつがこんなに初々しい顔を見せるとはな…城崎は苦笑した。

 「まだ…ゲットってとこまではいってません。 
宗主…あれで随分と晩熟…まるで中学生みたい…そこがまた可愛いんだけど…。」

 城崎はそれを聞いて可笑しそうに笑った。
何人も愛人が居るという噂だが…それほどの遊び人でもなさそうだな…。
頼子の話からそう思った。

 「旦那…ひょっとしてあの指輪に細工を…? 」

頼子はにやにやしている城崎の様子を見てそう感じた。

 「なに…宗主どのが指輪を拾ってくれそうな気がしたんでな…。 
おまえのことが魅力的にみえるようにちょっと陰の気を…な。 」

それじゃ…あれは宗主の本心じゃなかったんだ…頼子はちょっとがっかりした。

 「取っ掛かりはできたんだ…後はおまえが自分を磨き上げるんだぞ。
宗主の心をゲットできるようにな…。 」

 さっきまでの幸せ気分もどこへやら、いきなりしゅんとしてしまった頼子を元気付けるように城崎は言った。
 
 そうよね…あれは夢だったわけじゃないんだもの。
そう思いながら修の触れた唇に細い指を重ねた。



 やられた…と修は思った。
最初はまた笙子の悪戯かとも考えたが…あの指輪…城崎の狸親父め…。
 何にしても頼子を前に油断したのはまあ…僕に多少なりその気があったからということなんだろうけれど…。
 
 「で…認めちゃうわけ…? 」

雅人がにやにやしながら訊いた。

 「キスしただけでしょ…。 そんなんで認めることないよ。 」

透が唇を尖らせた。

 「あ…でも頼子さんが純情な人なら…可哀想だよね。 
好きになってくれたんだ…って喜んでるかも知れないし…。 」

隆平が控えめな声で言った。

 「ご免なさい…。 親父が馬鹿なことして…。 ほっといて構わないですよ。
そんな女じゃないんだから…だいたい…」

 瀾の口を雅人と隆平が両側から慌てて塞いだ。
発作が起きるでしょ…と耳元で囁いた。

 修はみんなの話を聞きながらじっと考えていた。
城崎の計略に乗るのは不本意だが…頼子は悪くないよな…。
だけど…。

 「自信がないんだ…本当は…。 僕の身体は…僕の思うようにはならない。」

 修がぽつりと本音を漏らした。子どもたちは言葉を失った。
雅人以外の者の前でそんなことを打ち明けるのは初めてのことだった。
赤の他人の瀾もそこに居るというのに…。

 「ごめん…別におまえたちを白けさせるつもりはなかったんだけど…。 」

 修は笑いながらそう言って立ち上がった。
話をそこで切り上げて、皆にお休みを言うとひとり洋館の方へと戻って行った。
雅人が急いで後を追った。

 林の道で雅人は修に追いついた。
修の背中がどこか寂しそうで雅人は無言で背後から修を抱いた。

 「大丈夫…大丈夫だから…。 
笙子さんとも元カノたちとも今まで全然問題なかったじゃない…。
誰とだって…きっと大丈夫だよ…。 」

 修は苦笑した。そんなことじゃない…相手がどうこうってことじゃないんだ…。
分からないよな…誰にも…こんな空しい感覚は…。

 「僕自身の感覚の問題…。
甲冑でもつけて愛し合ってるみたいな…そういう僕の感覚と反応の鈍さ…。
 気付いてるだろ…? 
心か…身体か…どちらかが冷め切ってしまっていて…僕には…行為そのものに実感がない…そういう時があるんだってこと…。 」

 そんな身体で誰かを愛することに意味があるのかどうか…。 
この齢まで考え続けてきたのに…解答が出せない…というよりは出したくない。
だってNOと出てしまったら…ちょっとばかり悲しいじゃない…?

 「怒っていい? 愛する意味って…修さん…勘違いしないでよ。 
僕らがあなたを愛しているのは身体の関係がどうのじゃないんだよ。
 そんなのはただ…手段に過ぎないんだからあってもなくってもそれほどのことじゃない。
それがなくったって修さんが僕らにくれた愛情を疑ったりはしないって。 」

 雅人は憤慨してつい強い口調になった。
修はくすっと笑った。そうむきになるなよ…。

 「女とは…多分そういう訳にはいかないだろう? 
笙子みたいに僕のことを何もかも知っててすべてを心得ている人はともかくさ。
 付き合うとなればそれはどうしても避けては通れない。
頼子もそうさ…。 僕に反応がないことで失望させるのは可哀想だからなぁ…。
逆に…カエルさんの可能性もあるわけだし…。」

 そう言って声を上げて可笑しそうに笑った。
その姿がかえって痛々しくて雅人は目を背けた。
 笙子さん…どうして時々こんな意地悪なことをするんだろう。
目の前で浮気したり…愛人を押しつけたり…。
その度に修さんは悩む…何でもないことのように笑い飛ばしてはいるけれど…。



 力尽きたようにどっと居間のソファに腰を下ろした久遠は両手で頭を抱えた。
考えても考えても思いつかない…掴めない。
敏に昭二殺しをさせたその男の正体…。

 安の目撃した姿から言って伯父でないことは確かだ。
伯父が関わっていないということにはならないが…伯父がこの件のすべての黒幕とは思えない。
久遠は大きく溜息をついた。

 「何か収穫はあったか…? 」

 存在の塊が声を掛けた。久遠は声のした方に顔を向けた。
本当にこの男は近くにいるだけで威圧感がある。
図体がでかいのもその一因かも知れないが…持って生まれた資質によるものなんだろう。

 「ほんの少し…。 だが…お蔭で余計に分からなくなった。 」

 久遠は辰と安から聞いた話を修に語って聞かせた。
翔矢のことを思いついた件になると修は何かを感じ取ったのかじっと考え込んだ。

 「おまえ…何処で生まれた? 」

唐突な質問に久遠は面食らいながらも樋野の本家で生まれたと答えた。

 「お袋の体調が悪かったらしくて産み月よりもかなり前から樋野の本家に戻っていたんだそうだ。
早産だったんで親父が立ち会えなくて生まれてから知らされたと聞いている。
それが…何か? 」

久遠は訝しげに訊ねた。

 「今は…別に…後からそれが意味を持ってくるかもしれないが…。
その…翔矢という人のことをもう少し話してくれないか…。 」

修はなぜか翔矢に興味を持ったようだった。

 「う~ん。 俺の知っていることと言えば…伯母の妹の子だということと結構頭のいい人だということ…。
 さっきも話したように男にしちゃぁ綺麗だけれど影の薄いおとなしい人。
あんまり話したことはないが…会えば穏やかに微笑んで挨拶してくれるし、俺に悪意を持ってるとは思えないな。 」

翔矢の様子を思い浮かべながら久遠は分かるだけのことを話した。 

 「その伯母さんの妹って人に会ったことは…? 」

 「そうだな…何かの時に一度だけ顔を見た程度かな…。 
翔矢はあんまりその人には似てないな…。 」

会ったことはないが父親似なんだろう…と久遠は付け加えた。

 ふうん…と相槌を打ちながら修はまた何かを考えているように見えた。
修の座っているソファの背後から雅人が何か耳打ちした。

 「おまえ…母親の顔を覚えているか? 」

 そう訊かれて久遠は戸惑った。
城崎の家にある遺影は引き伸ばしたために少しぼけていてはっきりしていないし、あまり写真自体がないらしく城崎も見せてくれたことがない。
樋野の本家でもこれが久遠の母親だという写真を見せてもらったことはなかった。
 
 「覚えていない…。 ピンボケの写真しか見たことがなくて…。 」

 そうか…と修は残念そうな顔をした。
写真…翔矢の写真…雅人が囁いた。

 「さっきから何なんだ? でかい兄ちゃん…雅人とかいったな…口があるんだから直接話せよ。 」

不愉快そうに久遠が言った。 

 「だって口を利いたらあんたに文句ばかりつけそうだからさ…。
邸内に不法侵入するわ…修さんを誘拐するわ…睡眠薬で眠らせるわ…ろくなイメージがないんだからな。 
 だいたいね…この人に危険なものを持たせちゃだめ。
睡眠薬なんて持たせたら薬の効き目を知りたくて飲んじゃう人なの。
分量なんて考えやしないんだからね。 下手したら致死量だっていっちゃうよ。」

