後奏曲集@危険 (PART 1)
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デンマンさん。。。、どういうわけで“後奏曲集@危険”というタイトルでオイラを呼び出したのですかァ~?
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オマエと“後奏曲集@危険”について語り合いたくなったのだよ。
でも、それってぇ どういう意味なのですか?
読んで字のごとくだよ。。。 つまり、オマエが投稿した“後奏曲集”が危険というレッテルを貼られて 見られないようになっているのだよ!
マジっすかァ~。。。?
僕はオマエを呼び出してまで悪い冗談を飛ばすような暇はないのだよ。。。 とりあえず、オマエが“後奏曲集”として投稿した中の「ヨハン・ゼバスティアン・バッハ」に関する記事を見て欲しいのだよ!
1.12 Johann Sebastian Bach (1685 – 1750)
種々、数々あるミサ曲を、いろいろな演奏で聴くときに、私が、習慣的に、注意する箇所がいつの間にか出来てしまった。その一つは<Credo>のなかの、Et incarnatus est、の部分である。これは、もしかすると、吉田秀和のW.A. Mozartの<<Messe in c-moll>>(K. 427)とL.v. Beethovenの<<Missa Solemnis>>(in D-dur, Op. 123)の該当部分を比較した文章を、いつか、どこかで、読んだとき以来のことかも知れない。まったく、Mozartの作品では、Raffaelloの絵画のような色彩のなかで、甘美な、sinfully sweet(草子地:この言葉は日本語では表現し難い。これは、実は、chocolateのcommercialから借用したのである。しかし、適材適所でここに収めたのは、かく言う私である。)とでも言ったらよいような旋律がソプラノで木管と共に唱れていく。私のLPでは、Maria Staderがそれを唱っているのであるが、彼女の天真爛漫な声が(草子地:多少、あの映画<オーケストラの少女>のような感じがしないでもないが)、楽園の世界に響き渡っているようだ。私は、この曲は教会音楽としては相応しくない、という見方にくみする方ではあるが、と言って、この曲の繊細さ、優美さを否定するつもりは全くない。
ところで、J.S. Bachの場合は、如何であろうか。彼の<<Messe in h-moll>>(BWV 232)では、Jesusの受肉である誕生を受難の始り、として表出しているのは確実である、と思うのであるが、どうであろうか。(草子地:以下の記述は、N. Harnoncourtの演奏によるLPに準拠している。J. RifkinによるCDでは、様子が異なっているが、このpostludeの大筋には、さしての影響はないので、このまま続ける)。
ここで、Bachは、少し奇妙なことをしているのだ。Et in unum Dominumの部分で、既にEt homo factus estまで曲を進めておきながら、後戻りをさせるように、Et incarnatus estを改めて始めているのである。そして、曲はCrucifixusのpassacagliaに続けられていくのである。これで、説明は、充分であろうか。これ以上、この例をもとにして更に深入りをすると、深読みのしすぎ、ととられる懸念が出てくる。私が言おうとしていることは、Messeのtextの繰り返しの一つ一つを取り出せば、こじつけとも言われようが、その繰り返し(複数)のあり方の全体を見ると、作曲者Bachのニケヤ信条の理解が透けて見えてくる、ということである。その驚異的な筆跡に、彼には、現代に於ける神学すらを踏まえた新、旧約の理解すらもあるふしを私は感じるのである。
二つだけ残されたBachの受難曲を聴くときには、Bachの音楽を通して、福音書の解釈に耳を傾けているのだ、と言っても過言ではないであろう。その一点に於いて、Bachは、W.A. Mozartはおろか、C. Monteverdiとすら異なった次元に存在している。要するに、あたかも神の領域を見てきたような、或いは、神がかった、或いは、神を味方に引き入れたような嘘を、Bachは一つも言ってはいない、ということである。超越の世界と、人間の世界を峻別し、謎は謎として自らは沈黙する。そして、そのうえで、自らの新、旧約への共感を唱いつくしているのである。それを検証するのは、無論、容易ではないが、後者の例として、あの有名なPetrusの否認に対する作曲家の明らかな同情(Sym-pathie)がある。あの例外的にmelismatikなEvangelistのRezitativと、それに続くAriaは周知の聴きどころであった。前者の例としては、Jesusが息をひきとったときの沈黙の効果である。常套的、と言ってしまえばそれまでであるが、私は、これ程までに彼我を峻別した沈黙の深さを他には知らない。K. Richterの演奏が、それを証明している。この前後の谷間に沈む静けさは、前の音の消え方、絶妙な間としてのGeneral Pause、そして次の音の立ち上りの姿によって、聴き手自身が息を呑んでいるのを聴き手自身に自覚させないほどの効果をもたらしている。
