章子さんと大伴家持と山上憶良
熟田津(にきたづ)に
船乗りせむと
月待てば
潮もかなひぬ
今は漕ぎ出(い)でな
こんにちは。デンマンですよ。
額田女王(ぬかだのおおきみ)が斉明天皇(女帝)に代わって詠(よ)んだと言うのが上の歌です。
大伴家持がなぜこの歌を取り上げたのか?
■ 『道後温泉と女帝と美女』
おとといの上の記事に引き続き考えてみようと言う訳です。
では、まず山上憶良が詠んだ歌を読んでみて下さい。
山上憶良の「貧窮問答歌」
風まじり 雨降る夜の 雨まじり 雪降る夜は 術もなく
寒くしあれば 堅塩を
取りつづしろひ 糟湯酒
うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ
ひげかきなでて 吾をおきて 人は在らじと 誇ろへど
寒くしあれば 麻ぶすま 引き被り
布肩衣(ぬのかたぎぬ) 有りのことごと 着そへども
寒き夜すらを 吾よりも
貧しき人の 父母は 餓え寒からむ
妻子(めご)どもは 乞ひて泣くらむ この時は
いかにしつつか 汝が世は渡る
天地(あめつち)は 広しといへど
吾がためは 狭くやなりぬる
日月(にちげつ)は 明しといへど 吾がためは
照りや給はぬ 人皆か
吾のみや然る わくらばに 人とはあるを
人並みに 吾も作れるを
綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと
わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち懸け 伏いほの
曲いほの内に 直土に 藁解き敷きて
父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て
憂へさまよひ かまどには 火気ふき立てず
こしきには 蜘蛛の巣かきて 飯炊く事も忘れて
鵺鳥の のどよひをるに
いとのきて 短きものを 端きるといへるがごとく 楚取る
里長が声は 寝屋處(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ
かくばかり 術無きものか 世の中の道
(反歌)
世の中を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
風交じりで雨が降っていると思えば、雨がだんだん雪になってしまったなあぁ~
寒くてどうにもならんよ。塩でもなめながら、糟湯酒をすすることにするかな。
ああもう、くしゃみは出るわ鼻水は出るわ。
それでも、ヒゲをなぜながら、「この世にはワシはワシ一人しかおらん!」と誇らしく思うけれど
寒さに変わりはありゃせんわ。頭から麻布団かぶって、
ありったけの着物かきあつめて着ても、
それでも寒いなぁ~ ワシより貧しい人の、とおちゃんやかあちゃんは、腹空かして寒がっているだろうなあ。
女房子供は、ハラ減って泣いているだろうなぁ~
そういう時、あなたなら、どうします?この厳しい世間で生活するって、大変ですよね。
世間は広いと言うけれど、
ワシには狭いんだよねぇ~。どこにも逃げ場がないんだよ。
お天道さんもお月さんも明るいと言うけれど、ワシは、
いっこうに陽の目を見てないよ。
皆、一緒かなぁ。ワシだけかなぁ~。 人並みに生まれてきたはずなのに。
綿も入ってない着物、ワカメみたいに
びらびらになってるのを、カッコだけ肩にひっかけて、着てはみるのだけれど。
ボロ屋の土の上に直(じか)に藁(わら)をばらまいて、
オヤジとお袋は枕の方に、女房子供は足の方で、ワシを囲んで
泣き暮らすみたいに寝ているのですよ。かまどに火の気もないし、
お釜には蜘蛛の巣張って、それというのも、米炊くのも忘れるほど何もないんですよ。
鵺という鳥が、獲物をさらう時には、
弱いヤツを選んでさっとはさんでくっちゅうけれど、
ワシらもおなじ弱い者や。おおおお~、またかぁ~、里長が怒鳴りこんで来たよ。
まだ税金を取り立てるつもりなのか?ひどすぎる!厳しい世の中だなあ~。
(反歌)
世渡りはいつの時代でも大変なんだよね。
でも、鳥ではないんだから、飛び立って蒸発するわけにもゆかないし、
現実逃避は、やっぱ、ダメだよねぇ~。
僕がかなり意訳して現代文で書いています。
誤っている箇所があれば指摘してもらえると助かります。
次に引用するエッセーは章子さん(仮名)がジオシティーで書いたものの一部です。
実は、僕はこの女性のことをほとんど知らないのです。
文章を読んで僕なりに想像したところでは、高校の歴史の先生のようです。
持統天皇の“天香具山”の歌については僕はすでに詳しく書きました。
関心のある人は次のリンクをクリックして読んでみてください。
■ 『いにしえの愛を訪ねて --- 万葉集の謎と持統天皇』
この記事では山上憶良について書こうと思っています。
それで、冒頭に有名な「貧窮問答歌」を載せたというわけです。
では、まず、章子さんのエッセーを読んでください。
春すぎて 夏来にけらし 白妙の
衣ほすてふ 天香具山
これは万葉集の中に載せられている持統天皇の歌です。
天香具山の麓で、白妙を衣を干しているのは貴族ではあるまい。
付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。
それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは私には感動的でさえある。
この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
決して農民を虫けらのごとく扱っていない。
そして農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。
このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。
山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。
この時代一般の農民が、豊かなことなど普通は考えられないことであって、
それを言い出せば、貴族以外のすべての人間たちの生活の悲惨さを言わねばならなくなる。
問題の本質はそういうところにはないのであって、
貴族社会の中に生きる人々の中にも、
自分たちが支配する農民たちの生活の貧しさに
心を砕くものが居たということの方が、
重要なのではないかと思う。
その貧しさを一人の貴族がいたわりの目で見ているということが大事なのだと思う。
そしてそれは単に山上憶良だけに限られるものではなく、
上にあげた持統天皇の歌にも見られるように、
多くの貴族たちの共通した農民観だったのではないかと思うのである。
本当はそこから古代の政治家たちの農民観ひいては政治観を導き出すことが重要なのではあるまいか。
それがうまく行われずに、ただ農民の悲惨さだけを訴える史料として使われているところが何とも残念なことである。
【山上憶良の『貧窮問答歌』】より
(注: 読みやすいように写真や改行を加え、大幅にデザインを変えてあります。)
持統天皇の歌を人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈をしていると思います。
章子さんが上の文章を書いたページの一番下に“教育崩壊”というロゴが表示されています。
教育の現場で生徒に教えながら、最近の教育が崩壊しているのではないか?