 雅人はまるで修の世話女房の如く立て続けに久遠に文句を言ってのけた。 
さすがの久遠も二の句が継げずたじたじになった。
修が堪えきれぬように笑い声を上げた。

 「だから…口を閉じとけって僕が言っておいたのさ…。 
こいつにかかったら口じゃ敵わない。 せっかく大人しくしてたのに…。 」
 
雅人はふふんと鼻先で笑った。

 「おまえの息子だとか言ってたが…まさかな…。 」

久遠は気を取り直してやっと口を開いた。

 「本当は従弟だよ。他にふたり従妹がいるけど…こいつが僕の正式な跡取り。
当主としては…だけどね。 
 雅人…さっきの話…。 」

修は雅人にちゃんと話すように促した。

 「そうだった…翔矢って人の写真はないの? 」

 雅人はそう訊ねた。
久遠は何かそれらしいものを持っていなかったか思い出そうとした。 
 
 「小さく写っているだけでいいなら…親類の結婚式の記念写真があるはずだ…。
屋敷が焼かれる前に荷造りして預けた中に確か…入れたと思う。 」

久遠の答えに雅人の目が輝いた。

 「それ貸してもらえる…? 」

雅人が訊くと久遠は快く頷いた。

 「明日取って来よう。 だけど何にするんだい…? 」

 久遠が不思議そうに訊ねると…それは後のお楽しみ…雅人はにっこり笑ってそう答えた。
 




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最後の夢(第五十話 食指)

2005-12-10 16:34:37 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 昭二殺しの犯人敏が姿を消してしまい、その後の捜査でも全く足取りが掴めない状態が続いていた。
久遠は敏が誰に操られているのかを探るため、拘置所に収監されている辰と安に面会して何か糸口になるようなことを聞いていないか確認することにした。

 手続きして面会が許されても時間は30分…それも拘置所の判断で縮められることもあるとか…久遠は倉吉に相談して倉吉が同席することを条件に延長願いを出しておくことにした。

 面会は三人まで同席できるので一瞬修にも声をかけるべきかどうか迷ったが結局これは城崎の問題だと割り切った。

 番号を呼ばれて持ち物検査室で携帯をロッカーにしまうように言われた後、10室ほどある面会室の6番めの部屋に入った。

 拘置所側の立会人が部屋の隅にいたが久遠にとっては邪魔にはならなかった。
面会の間だけ居眠りをしていて貰えばいいのだから。
 
 久しぶりに会う辰は少しやつれて見えた。辰は久遠を見て嬉しそうに笑った。
元気か…困っていることはないか…などひとしきり他愛の無い話をした後、久遠は昭二のことを話した。
辰は敏が昭二を殺したことにショックを受けた様子で涙ぐんだ。

 「誰かが敏を操っていたに違いないんだ。 敏の様子に何か変なところはなかったか? 」

 そう訊かれて辰は首を傾げながらもそう言えば…と話し始めた。
昭二が瀾を懲らしめる話を持ち出してから、敏はやたら瀾を殺すことばかり主張するようになった。
 最初のうち昭二は瀾を殺すことまでは考えていなかったようだが、敏があまりにやっちまおう…やっちまおう…と言い張るのでその気になったみたいだった。

 それより先、瀾がテレビに出始めた頃から敏の夜遊びが多くなり、外泊することもあったが周りの者は女でもできたんだろうと思っていた。

 考えてみれば敏が静香とできたのはもっと後のことで、それを考えると少しばかり妙な気がする。

 「敏はあれで結構思いつめるタイプなんで、誰かと別れてすぐに静香に手を出すとは思えないんで…。
別れたっていう愚痴も聞いたことがねえしな。絶対別の誰かに会ってたんだぜ。」

 当時の様子を思い出しながら辰がそう話した。 
それ以上のことは分からない様子だった。
 
久遠は城崎の家で待っているからすべてが終わったら必ず帰ってくるように…と説得した。

 「ありがてぇ話だが…俺は城崎の長に合わせる顔がねえんだ…。」

 城崎の妻を撲殺してしまった男は寂しげに笑った。
辰も安も城崎の妻が3人組を追い出したことへの復讐だと動機を語っていた。

しかし久遠には彼らのその犯行が久遠のためを思ってしたことだと分かっていた。
それを考えると申し訳ないような気がして胸がひどく痛んだ…。



 翌日、久遠は安との面会に臨んだ。安も以前に比べるとひとまわり小さくなったような気がした。
 昭二が殺された話は辰よりもショックだったらしく声を上げて男泣きした。
久遠は同じように敏に変わった点がなかったかを訊ねた。

 「変わったところねぇ…。 別に変わった話じゃないが…俺らの知らねえ男と話しているのを見たことはありますぜ。 」

 多分…と安は語り始めた。
敏の夜遊びがひどくなった頃、その夜はたまたま安も遅くに帰宅したのだが、屋敷の前の坂を下ったあたり、ちょうど屋敷からは死角になるようなところで敏が誰か知らない男と話していた。

 久遠よりは少し背が低いかもしれないが、だいたい普通と言われるくらいの体系の男で雰囲気からすると安自身はこの男には覚えがなかった。

 暗がりだったのではっきり顔は分からないし、こちらは車なのでチラッと見ただけで通り過ぎてしまった。
敏の飲み友達にしては品が良すぎると思ったので記憶に残っている。
 
 「スーツを着てたんでね…。 俺たちのダチに普段からスーツ着るやつぁいねぇもんで…。 
それにそいつが樋野の衆なら俺たちにはだいたい分かるからね。 」

 樋野の行事では久遠の家の者はだいたい下働きに借り出されるから出入りする一族の者の顔も雰囲気も少しは分かる。その中にその男はいないというのだ。

 安が知っているのもそのくらいだった。
久遠は安にもいつかまた城崎へ帰ってくるように勧めたが安もやはり悲しそうに笑って首を横に振るだけだった。



 拘置所を後にして久遠は悲しい溜息をついた。
もし敏を操っていた男が見つかったとしてもその男を犯人だとする証拠がない。
どの道、罪を裁かれて罰を受けるのは敏自身…。

 能力者の能力の存在を世間に証明できるものはなにもないし、能力を使った犯罪を告発できる能力者もいない…すべては闇の中なのだ。

 だが…いったい誰だろう…?久遠は不思議に思った。
久遠自身は伯父を取り巻いている連中のほとんどを知っていた。 

 彼らは樋野の重鎮たちだがみな年寄りだ。
敏といて服装以外に違和感のない年齢層となると久遠にも見当がつかない。

 ひとりだけ可能性があるとすれば伯母の妹の子…樋野の本家の跡取りの翔矢。
久遠が伯父の申し出を辞退して跡取りに推した男である。

 翔矢はおとなしい人で、よほど重要な行事以外には人前に出てこないので安が知らなくてもおかしくはない。

 けれども翔矢が城崎の者を狙う理由が何処にあるというのだ?
翔矢はすでに樋野の正式な跡取りに決まっているし、久遠に樋野を継ぐ意思のないことも知っている。

 城崎の者が樋野に存在するからといって何の邪魔になるわけでもなく、ましてや城崎の本家や瀾とは何の関わりもない人だ。
 
 久遠は翔矢の姿を思い浮かべた。
齢は久遠よりひとつふたつ上かも知れない。どちらかというと気の荒い樋野の中にあって大声ひとつ立てない穏やかな人である。

 見た目も涼やかに美しくどちらかと言えば女性的な感じがするが、これほどの美形であるにもかかわらず、こんなことでもなければ思い出さないほど影が薄い。

 全身存在の塊のような修とは正反対だな…ふと久遠はそんなことを思った。
見た目が好くって穏やかにおとなしそうでもあいつは爆弾だから…。
悪戯っぽくにんまりと笑う修の顔が見えた気がした。

 とにかくその正反対の翔矢には城崎の家を攻撃する何の動機もメリットも見い出せなかった。 
やっぱり翔矢を敵の中枢に見立てるのには無理があると久遠は考え直した。



 外灯に照らされた林の道で頼子は探し物をしていた。
城崎からの頼まれ物を久遠の部屋へ届けに行く途中でうっかり城崎に買ってもらった指輪を落としてしまったのだ。
 久遠の物を買うついでに城崎が買ってくれたのだがほんの少し大きめで直そうかどうしようか迷ったあげく、夜には指がむくんだりするからちょうどいいかもしれないとそのままはめて来たのだった。

 頼子は並外れた聴力を持つが視力の方は並で、外灯の灯かりの下で小さなものを探すのはあまり得意ではなかった。

 「どうしたの…? 」

背後から修の声がした。

 「指輪落としたんです。 
今日旦那に買ってもらったばかりで…失くしたら申し訳なくて…。 」

頼子は悲しそうに言った。

 「待って…。 」

 修は目を閉じてあたりを探った。小さく光るものが浮かんで見えた。
少し戻ったところに愛らしい花をデザインした指輪が落ちていた。
それを拾って頼子の手のひらに乗せてやった。

 「綺麗な指輪だね…。 」

頼子は嬉しそうに微笑んで頭を下げた。

 「有難うございました。 良かった。 失くしたらどうしようかと…。 」

 「叱られるのかい? 」

 意外そうな顔をして修が訊いた。
頼子は違うというように首を横に振った。

 「旦那はそんなことで怒ったりしやぁしません。 あたしの気持ち。 
だってこれ…旦那が働いたお金で買ってくれたものなんですよ。
旦那はすごい金持ちだけど遊んでて稼げるわけじゃないもの…。 」

 ふうん…と修は不思議そうな目で頼子を見た。 
頼子という娘は見た目ほどちゃらちゃらしているわけじゃないんだ…。
もっと年配の城崎に甘えて我儘放題に暮らしているのかと思った…。
これくらいの指輪でそれほどに思ってくれたらちょっと嬉しいかもな…。