BachとRichter、そして、総ての演奏者の職人的な、しかし、無私、無心のなさせる奇跡的と言ってもよいほどの業が、眼の前に繰り広げられていたことに、後になって目覚めるのである。常套的、とも書いたが、いや、これは、むしろ、それが正道を行く曲創りであったからこそ、そして、それを徹底して在るがままに演奏したからこそ、この高み、いや、この深みの音楽に達していたのではなかったか。
ところで、Bachには、更に、その先があるのである。<<Misse in h-moll>>に話を戻す。それも、また、あのEt in carnatus estにである。この雰囲気は一体全体何であろう。思いあたるのは<<Aria mit verschiedenen Veranderungen>>(BWV 988)の第15変奏にもあるような雰囲気、とりわけG. Gouldの晩年の演奏に於いて感じられるそれである。と言うことは、これは、Bachの音楽のなかでは、とりわけ例外的でもない、ということになるが、この希薄な空気の中に漂うような音楽に耐えられ、Bachのそうした一面に共感し、考察できるようになるのは、私にとっては、いつになることであろうか。今の私は、そうした音楽に出会うと、耳の方が耐えられずして、いつしか、音楽から逸れてしまうのである(草子地:ここは、神秘的ではあるが、私は、敢えて、それに触れなかった。ドイツ的な合理主義は、究極的には、神秘主義に通じる、という見方があるからである。そんな次元での話ではなかったはずであり、J.S. Bachは、少なくとも、そんなものは乗り越えている、と私は信じている)。ただ言えることは、この息苦しさは、Crusifixusの苦悩、苦痛に拮抗している、ということである。
さて、私がミサ曲の中で気にする箇所は、他にもあるのである。例えば、<Sanctus>と<Benedictus>に続くHosannaの繰り返しの、作曲者の処理の仕方である。我ながら、意地の悪い注目の仕方ではあるが、Bachのこの作品のそれは、とりわけ無様ではないか。その不器用な繰り返しを、それに輪をかけて不器用に演奏しているH. Harnoncourtは、実に、Bachに忠実である。Messeのtextの中では、このBenedictusから戻るOsanna(草子地:これは綴りの間違いではない)が、唯一の繰り返しであるところが、皮肉にも面白い。
S.D.G.
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(赤字はデンマンが強調)
27-28ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
あのさァ~、いつも言うようだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。
デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
海外からのアクセス@Denman Blog
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■『葛飾北斎と太田将宏』@Denman Blog
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
1.12 ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
(1685 – 1750)
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種々、数々あるミサ曲を、いろいろな演奏で聴くときに、私が、習慣的に、注意する箇所がいつの間にか出来てしまった。
その一つは<クレド - ミサ曲の構成要素>のなかの、五部合唱(ソプラノ1、2、アルト、テナー、バス;ロ短調、アンダンテ・マエストーソ、3/4拍子) の部分である。
これは、もしかすると、吉田秀和のモーツァルトの<<大ミサ曲 ハ短調>>(K. 427)と
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それと、ベートーヴェンの<<ミサ・ソレムニス>>(in D-dur, Op. 123)の該当部分を比較した文章を、いつか、どこかで、読んだとき以来のことかも知れない。