そういう問題意識を持ってこの文章を書いていることが実に良く分かります。
しかし、僕が『いにしえの愛を訪ねて --- 万葉集の謎と持統天皇』の中で書いたように
章子さんは持統天皇の表面的なことしか見てないような気がするのです。
もし、持統天皇の生い立ちや、持統天皇が大津皇子を死に追いやった事などを考え合わせると、上の“天香具山”の歌は次のようには見て取れないのです。
付近の農民たちが自分たちの白妙を干している姿が目に浮かぶ。
それを小高い宮城から見て微笑んでいる持統天皇の姿というのは
私には感動的でさえある。
この有名な歌には天皇が暖かい目で農民を見守っていることが見て取れる。
少なくとも、持統天皇の波乱に富んだ人生をじっくりと見れば、香具山のふもとで農民たちが白妙を干しているのを、ぼんやりと眺めながら歌を詠むような人ではないんですよ。
それが僕の解釈です。
つまり、上の持統天皇の歌は、読み方によって幾通りにも解釈できるわけです。
読み手がどれだけ持統天皇の性格や、人生や、行動を理解しているかによって、当然解釈が違ってきます。
章子さんには、初めに人道的な観点、また人間性ということを重要視したスタンスがある。
それに基づいて持統天皇の歌を解釈している。
僕にはそのように見えるんですよ。
では、一体どのような見方をする必要があるのか?
その当時に戻って、この場合だったら持統天皇が生きていた奈良時代に遡(さかのぼ)って、
その当時の生活を生きるような姿勢で見る必要があると思うのですね。
そのような事は実際にはできないのだけれど、そのような姿勢が大切なのではないか?
僕はそう言いたい訳です。
なぜなら、“皇国史観”の歴史的な見方が、現在の“日本史”教科書にも残っています。
だから、天皇の“悪口”は、ほとんど書いてないんですよね。
天皇だって、人間なんですからね、我々と同じように50の長所と50の欠点を持っています。
でも、太平洋戦争中には、天皇の“悪口(欠点)”は書けなかった。
だから、持統天皇の“悪口”も書けなかった。
現在でも皇室をはばかって、大正天皇が精神病を患っていて、かなり奇行のある人だった、という事は歴史の教科書に書いてないでしょう。
大正天皇は後年、精神状態が悪化して政務を行う事が困難になり、当時の皇太子(後の昭和天皇)が摂政として政務を行っていた。
近親結婚が重なると、優生学上、好ましくない遺伝子が現れてしまうので良くない。
民間から正田美智子さん(現在の皇后)が皇室に入ったということも、このようは背景があった。
つまり、歴史を振り返ってみるときには、“表”だけを見ても仕方がないんですよね。
“奇麗事(きれいごと)”だけしか書かれていない場合が多いからです。また、故意に悪口を書いたりする。
例えば、大和朝廷は“蝦夷(えぞ)征伐”をする都合があったので、蝦夷(えぞ:えみし)のことを『日本書紀』に悪い人間だと書いた。
“蝦夷征伐”を正当化するためです。
つまり、上の章子さんの文章は人道的な観点から、また人間性ということを重要視した、とてもすばらしい解釈だと僕は思います。
しかし、持統天皇の“表”ばかり見て“裏”を観ていません。
歴史を読むとき、“読み人”は歴史の裏も表も読まなければならないと僕は信じています。
それが歴史を読む人のスタンスであるべきです。
山上憶良の「貧窮問答歌」に対しても章子さんは一面的な見方しかしていないような気がします。
章子さんは次のように書いています。
農民たちの生活がますます豊かになることを、
和歌を通じて祈りたい気持ちが初夏の息吹とともに伝わってくる。
このような農民観は、日本の古代社会を通じて共有された農民観だったのではなかろうか。
そう考えないと、日本最古の歌集である「万葉集」に、
農民兵である防人の歌があれほど取り入れられるはずはないと思うのだ。
山上憶良の『貧窮問答歌』(万葉集)にしてもそうである。
ところがこれは高校の日本史では奈良時代の農民の悲惨さを詠んだものだととらえられている。
そこから、ややもすると貴族たちは農民を虫けらの如く扱い、
それを当然視していたかのような印象を与える。
しかし、この歌の主題はそういうところにはないのである。
つまり、章子さんは自分独自のスタンスで眺めている。
もちろん、誰もが独自のスタンスを持っています。
しかし、歴史を眺める時には、一旦、自分独自のスタンスを離れて、歴史の中に飛び込んでゆく必要があると僕は信じています。
タイムマシーンがあるわけではないので、それは不可能な事だけれども、
少なくとも、タイムマシーンに乗って時代を遡(さかのぼ)って自分でその当時を生きてみる努力が必要なのではないか?
僕は、その態度と姿勢のことを言っているわけです。
具体的には、防人の事ですよ。
章子さんはこの防人の実態について良く理解していません。
だから、大きな誤りを犯しています。
大伴家持は防人たちの苦しい実情を自分が防人たちを監督掌握している役人の立場に居たので良く知っているのですよ。
防人の苦しい実態とは。。。?