 何億単位のマンションを買ってやったところで、笙子がそれほどまでに感謝してくれているかどうかは謎である。
もとの生業がひどいものであったにも関わらず、この娘がその心まで汚さずにいたことに少なからず感心した。
 
 「久遠は少し遠出をしているから今夜は遅くなるよ。
城崎さんからの届けものなら久遠の部屋に置いておくといい。 」

 修はそう言って頼子を久遠の滞在している洋館の部屋の入り口まで案内した。
修が行ってしまうと頼子は久遠の部屋の扉を開けた。
 頼子は久遠の部屋に始めて入ったがまるで何処かのインテリアのモデルルームのような綺麗な家具や調度品に目を奪われた。
 テーブルの上に城崎からの届け物を置いて、何をするでもなくしばらくぼーっと辺りを見回していた。

 挨拶してから帰ろうと思った頼子は、パソコンのキーを打つ音のする部屋の方へと向かった。
 居間と思われる広くて明るい部屋で修は文机の上のパソコンに向かって仕事をしていた。

 「宗主…お邪魔しました。 」

頼子が声をかけると修はパソコンから目を放した。

 「多喜がお茶を用意してくれたから…どうぞ。 」

 テーブルの上には多喜の手作りの洋菓子が並べられ、紅茶がほんのりバラのいい香りを漂わせていた。
 
 「有難うございます…。 」

手をつけないと多喜に申し訳ないと思った頼子はソファにかけてお茶を飲んだ。

 「宗主は召し上がらないんですか? 」

そのままになっているカップを見て頼子は訊ねた。

 「多喜の趣味でいろいろなお茶が出てくるけど…僕はコーヒーの方が好きだね。
お茶を飲まないって訳じゃないけど…今はいらない…。 」

 それ以上…頼子は何を話していいか分からず会話が進まなかった。
せっかくふたりきりなのにと悔しく思ったが、口を利けば変なことを行ってしまいそうで何も言えなかった。

 「あ…あたしこれで失礼します。 ご馳走さまでした。 」

とうとう居た堪れなくなって立ち上がった。

 「車は母屋の方へ置いてきたんだね…駐車場まで送って行こう。 
洋館に来る時はこちらの駐車場へ入れたほうが便利だよ。 」

 そう言うと修も立ち上がった。
寒い中を悪いとは思ったけれど断れなかった。できるだけ…傍に居たかったから。

 さっき来たばかりの林の道を黙って歩いた。
しばらく一緒に歩いてみて、頼子に合わせて修がゆっくりとした歩幅で歩いてくれているのに気付いた。
温かい人なんだ…と頼子は思った。
 あたしの気持ちにも気付いてくれないかなぁと頼子が思った時、駐車場の灯かりが見えた。 
 ここで…と頼子が言いかけた時、修が身を屈めた。
驚いて修の顔を見つめている頼子にごめん…と修の小さく呟く声が聞こえた。
 頼子は思わず修のジャケットの端を掴んだ。
もう一度修が身をかがめた時、頼子は躊躇わず修の背中に手を回した。 

 駐車場の向こうから雅人がその様子を窺っていた。
まったく…結局は笙子さんの言いなりなんだから…。
ま…あのぽってりした唇とぷるんぷるんのお胸は確かに修さんの好みではある…。
さすが笙子さんは良くご存知だこと…。

 さて…皆に知らせてこよ…。 
またひとり増えちゃったって…。  




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最後の夢(第四十九話 娘心)

2005-12-08 23:55:14 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 何処かの屋敷の西日の射す部屋で敏はぼんやりと空を見つめていた。
昭二を殺してしまった…。
城崎を出て以来ずっと久遠と苦楽を共にしてきた男を…。

 敏にとっても昭二はかけがえのない仲間のはずだった。
暴れ者の3人組をほど良く抑えて城崎出の者が不当に不利益を被らないように上手く立ち回ってくれた。
 今度のことだって昭二は、敏にこれ以上の罪を犯させないように考えてくれていたのに…。

 昭二の顔の傷は樋野に来てから何度も起きた3人組と樋野の乱暴者たちとの小競り合いを身体を張って止めてきた証でもある。
 久遠があらゆる屈辱に耐えてきたその傍で、昭二もまたその身を擲って仲間を護ってきたのだった。

 敏は昭二の血を浴びたその手を見た。
なぜ…殺してしまったのだろう…。
昭二はただ久遠の幸せを願っただけだった。
別段…敏に敵意があったわけでも敏を裏切ろうとしたわけでもない。
なのになぜ…。
敏は後悔の念に責め立てられた。

 それにここは何処だろう…?昭二を殺して逃げる途中、いきなりあいつに車に乗れと言われてそのまま言うなりにここへ連れてこられた。

 あいつ…正体の分からないやつ…あいつが俺にずっと命令を下している。
あいつが久遠のためと言ったんだ…。
城崎の家と久遠を護りたければ家を危険に晒している瀾を消せと…。
瀾を操っている母親も一緒に…。

 生活に必要なものは全部揃っていて食事も出てくる。
ただ…外には出られない。
 
 きっちりと締め切られた扉の向こう側で誰かがひそひそと話している。
小さな声だが聞き覚えのある声がする。

 樋野の圭介…紫峰へ進入した時に母屋に忍び込んで鈴に飛ばされた男だ。
圭介は久遠の屋敷に居るはずだが…?と敏は怪訝に思った。

とんとんと扉を叩く音がした。

 「食事だ…。」

扉の一部が開いて食事を載せた盆が差し出された。

 「圭介…だな? 」

敏が問うと声の主は一瞬戸惑ったように黙りこんだ。

 「敏か…? そこに居るのは敏なのか…? 」

圭介は部屋に閉じ込められている者の正体を知らなかったようだ。

 「圭介…なぜここに? 久遠さんは…? 」

 敏がそう訊ねると圭介は悲しげな声で昭二が殺された話をした。
敏がやったとは知らない様子だった。
 狙われているのが城崎の者の命だということが分かって、久遠が皆を巻き添えにしないために一家を離散させたこと…。
 ひとり残った久遠が樋野に迷惑をかけないように出て行こうとしたところ屋敷が焼き討ちに遭ったこと…。
 それ以来久遠が行方不明になっていて経営している店には代理人から連絡があるものの、本人の足取りがつかめないこと…。

 「とにかく…城崎の家にも帰っていない…。 
俺たちも心配してはいるんだが…何しろ俺たち自身が樋野に戻ってきてしまったもので城崎には近づけなくてな…。 」

圭介は済まなそうに言った。
 
 何てことだ…と敏は嘆いた。家まで焼かれるとは…。
つらかったろうなぁ…久遠さん…。
それにしても圭介がいるということはここは樋野の屋敷のひとつだな…。

 「圭介…ここは樋野の誰の屋敷だ? 」

敏は圭介に訊いた。

 「ここか…ここは誰の屋敷って訳じゃない…。 樋野の祖先を祀ってある所さ。
俺はここに新しい祭主がいるから世話を頼むと言われてきたんだ。
まさかおまえだとは思わなかったが…。 」

 樋野の祭主は鬼面川とは違い本人に祭祀ができるできないは関係なく、感受性が強くトランス状態に陥りやすい者がその都度選ばれる。
 だから本来ならここに常時寝泊りする必要はないのだ。
にもかかわらず敏がここで暮らしていることを圭介はなんとも思わないのか?
しかも半ば閉じ込められたようにして…。
 
 「しかし…祭主という名目で匿われているなんざ…おまえはよっぽど樋野の上層部に気に入られているんだな…。
ここに居れば絶対に警察も気が付かないぜ…。 」

 敏は呆気にとられた。
屋敷を焼き払うまでして久遠を追った樋野が久遠の配下の敏を匿う…?
冗談だろう…。
樋野の連中はいったい俺に何をさせる気なんだ?

 樋野に好意を持たれているとは思えないだけに、敏は胸の中に湧いてくる不安を抑えることはできなかった。



 「だからねぇ…修。 ちょっとお付き合いするだけでいいのよ…。 」

笙子の甘えたような声が居間の方へ聞こえてきた。

 「嫌だ。 絶対にだめ。 いい加減にしてくれよ。 」

 修が珍しくグレートマザーに抵抗している。
雅人たちは互いに顔を見合わせくすくすっと笑った。
久遠だけが何事かと怪訝な顔をした。

 「修…ねぇ…修に本気で惚れてくれてるのよ。 可愛いじゃないの…。 」

笙子がそう言いながらにっこりと笑った。
少しだけ目立ってきた御腹でいつもの笙子よりさらに存在感を増している。

 「可愛くても何でもだめなものはだめ。勝手に僕の愛人を増やさないでくれ。」

 修は不機嫌そうな顔をして居間に姿を現した。
すぐ後から笙子が上機嫌な顔でついて来た。

 「笙子さん。 またなの? 愛人の押し売り。 」

雅人がからかうように言った。

 「あら…押し売りじゃないわよ…雅人くん。 
すごくいい子だから修にどうかなぁってお勧めしてるだけよ。 」

笙子は艶然と微笑んだ。

 「でも…お試し済みでしょ…? 」

 透が笑いを堪えながら言った。
笙子はさらににっこり笑って頷いた。
 
 何の話だ?と久遠がこっそり瀾に訊いた。

 「この奥さん大変な人でさ。 さすがの修さんもお手上げ状態。
自分の愛人を修さんにも無理やり押し付けるらしいんだ。
史朗さんも元はそのひとりだったらしいよ。 」

 瀾は雅人から聞いた話を久遠に聞かせた。 
化け物の女房はやっぱり化け物…さすがの修も敵わないってわけか…。 

 「あ…でも笙子さんは人を見る目は確かだから…。
史朗さんはすごく優しくてほんと心根のいい人だしね。 」

 慌てて隆平が笙子を庇った。
確かに…あの男はいいやつかも知れんが…俺なら断るね…と久遠は思った。

 「修…頼ちゃんのもとのお仕事が気に入らないんでしょ?
あれは家の借金のために仕方なく…よ。 」

 お仕事…と思った瞬間修は思わず口を押さえた。
深呼吸して堪えた。

 「あの子の過去はどうでもいい。 そんなこと問題じゃない…。
愛人は間に合ってるから…いらないっての。

雅人…胃にきた…。 」

雅人は慌てて立ち上がって修の背中を擦りだした。

 「大丈夫…? 部屋へ行く…? 
笙子さん…その話はだめだよ。 頼子さんの酷い写真見ちゃったんだから…。 」

笙子が仕方がないわねぇというように肩を竦めた。

 何がどうなったんだ…?と久遠はまた瀾に訊いた。
修さんはどうやら健康お色気系以外は体質的に受け付けないらしいんだ…頼子のエロ写真見ただけでゲロゲロになった…と瀾は答えた。

 健康お色気系じゃなきゃだめなくせして嫁さんから押し付けられた愛人が男…?
訳が分からん…やっぱりおまえが一番変だ。
久遠は顔を顰めた。



 久遠が紫峰家に逗留していることは城崎には知らされていた。
久遠の屋敷が焼かれたという情報を耳にしていたので、おそらく直では戻っては来れまいと予知していた城崎は、身を寄せた先が瀾と同じ紫峰家で頗る安心した。
紫峰家なら何が起ころうとめったなことはあるまいと思った。

 ちょくちょく頼子を使いに出して頼子自身にも大切なお友達ゲットのチャンスを与えてやることもできる…とひとりほくそ笑んでいた。
  
 不思議なことに、妻が殺されたり久遠や瀾が攻撃を受けているにも関わらず、城崎自身にはただの一度も何事も起こっていなかった。
理由は分からないが見えない敵はどうやら城崎本人を避けているようだ。

 「久遠や瀾に無くて…私にあるもの…思い当たらんがなぁ…。
力から言えばあのふたりはすでに私を越してしまっただろうからね。 」

城崎はそんなことを頼子に話して首を傾げた。

 「旦那さん…。 ただいま帰りました。 」

 佳恵が店回りから帰ってきた。城崎が佳恵に久遠の代理として店回りをするように言っておいたのだ。
それは久遠から佳恵に伝えてくれるようにと頼まれてのことだった。

 当初は紫峰家から久遠自身が店回りに出るつもりだったが、急に佳恵のことを思い出した久遠は佳恵に新しい仕事を与えてやりたくなった。
頼子を頼って城崎の家に身を寄せているはずだった。

 佳恵は屋敷にいた時に久遠に勧められて昭二について幾度か店回りをしたことがある。
佳恵ひとりでも店を回れるようにするために昭二はいろいろなことを教えてくれて佳恵も一生懸命覚えた。
 その時はこんなことになるとは夢にも思っていなかっただろうが、若い佳恵の先のことを考えて、ただの賄いとしてだけでなく、何かの時には久遠の仕事の手助けができるようにと昭二も気を入れて指導していた。

 昭二の努力が実って佳恵は何とか誰の手も空いてない時などにはひとりで店を回れるようにはなった。
久遠はその昭二の努力に報いるつもりで佳恵を自分の代理に任命したのだった。
勿論自分もすぐに動き始めるつもりでいるのだが…。

 「お疲れさま…佳恵ちゃん。 久遠さんへの報告は済んだの? 」

 頼子が訊くと佳恵は嬉しそうに笑って頷いた。久遠と一緒に働けることが佳恵には幸せなことらしい。
 齢もずいぶんと離れているし出自も違うから久遠には決して届くことはないだろうけれど、佳恵の想いも相当深いものなんだろうなと頼子は思った。

 久遠が城崎の後を取ることになれば久遠はそれ相応の家から嫁を迎えることになるだろう。
 佳恵の気持ちに気付きもしていない久遠はともかく旦那はどう出るだろう…。 
旦那はずいぶんとこういうことには敏感だから…佳恵を追い出すだろうか?
それともこのまま久遠の傍に置いてやるだろうか?

 旦那自身は平気で奥さんと同じ屋敷にあたしを置いてたけどね…。
そんなことを考えながらチラッと城崎の方を見た。

 何だね…?と城崎も頼子を見た。
何でもありゃしませんよ…ただちょっと見てみただけ…あんまりいい男なんでね。
そう答える頼子に城崎は満更でもなさそうな笑みを浮かべた。




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最後の夢(第四十八話 鬼の気持ち)

2005-12-07 23:40:29 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 久遠はついに伯父夫婦に別れを告げ樋野での生活に終止符を打った。
もはや長年に亘って培ってきた樋野での人望にも地位にも未練はなく、ただ昭二との約束を果たすことだけが胸の内にあった。

 伯母の涙に送られて帰途についた久遠の車が自宅近くの上り坂に差し掛かったときに前方で何かが破裂するような音を聴いた。

 坂の上から自宅の方を見下ろした久遠は目の前に展開した光景に目を疑った。
車を降りた久遠はこの信じがたい状況にただ茫然と自分の屋敷を見つめていた。

 屋敷は紅蓮の炎に包まれ、まるで久遠の存在そのものを焼き尽くすかのように激しく燃え盛っていた。

 屋敷の方へ歩いていこうとする久遠を甲斐が引き止めた。
こうまで俺を踏みにじるか…。
20年近くもの間樋野のために身も心も尽くしてきた俺を…。
久遠の中に潜む夜叉が疼きだした。

 爆発音や柱の倒れる音が響く中…久遠は全身にその虐げられた記憶を呼び覚まさせた。
封印したおぞましい記憶さえ…躊躇うこともなく…再び久遠の身体に甦らせた。
昭二…俺は怒りと憎しみのすべてを俺の中に解き放つ…。

 急激に解放された記憶による衝撃からか久遠は突然その場に崩れ落ちた。
甲斐は久遠を抱き上げ車に乗せると急ぎその場を離れた。

 炎はすべてを嘗め尽くし、その勢いは天まで焦がさんばかりだったが、やがて轟音と共に久遠の住まいだった屋敷は焼け落ちて後には黒い灰ばかりが残った。
  


 庭園の添水の音が響き、梅のほころびかけた蕾が今朝ほど降った名残の雪の中から顔を覗かせていた。
時折流れてくる謡のような調べは舞の教室のものだろうか…今日は一般向けの教室の日だから…。
洋館の客間の窓を開けて大きく息を吸い込みながら修はそんなことを思った。
 この洋館は林の中に建っていて周りが静かなせいか風向きによっては時々母屋の方から音が流れてくることがある。
途切れ途切れに聞こえるあれは…史朗の声かも知れない…。

 ベッドの中で久遠が大きく動く気配がして修は振り向いた。
薄目を開けてぼんやりこちらを見ているがまだはっきりとは目覚めていないようだ。

 「ここ…どこ? 」

久遠がかすれた声で訊ねた。

 「紫峰の洋館だ…。 ひどい目に遭ったな…。 」

修は穏やかにそう答えた。

 「樋野に別れを告げたんだ…。 今までのことを考えれば当然といえば当然の仕打ちかもしれない…。 俺が樋野の酷さを忘れようとしてただけで…。 」

久遠は何を見るでもなく天井に目を向けた。

 「修…俺の中にいる鬼が…とうとう目を覚ましちまった。
生涯…眠らせておこうと思っていたが…無理だったようだ…。 」

久遠は小さな溜息を漏らした。

 「鬼は誰の心の中にもいる…。 僕も抑えるのに苦労しているひとりだ。」

ベッドの横の椅子に腰掛けながら修は言った。

 「期待なんかしていなかった…。 城崎を出て樋野に身を寄せた時も城崎の血が歓迎されるわけもないことは分かっていたんだ…。
だけど…俺という人格をあそこまで否定されるとは思っても見なかった…。

 修…おまえはどうやって克服した…あの12の時の屈辱を…?
俺は…記憶を封じ込めてしまうしかなかった…。
仲間を追い出すとまで言われれば…耐えるしかなかった。
俺もまだ子どもだったからな…。

 愛って感情があったわけじゃない。やつが男好きだったわけでもない。
城崎の血を引く俺をなぶり者にして苦しめたかっただけだ。
 辱めて服従させて自分に忠誠を誓わせたいだけ…支配したいだけ…。
やつにその趣味がない分一度だけで済んだのが幸いだった。
 昭二だけが気付いて…俺のために泣いてくれた…。 」

 久遠は淡々と甦らせた記憶を語った。
久遠があの宿の部屋で修の記憶を読んだ折に涙したのはそのせいだったのかと修は思った。

 「克服なんか…してないよ…。 未だにへこんだままさ…。
だけど…僕は僕をやった男のために人生を暗く過ごすなんて真っ平御免だね。
やつのこと考えるだけ時間の無駄…考えなきゃならんことは他に山ほどあるんだ。」

 修はそう言って笑った。
久遠はそうか…というように頷いた。

 「俺も考えないようにしていた。 生きるのに忙しくてな…。
忘れてしまえばいいことだと…そう思って封印した。

 伯父は普段は本当に優しくていい人だったが…二重人格だ。
それ以来ふたりっきりにはならないようにしていたし、伯母がずっと間に入って護ってくれていた。

愚痴を言えば数限りないが…今はすべて過去のことだ…。 」

 久遠はそう言って起き上がった。
表面上は穏やかそうに見えて、久遠の中で渦巻いている怒りはまさに一触即発。
少しばかり余裕が必要だな…と修は感じた。

 「すぐに城崎の家に帰るのもいいが…少しここでのんびりして行け…。
今のおまえは張り詰めた糸だ。 何かあればすぐに切れる。 
そんな状態では城崎に帰っても何の役にも立たない。 
 仕事先にはここから通えばいい。 なあに鬼が引っ込むまでの少しの間…さ。
この屋敷には変わった連中が出入りするから退屈しないぜ…。 」

 修は久遠に紫峰への逗留を勧めた。
おまえが一等変わってるよ…と久遠は思った。



 謡の調べがひと際大きく聞こえるようになった。
教室を終えて史朗が戻ってきたのだろう。部屋で稽古を始めた気配がする。
その節まわしから修がまだ見ていない舞のように思える。

 そっと部屋に入っていくと史朗は春の舞を復習っているところだった。
雪解け水…蕗の薹…猫柳…そんな情景が浮かんでくる。

 「これは…『萌え』…春の舞です…。 」

史朗は修に一礼してそう言った。

 「新しい生命の息吹…雪解けの朝の穏やかな春陽の中に芽生えた命の強さと輝かしさを詠ったものです。 」

 春の舞か…春を舞うにしては今日の史朗の表情が何処となく翳りを帯びているのはなぜなのか…。

 「眠ってないのか…史朗…? 仕事との両立が大変なのは分かるが…眠る時間もないのか…? 」

そう訊かれて史朗は首を横に振った。

 「時間のこともありますが…祭祀舞の文書化が上手くいかなくて…。
現代の人に伝えやすくするにはどうしてもマニュアルが必要なのに…。

 舞って表現するのはできるけれど…この舞を文書に表すことが僕には…。
祭祀の文書化を続けている本家の孝太さんの努力には心から敬意を表しますよ。」

史朗は溜息をつきながら長椅子の上に腰を下ろした。

 「彰久さんが映像化を考えているよ。勿論撮影のプロの腕を借りてのことだ…。
信頼できる人に仕事を任せるのは恥かしいことじゃない。

 その仕事…隆平にやらせてみなさい。
あいつは学者志望だからな…文書化はお手の物だ…舞の腕はいまいちだが…。 」

 そうか…隆平がいたか…と史朗は思い当たったように頷いた。
そうだ…瀾と隆平にやらせてみよう…。
瀾が祭祀舞を覚えていく過程がいい意味で役に立つだろう…。
史朗の表情が華やいだ。

 その笑顔…たまらないねぇ…と修はわざとからかうように言った。
赤くなって俯いた史朗の唇が微かに淫を帯びた笑みを浮かべた。



 少しだけ乱れた髪を手櫛で直しながら居間の方へと降りてきた史朗は、ソファのところで自分に冷たい視線を向けている久遠と出くわした。

 「男となんざ気味悪くねえか? 」

久遠はストレートに訊いた。

 「あなたに抱かれたら吐くね。 他の男なら願い下げだよ。 」

史朗も冷たく言い放った。

 「何だ…おまえそっち系じゃないのか? 」

久遠が戸惑ったような顔をした。

 「全然…。 もともと僕は奥さんの愛人…本来なら修さんとは敵同士ってわけ。
それがひょんなことから修さんに心底惚れちゃって…惚れちゃったからにはどうしようもないから時々遊んで貰ってる。
それだけ…。 」

 そうとしか言いようがないと史朗は思った。まさか千年前の閑平との因縁とは言えないし言っても伝わらないだろう。
久遠が明らかに困惑しているのが分かった。

 「理解できねえな…。 」

 久遠はやれやれ…とでも言いたげに首を横に振った。
あなたに理解して貰おうとは思わないよ…と史朗は胸の内で呟いた。

 「強要されたにせよ…承諾したのはあなた自身…。
一旦覚悟を決めたんだから開き直っちゃえば…? 嫌なやつと遊んじゃったくらいに思っときなよ。
 あなただってこれ以上昭二さんを泣かせたりしたくないでしょ?
あなたがいつまでもあのことを引きずってると亡くなった昭二さんが安心して御大親のもとへ逝けないし…。 」

 史朗には久遠がなぜ不躾にも自分に下らない質問を浴びせたのかが分かったような気がしていた。
 史朗は祭祀によって知り得た久遠の過去にそれとなく触れた。

 胸の内を見透かされたように感じて久遠は言葉に詰まった。
不思議な力を持つこの史朗という男は、まるで昭二の気持ちを代弁しているように久遠には思えた。

 「嫌なやつと遊んじゃった…か。 それ…案外いいかもな…。 」

 久遠の中でほんの一瞬だけ鬼が欠伸をした。
怒り狂う鬼の気持ちが揺らぐまでには及ばなかったけれども…。
 



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最後の夢(第四十七話 決別)

2005-12-05 23:45:09 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 封印から開放された久遠と瀾はお互いの顔を不思議な感覚で見つめていた。
久遠の意識の中の瀾はまだ幼い子ども…瀾の意識の中の久遠はまだ少年の面影を残した若者だった。
 目の前にいるのはすっかり成長した瀾と中年に差し掛かった久遠…それでもこれまでとは違ってちゃんと同族だと識別できる。
  
 「兄貴…? 」

 自信なさげにそう訊ねる瀾に久遠は微笑みながら黙って頷いた。
瀾は久遠に向かって両手を伸ばした。あの頃とは違ってその手は久遠の首の位置まで簡単に届いた。
 あの時やっと久遠の足に絡み付けるくらいの大きさだった瀾…。
久遠は今では自分の背に追いつくほど大きくなった弟を抱きとめてやった。

 この腕の中で俺は助けられた…殴られても蹴られても久遠は俺を庇って護ってくれた…瀾はそう確信した。

 「父さん…父さんはなぜずっと兄貴のことを黙ってたの? 」

瀾は城崎に向かってそう訊ねた。

 「久遠が…私に言ったんだ。 兄が出て行った訳を知ればお前が傷つく。
兄などいないと思っていた方がおまえのためだと…。 」

 城崎は済まなそうに久遠の方に目を向けた。久遠はただ静かに微笑んだ。
優しい久遠…優しすぎて悲しい久遠。
修の目にはそう映った。

 昭二の霊から聞いた話と瀾や久遠の封印されていた過去の出来事から考えると、敏を操っているのはどうやら樋野家の者ではないかと思われてくる。
 よく分からないのは敏を操って瀾を殺したとして樋野に何のメリットがあるかということだ。
 樋野の血を引く久遠が城崎を継ぐことになったとしても久遠は完全に城崎に戻ってしまうわけだから樋野にとって何の利点も無い。

 しかも現在久遠が経営しているいくつかの店は基本的には久遠が自分で稼いで作った店なのでそれがそのままそっくり樋野から城崎に移ってしまうことになる。
樋野にとって結構な損失と言わざるを得ない。
瀾を殺しても樋野にとっていいことなど何も無いのだ。

 取り敢えず今は確かな証拠もなしに何を言っても想像に過ぎないので、樋野にたいする警戒だけは怠らないようにと城崎と倉吉たち警察官組に念を押した。

 修が用意させた軽い夜食を済ませると招待客は皆挨拶を交わして帰途についた。
甲斐にはくれぐれも久遠の身辺に注意するように言ったが、久遠自身にも肝を据えてかかるように忠告した。

 何よりも修が懸念するのは久遠のあの優しさが久遠をより危険な方向へ導いてしまう可能性があるということだ。
その優しさを逆手に取られて命まで奪われかねない。

 修は何度むごい目に遭わされても純粋な優しさを失わないこの天然記念物のような男をおもちゃ箱のコレクションの中に加えてずっと護り続けてやりたいような気持ちになったが、久遠は護られるより護る方が性に合っているだろう。
久遠の幸せはやはり城崎の家にあるのだと考え直した。
  
  

 昭二の遺体が司法解剖を終えて昭二の母の許へ戻ってきた。
久遠は昭二の母とふたりで寂しい通夜を過ごした。
 城崎家からは母親宛に弔電が届いたが事情が事情なだけに焼香に訪れることはなかった。
 昭二の母には久遠からある程度の事情を説明してあったから、長い付き合いでありながら城崎が表立って来られない理由も理解していた。
 息子を刺し殺そうとした男の通夜にのこのこやってくる被害者の親はいない。
そう分かっていながらもやはり母親としては寂しさを隠せなかった。
 翌日古くから付き合いのある寺の住職にお経をあげてもらい、昭二は荼毘に伏された。 


 昭二が殺されてから敏の足取りがぷっつりと途絶えた。
古村静香のアパートからも姿を消し、静香でさえも行方を知らなかった。

 誰かに操られていたという敏のことが久遠は気になっていた。
いったい誰が敏に仲間殺しをさせたのか…。
今でもまだ瀾を狙っているのか…。
 昭二の無念の死を思えば怒りも込み上げてくるが、何者かに操られているという敏もまた被害者なのだ。
 久遠は金もあまり持っていないはずの敏の身を案じた。
この寒空にどうしていることやら…。
 
 久遠はまだ胸の内を樋野の伯父には伝えていなかったが、昭二が亡くなったり辰や安が拘置所に送られたりで久遠の周りが寂しくなったこともあって、少しずつ身辺を整理しだした。

 樋野に来てから久遠の傘下に入った者たちには、このまま久遠の傍にいれば昭二のように命を落とすかもしれないと説得して暇を出し屋敷を去らせた。

 屋敷には見張りで詰めている甲斐がいる他は賄いの佳恵と久遠が住んでいるだけになり、火が消えたように寒々としていた。
 
 「佳恵…おまえも早くここから出て行ったほうがいいぞ…。 
おまえのような美女がその若さで命落としたら勿体無いからなぁ…。
飯のことくらい自分で何とでもするから…。 」

久遠がそう言うと佳恵は笑った。

 「そう言われても旦那さん…あたしには行くところがないから…。 」

 佳恵は中学を卒業してからずっとここで賄いをしているが、家族はなく、知り合いといっても頼子くらいしか訪ねてくる者はいなかった。

 「頼子のところへ行け…。あいつがきっといい仕事を探してくれる…。 」

 久遠はそう勧めた。
15の時から久遠の食事の世話をしている佳恵としては久遠をひとりおいて出て行くのは随分と心残りだけれど、別に身体の関係があるわけじゃなし、ただの賄いが主に対して何を言えるわけもない。
佳恵は分かりましたと返事をすると翌朝久遠の朝食を用意した後、久遠の屋敷を後にした。

 

 ひとりになった久遠はできるだけ身軽になるように身の回りのものを処分した。
大方さっぱりと片付いてしまうと清々した顔で本家へ向かった。  

 座敷に通されると伯父と伯母が改まって挨拶とは何事かと驚いたような顔をして迎えた。

 「伯父さま…伯母さま…家の者のことで何度もご迷惑をお掛けしたことをお詫びいたします。
 傷害事件起こした昭二が殺され…他の三人が殺人犯となり、そのうちひとりは逃走中で、このままでは樋野に迷惑をかけるばかりで心苦しいかぎり…。

 その上、どうやら城崎の血を忌む者がいるらしく、久遠も命を狙われていると聞き及びました。
 久遠はこのことに無関係な伯父さまや伯母さまを巻き添えにはできません。
意を決して樋野を離れる覚悟を決めました。

 城崎の者として狙われている以上、久遠も城崎として戦わねばなりません。 
久遠がここに居ては樋野にどれほどの被害を齎すか分かりません。

 さんざんお世話になりながらご恩返しもできず去っていくことを申し訳なく思っております。
どうかお許し下さい…。 」

 久遠はできる限り樋野の体面を損ねないように樋野との決別の意思を表した。
伯父は静かにそれを聞いていた。

 「そうか…樋野を去るか…。 
俺の命などはどうでもいいが…おまえがそれを大切に思ってくれて嬉しい…。 
だが…寂しいな…おまえは俺のたったひとりの甥だからな…。 」

 伯父は心から寂しそうにそう言った。
しかし引き止めて何事か起れば久遠が苦しむだけだと伯父も納得して許した。

 「ことが解決したら顔くらいは見せに来ておくれ…。 」

別れ際に久遠の手を握りそう呟くように言った。

 本家の玄関を出たところで勝手口の方から伯母が手招きをした。
久遠は躊躇わずに伯母の方へ歩み寄った。
 
 「久遠…思い出してしまったのね…? だけどあれは過去のことよ…。 
伯父さまも齢を取られたし…あんな馬鹿なことはもうしないわ。
本当にあの人…あなたが可愛くて仕方ないのよ…傍に置いておきたいの…。 」

伯母は何とかして久遠の気持ちを変えさせようとしているみたいだった。

 「伯母さまはいつも僕を庇ってくださった…。 
周りは皆伯母さまを悪く言うけど僕はずっと伯母さまに助けられてきたんです。
感謝しています…。 」

 久遠は伯母に頭を下げた。
伯母の目が涙で潤んだ。

 「どうしても行くのね…。 身体に気をつけるのよ…久遠。 
ここに居た時のようにはあなたを護ってあげられないんだから…。 」

久遠はもう一度伯母に頭を下げた。

 伯母と別れた後は久遠はもう振り返らなかった。
背後でなにかおどろおどろしげな物の気配がすることには気付いていたが、今はそれを詮索する気にもなれなかった。

 城崎に戻る…戻って昭二との約束を果たす…。
久遠はその一歩を踏み出した。
 
俺は久遠…城崎久遠…。





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最後の夢(第四十六話 記憶封印の謎)

2005-12-04 18:00:17 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 瀾と久遠の過去に何があったのか…修はそれを知りたいと考えていた。
以前…瀾の記憶を調べた折、過去に何者かによって記憶を操作されたと思われる痕跡があることに彰久が気付いた。
 同じように久遠も記憶を操作されていて、そのために血族でありながら弟の瀾を識別できなくなっている。
 修は操作された記憶の中にすべての鍵が隠されているような気がして、この機会にふたりの記憶から封印を解く心積もりをしていた。
 
 彰久は今回、瀾と久遠のふたりの記憶を同時に遡らせて操作された時点まで辿っていくように修に頼まれていた。
その時点で黒田がふたりの記憶の封印を解く手はずになっていた。

 修でも封印を解くだけなら簡単なことだが…記憶に関することは往々にして精神に関係する問題でもあるため突発的に何が起こるか分からない。
 こういう時には黒田の力を借りるに限る。
黒田の持つ特殊な能力の効果は修自身が何度も世話になっていて実証済みである。
黒田なら何が起きても臨機応変に対処するだろう。

 鬼面川とのコラボレーションはすでに藤宮の事件で史朗と経験済みだから、彰久の場合にもそれほど問題は無いはずだった。


 
 先ほどまで史朗の座っていたところに彰久が胡坐を掻いて座り、久遠にもう少し近づくように指示した上で、瀾を久遠のすぐ隣に座らせた。
その背後に黒田か控え、何故か悟と晃が久遠と瀾の脇に控えた。

 彰久は鬼面川の御大親に伺いを立て、生きている人の魂を探るための許しを得ると両の手のひらを上に向けて膝の上に置いた。

 悟と晃がその手のひらの上に片手を置き、悟が久遠の額に、晃が瀾の額にあいている方の手を触れた。
 ふたりがジョイントの役目をすることになったのは彰久ができるだけ久遠と瀾の過去についての予備知識のない者を選んで欲しいと修に頼んだからだった。

 彰久が何か口元で文言を唱え始めると久遠と瀾は次第に眠ったような状態になっていった。 
 彰久はふたりの時間を少しずつ遡り、ふたりの魂の記憶が封じ込められている時間まで辿りついた。
 
 「ここです…黒田さん…。 」

 彰久の合図に黒田が念を凝らした。ふたりの意識の中にあるふたりのものとは異なる思念を探った。
 黒田がふたりの意識を探り始めると何かが猛烈な勢いで抵抗を始め、久遠と瀾の呼吸が乱れ出した。

 ぜいぜいと苦しそうに喘ぐふたりの様子に城崎は思わず身を乗り出したが頼子がそれを制した。

 黒田が何かに気付き困惑したように修の方を見た。
黒田はふたりの記憶を封印している思念を捉えたが、封印を解くとふたりの命の火が消えかねない…そういう細工がなされているようなのだ。

 修は史朗に耳打ちした。
祭主が祭祀を行う際に前もって御大親の承認を得ている者でなければ、祭祀の空間の中には鬼面川の者以外は入れない。
 史朗は彰久に向って丁寧に一礼すると空間の中に入り、修の代わりに悟と晃の耳元で何かを囁いた。

 悟と晃は無言で頷くとそれぞれ独自に念を集中させた。
やがて見るからに温かく柔らかそうな光の珠が久遠と瀾の額に向けられている悟と晃の手の中に現れた。
ふたりは久遠と瀾の中にその光の珠を入り込ませた。

 史朗はそれを見届けて黒田にも耳打ちした。
黒田の表情が明るくなった。
 探り出した封印を慎重に解き始めた。
封印が解かれるにつれ悟と晃の光の珠は久遠と瀾の中で輝きを増し、ふたりの心臓と呼吸のリズムを整え、生きるためのエネルギーを溢れさせた。

 あれは何…?と子どもたちが修に訊いた。藤宮の奥義『生』のひとつで『護精』だと修は答えた。
 精は生きる力や魂を意味する。藤宮の奥義の中で男性の当主継承者なども学ぶ業のひとつである。
 
 鬼母川と藤宮と紫峰の不思議なコラボレーションが目の前で展開されていた。
そしてそれを受けているのは城崎…修たちにとっても四つの異なる一族が同じ目的で協力し合うなどは初めての経験だった。



 木漏れ日の射す庭の片隅で小さな男の子が嬉しそうに遊んでいる。
その傍でひとりの青年が男の子の様子を目を細めて微笑みながら見つめていた。

 男の子…瀾は面白そうな形の石ころを拾って青年…久遠に見せた。
久遠がそれを受け取ろうとした時、突然周囲を大人たちが囲んだ。

 リーダー格と思われる男が瀾を捕まえていきなり瀾の首を締め上げた。
瀾の顔がすぐに青膨れた。
 久遠は慌てて瀾を男の手から奪い取り、その腕に抱き寄せて自分の身体で瀾を護ろうとした。
瀾は恐怖で声も出せなかった。

 大人たちは久遠を殴ったり蹴ったりして瀾を放させようとした。
久遠は必死で瀾を護り、リーダー格の男に瀾の命乞いをした。

 『その子は城崎の正当な後継者であるおまえを追い出した女の子どもだぞ! 
樋野の血を引くおまえが城崎を追われた…それが無念でならぬ!
 どこまで樋野の血を愚弄するのか…!
おまえの母親をむごい死に追いやってまだ足りぬと言うのか! 』

蹴られ踏み躙られながら久遠は瀾を庇い、リーダー格の男に頭を下げ続けた。

 『申し訳けございません! どうか久遠に免じて城崎の無礼をお許しください。
この子には罪はありません。 どうか…伯父さま…。 』

 瀾を庇う身体を容赦なく折檻され続けた。
それでも久遠は耐えた。

 『なぜこのような者を庇うか? おまえは樋野の子だろう? 』

 そう訊かれて久遠は悲しかった。
樋野の子…それを選んだのは久遠自身だったが、久遠の中には紛うことなく城崎の血も流れているのだ。

 『お許しください…瀾は弟です。 俺が樋野の子であってもそれだけは変わらない事実です…。 どうか殺さないで…。 』

 反論されたことに怒り狂った伯父がさらに激しく久遠を痛めつけた。
庭の様子に気付いた伯母が慌てて屋敷の方から飛び出してきた。

 『あなた…いけません。 久遠が何をしたというのです。 久遠に…これ以上つらい思いをさせてどうします? 
 私が久遠から瀾への想いを消してしまいます。 そうすれば久遠の城崎への未練も断ち切れるでしょう。 』

 伯父も大人たちも久遠への折檻を止めた。
伯父の暴力が止んでも久遠は頭を上げなかった。
伯父はぷいっと横を向くと大人たちを引き連れてその場を立ち去った。

 『久遠…伯父さまはおまえが憎いわけではないのよ。 分かっておくれ…。 』

伯母は持っていたハンカチで久遠の顔の傷から流れる血を拭いてくれた。

 『おまえの心にしこりが残ってはいけない。 この子の心にも…。 
私がこの記憶を消してあげる…。 

 伯父さまは本当におまえのことが可愛くて仕方ないのだからね。
伯父さまに対して恨みが残らないようにしてあげる…いい子にしておいで…。
その傷は…私がおまえを苛めたことにすればいい…。 』

 伯母はそう言うと久遠に優しく微笑みかけた。
久遠は伯母の真心を信じて抵抗しなかった。



 衝撃的な事実に一同は声を失った。
久遠は伯父には大切にされ可愛がられていたと身内の誰もが証言していた。
久遠を苛めていたのは血の繋がらない伯母の方だとみんなが思っていたし、久遠自身もそうだと信じていた。

 ところが本当は伯母が久遠と伯父のために悪役を演じていてくれたのだった。
記憶を操作したのも伯父だと信じていたがその実は伯母の久遠への思いやりだった。
 久遠や瀾の受けた衝撃もさることながら最も衝撃を受けたのは親の城崎だった。
城崎は決して力の弱い方ではない。
 それなのに瀾と久遠にあの時そんなことが起きていようとは全く気付いてもいなかったし、予想だにしていなかった。

 「城崎さん…あなたに自身にも暗示がかけられています…。 
それは軽いものなので多分気付きもしなかったでしょうが、瀾や久遠のことに限って予知できないのはそのためだと思われます。 」

 修にそう言われて確かに城崎には思い当たることがあった。
瀾の身にいくつもの危険が降りかかっていながら、城崎は瀾に関してほとんど予知することができなかった。
 親子関係の感情の縺れが原因だろうと自分では考えていたのだが、まさかそれが遠い過去にかけられた暗示のせいだったとは…。
 
 彰久は瀾と久遠の過去について大方のことを把握すると、また何やらぼそぼそと文言を述べて、御大親への感謝と礼を尽くし静かに膝から手をはずした。
 悟と晃もやっと不自然な形から解放されて、強張った身体をほぐすためにストレッチを始めた。

 「今まで僕らが知り得たことは事件の表面に現れた部分だけ…。
本当はものすごく根が深く、城崎さんの代でさえご存知ないような過去の経緯が影響を及ぼしているものと思われます。

 お祖父さま…古い話になりますが明治の頃、城崎家から独立したという樋野家について何かご存知ですか? 」

 修は一左にそう訊ねた。一左にしてもそこまで古い話となると体験的に知っているというものではなく、また聞き状態ではあろうがこの長老は結構いろいろなことを覚えている。

 「明治に独立か…それが樋野家のことかどうかは私も親から聞いた話なのでよく分からんが…。
 明治になって華族の列に入れなかった士族たちは商家になろうとして失敗するものが多かったようだが…中には頭の切り替えが早くて成功する者もおった…。

 商家として成功しても家柄や身分に関する考え方は旧態依然としているわけで、自分に仕えてきた者に対しては見方を変えるなんてことはしなかったのだろうな。
許しなく主家を飛び出て独立した者の成功を喜ぶことも少なかったんだろう。

 仮に…主家を城崎、独立した家を樋野とすると…私の聞いておる限りでは表面上は仲良く取り繕ってはいたが、城崎の樋野への風当たりは非常に強く、樋野はたびたび商売の上でも人間関係の上でも嫌がらせを受けていたということだ…。
力の面だけを見れば樋野は城崎に勝るとも劣らない一族だったそうだが…。

 姻戚関係を結ぶなどはもっての他だから…悲劇のカップルも今の城崎さん以前に何組かあったのではないかな…。 」

 修の曽祖父から聞いた話を一左は語って聞かせた。
城崎は確かに自分たちのことに違いないと感じた。

 「おそらく…間違いはないでしょう。 城崎と樋野の関係はまさにそうでした。
私も昔のことは詳しくは知りませんが…久遠の母親と私の結婚には一族からの猛反対を受けました。
 久遠の母親が亡くなってからもその骨を城崎の墓に入れては貰えず、悲しい思いをしたことを覚えております。
 骨は私が一部を保存しておる他は…樋野に送り返されたと聞いております。
それほど城崎の家は樋野にたいして代々侮辱的な行為を行ってきたわけです。
義兄の怒りも解る気が致します…。 」

 城崎は大きく溜息をついた。樋野の義兄は城崎に対してはいつも機嫌よく、若い時などよく談笑したがあれはみな芝居であったのだろうか…?
人の心とは悲しいものだと城崎は思った。




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最後の夢(第四十五話 御霊迎え)

2005-12-02 22:13:00 | 夢の中のお話 『失われた日々』
 その夜の紫峰家はこれから何か特別なパーティが始まるのかと思われるくらい珍しい客で賑わっていた。
 大食堂の大きなテーブルには、はるが吟味した心尽くしの料理が並べられ、客たちの視覚・味覚と胃袋を大いに満足させた。

 修と一左を中心に雅人・透・隆平・瀾・悟・晃…の学生軍団をはじめとして、鬼面川の彰久・史朗…黒田…藤宮の倉吉・岬…紫峰の西野・甲斐…そして城崎の長と頼子…樋野久遠…。
 
 甲斐が再び居間へ戻ってきた時、久遠は長椅子の上に寝転がってぼんやり天井を見つめながら考え事をしていた。
修は仕事を続けており、ふたりが何を話していたのかは想像もできなかった。

 母屋に移ってからも久遠はまだショック状態が続いていたようで誰とも話をしようとはしなかった。

 護衛の岬を引き連れて瀾が帰ってきた時、瀾は久遠を見て立ちすくんだ。
あのハーフコートの男がなぜここに…?
 瀾はその男が兄であるということに気付きもしなかった。
久遠も瀾を見たが弟だということが全く分からず、ほとんど無反応だった。



 食事が終わると一同は居間に移った。
ゆったりと椅子に掛けて皆が落ち着いたところで修は皆に集まって貰った趣旨を説明した。
 先ず第一には…鬼母川で言うところの『御霊迎え』…所謂招霊を行って昭二の最後の言葉を聞くことにより、いま城崎家の周辺でいったい何が起きようとしているのかを把握する。
 第二には久遠と瀾の過去に何があったのか…魂の記憶を遡り、その限界点で黒田に記憶の封印を解かせる。
 これらの結果を総合してどこの誰が何の目的で久遠たちを利用しようといるのかを探り出す。 
  
 「そういう訳で…鬼母川のおふたりにはお疲れのところ申し訳ないのだが…。」

 彰久と史朗は顔を見合わせて頷きあった。
先ずは史朗が祭主を務めることになり居間の絨毯の上に正座した。

 「久遠さん…僕の前へお出でください。 
昭二さんはきっとあなたと話したいでしょうから。
但し…絶対に僕や昭二さんに触れないでください…危険ですから…。

 それからもうひとつ…いろいろとご質問なさりたいでしょうが 御霊にも答えられることと答えられないことがあります。
 決して無理強いはなさいませんように…。 

 本来は個人的な理由で御霊迎えをすることは禁忌ですが…今回は人の命が懸かっておりますので特別に…。 」

 史朗はそう前置きをすると久遠が史朗と向かい合って座るのを見定めた後祭祀を始めた。
 鬼母川の御大親にタブーを犯すことを心から詫びる文言を述べ、御大親の慈悲に縋る許しを乞うた。
 さらに亡くなったばかりの昭二の魂の所在を確認し、この場へと招く文言と所作を繰り返した。
 
 史朗の舞うが如き流麗な所作と文言に、その場の者は皆魅了されてしばし息を殺した。
瀾と頼子は祭祀舞の持つ本来の意味を目の当たりにして自分たちがこれから始めようとしていることの重さを痛感した。

 やがて史朗と久遠との間にうっすらと青白い影が現れた。
影は次第にその姿をはっきりさせた。

 『…戻りなさい…早く…城崎の家が…狙われています…。』

影は久遠に訴えた。懐かしい昭二の顔で…。

 『瀾…が死に…あなたが…消えれば…城崎は終わり…だ。』

 「昭二! 誰がおまえを殺したんだ? いったい何があったんだ? 」

久遠は叫ぶように訊ねた。

 『直接に手を出したのは…敏…でも敏も何かに憑かれていました…。 』

昭二は悲しげに答えた。


 久遠からの伝言で瀾を殺すことを躊躇い始めた昭二を見て敏はイライラをつのらせていた。

 「急がなければ…瀾が力の使い方を覚えてしまう…。 そうなったら手強い。」

敏はじりじりしながら昭二に言った。

 「だが城崎の安泰を考えるなら…瀾が長としての技量を身につければ済むことだぜ…。
瀾が死ねば久遠さんが悲しむと分かっているのにのに殺す必要があるのか?
生かしたままで久遠さんを城崎に戻す手立てを考えた方がいいんじゃないか?

 すでに久遠さんを追い出したあの母親は死んでいるんだし…。
本人だけならちゃんとした教育をすれば済むんじゃないのか…? 」

昭二がそう言うと敏はいきなり怒り出した。

 「殺すんだよ…昭二。 殺さなきゃいけないんだよ。 
そのためにおまえをわざわざ留置場から引っ張ってきたんだぜ…。 」 

普通じゃなかった…。
まるで誰かに追い詰められてでもいるかのようにヒステリックになっていた。

 「瀾を殺せば久遠さんは帰れるんだよ…。 帰して貰えるんだよ…。
そう約束してくれたんだ…。 」

どういうことだ…何を言ってるんだ…?昭二は不審に思った。

 「誰が…おまえにそんなことを…? 」

昭二が訊ねると敏は怪訝な顔をした。

 「誰…? 分からん…。 でもそう言われたんだ…。
久遠さんが幸せになれるんだよ…。 
だから…殺すんだ…。 どうしても瀾を…城崎爛を…。 」


 『敏の異常さに気付いて俺は誰かが何かを仕組んでいると考えました…。
ならば…なおさら殺してはいけない…。
このことを…何とかしてあなたに伝えなければいけない…。

 じっと部屋を出るチャンスを待ちました。 
追われているために外出を控えている敏が珍しく静香と連れ立って出て行ったのを
見計らって俺は外に出ました…。 』


 久遠が店回りをしている頃だ。上手くいけば久遠に会えるかも知れない。
昭二は久遠の行っていそうな店を辿った。
 最後の店のドアが開いて久遠の姿が見えた時昭二は久遠に声をかけようとした。
途端に…何かを背中から突き立てられた。

 驚いて振り返ると敏の鬼のような形相が見えた。
おまえが悪いんだ…。逃げたりするから…。
敏はそういいながら突き立てた得物に力を込めて一気に引き抜いた。
それが彼の念のドリルであることを昭二は知っていた。

 知らせなきゃ…久遠さんに…。
ふらふらと久遠の方に向かって歩き始めた。
昭二の身体から流れ出る血を見て誰かが叫んだ。


 『あなたが駆け寄ってくるのが見えた…。 差し出されたあなたの腕までたどりついたことを覚えている…。 でも何も話せなかった…。 声が…でない。 』

 それでも昭二は最後に久遠に会えたことが嬉しかった。
瀾を殺さずに済んだことも…。

 『今思えば…俺が怪我をさせたあの時、瀾が死ななくて本当に良かった…。
殺してしまっていたら…俺は今頃あなたに顔も合わせられない…。 

脱走した後…殺しに行こうとする俺を頼子が止めに来てくれて有り難かった…。』

 じっと黙って昭二の話を聞いていた久遠が一度渇いた涙をまた溢れさせた。
頼子のすすり泣く声が背中の方で聞こえた。

 「昭二…済まない…俺のせいだ…。 俺が城崎の家を出たばかりに…おまえにつらい思いばかりさせて…。
 俺が恰好つけておまえにも本心を隠してばかりいたから…おまえを苦しめ…悩ませ…死なせてしまった…。
 昭二…俺は…長としておまえに何もしてやれなかった…本当に何も…済まん。」

 久遠は昭二に向かって深々と頭を下げた。
その様子を昭二はじっと見つめていた。

 『あなたは…俺のために仲間のために…樋野でのつらい毎日を笑って耐えて下さったじゃありませんか?  
 決して楽ではなかったけれど…俺もみんなもあなたと共にあった…。
仲間と暮らして…結構楽しかったでしょう…? 
俺はそう思いますよ…あなたと共に生きてこられて本当によかった…。 

 強くなってください…城崎を護ってください…俺の最後のお願いです…。 
そして…あなた自身もどうか…幸せに…。 』

昭二の影のような姿がまたさらに薄れていった。 

 「昭二! 昭二! 行くな! 昭二! 」

久遠の叫びに昭二の傷だらけの顔が優しく微笑んだ。

 やがて影は消え失せ御大親に捧げる史朗の文言だけが響いた。
史朗は昭二の魂が御大親の慈悲によって安らかならんことを願い奉った。
 恙なく祭祀を執り行ったことの報告と御大親への感謝の文言を述べて史朗は祭祀を終えた。

 部屋中からいっせいに溜息が漏れた。
初めて祭祀に参加する者たちは鬼面川のこの不思議な力に驚きを隠せなかった。

 「昭二が敏に殺されたのはこれで分かりましたが…敏が誰に操られていたのか…史朗さん…何か分かりますか? 」

倉吉が史朗に訊ねた。

 「残念ながら…昭二さんはあまり詳しいことを知らなかったようです。
敏という人も自分が誰に操られているのか分からないようですし…ね。 」

史朗は申し訳なさそうに答えた。

 肩を落として打ち拉がれたようにその場に座り込んでいた久遠が突然城崎の方を向いた。

 「父さん…俺は城崎に帰る。 すぐには無理だが…必ず帰る。 
城崎を滅ぼそうとするものを必ず俺が叩き潰す。 昭二との約束だ…。 」

久遠はしっかりとそう告げた。城崎は大きく頷いた。

 「帰って来い…久遠…。 それまでは何が起ころうと私も倒れずにいてやる。」

 城崎は久遠にそう答えた。
かつて瀾の母をめぐって悲しくも崩れ去った信頼関係が、父親と息子の間に再び固く結ばれた瞬間だった。

 俺は帰る…。誰に何を言われようと…もう構わない…懼れない…。
この長い歳月の間…樋野の姓の中に封印してきた本物の城崎久遠を呼び覚ます。

俺は久遠…城崎…久遠…。




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