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まったく、モーツァルトの作品では、ラファエロの絵画のような色彩のなかで、甘美な、罪深いほど甘い(草子地: sinfully sweet この言葉は日本語では表現し難い。これは、実は、チョコレートの宣伝文句から借用したのである。しかし、適材適所でここに収めたのは、かく言う私である。)とでも言ったらよいような旋律がソプラノで木管と共に唱れていく。
私のLPでは、マリア・シュターダーがそれを唱っているのであるが、彼女の天真爛漫な声が(草子地:多少、あの映画<オーケストラの少女>のような感じがしないでもないが)、楽園の世界に響き渡っているようだ。
私は、この曲は教会音楽としては相応しくない、という見方にくみする方ではあるが、と言って、この曲の繊細さ、優美さを否定するつもりは全くない。
ところで、バッハの場合は、如何であろうか。
彼の<<ミサ曲 ロ短調>>(BWV 232)では、イエス・キリストの受肉である誕生を受難の始り、として表出しているのは確実である、と思うのであるが、どうであろうか。
(草子地:以下の記述は、ニコラウス・アーノンクールの演奏によるLPに準拠している。
ジョシュア・リフキンによるCDでは、様子が異なっているが、この後奏曲の大筋には、さしての影響はないので、このまま続ける)。
ここで、バッハは、少し奇妙なことをしているのだ。
Et in unum Dominum (And in one Lord) の部分で、既に「天の聖霊はこの世界の上を飛び回って、自分のやろるべきものを探し求める」(Et homo factus est)まで曲を進めておきながら、後戻りをさせるように、パワー(Et incarnatus est)を改めて始めているのである。
そして、曲はCrucifixus(信条)の パッサカリア(17世紀初期にはギターで和音を奏するリトルネッロ:歌の前奏・間奏などの器楽演奏部分)に続けられていくのである。
これで、説明は、充分であろうか。
これ以上、この例をもとにして更に深入りをすると、深読みのしすぎ、ととられる懸念が出てくる。
私が言おうとしていることは、ミサのテキストの繰り返しの一つ一つを取り出せば、こじつけとも言われようが、その繰り返し(複数)のあり方の全体を見ると、作曲者バッハのニケヤ信条の理解が透けて見えてくる、ということである。
その驚異的な筆跡に、彼には、現代に於ける神学すらを踏まえた新、旧約の理解すらもあるふしを私は感じるのである。
二つだけ残されたバッハの受難曲を聴くときには、バッハの音楽を通して、福音書の解釈に耳を傾けているのだ、と言っても過言ではないであろう。
その一点に於いて、バッハは、モーツァルトはおろか、クラウディオ・モンテヴェルディとすら異なった次元に存在している。
要するに、あたかも神の領域を見てきたような、或いは、神がかった、或いは、神を味方に引き入れたような嘘を、バッハは一つも言ってはいない、ということである。
超越の世界と、人間の世界を峻別し、謎は謎として自らは沈黙する。
そして、そのうえで、自らの新、旧約への共感を唱いつくしているのである。
それを検証するのは、無論、容易ではないが、後者の例として、あの有名なシモン・ペトロの否認に対する作曲家の明らかな同情がある。
あの例外的にメリスマ様式のテノールのパート朗唱と、それに続くアリアは周知の聴きどころであった。
前者の例としては、イエス・キリストが息をひきとったときの沈黙の効果である。
常套的、と言ってしまえばそれまでであるが、私は、これ程までに彼我を峻別した沈黙の深さを他には知らない。
カール・リヒターの演奏が、それを証明している。
この前後の谷間に沈む静けさは、前の音の消え方、絶妙な間としての全部の楽器が休止、そして次の音の立ち上りの姿によって、聴き手自身が息を呑んでいるのを聴き手自身に自覚させないほどの効果をもたらしている。
バッハとカール・リヒター、そして、総ての演奏者の職人的な、しかし、無私、無心のなさせる奇跡的と言ってもよいほどの業が、眼の前に繰り広げられていたことに、後になって目覚めるのである。
常套的、とも書いたが、いや、これは、むしろ、それが正道を行く曲創りであったからこそ、そして、それを徹底して在るがままに演奏したからこそ、この高み、いや、この深みの音楽に達していたのではなかったか。
ところで、バッハには、更に、その先があるのである。
<<ミサ曲 ロ短調>>に話を戻す。
それも、また、あのミサ歌詞にである。
この雰囲気は一体全体何であろう。
思いあたるのは<<ゴルトベルク変奏曲>>(BWV 988)の第15変奏にもあるような雰囲気、とりわけグレン・グールドの晩年の演奏に於いて感じられるそれである。
と言うことは、これは、バッハの音楽のなかでは、とりわけ例外的でもない、ということになるが、この希薄な空気の中に漂うような音楽に耐えられ、バッハのそうした一面に共感し、考察できるようになるのは、私にとっては、いつになることであろうか。
今の私は、そうした音楽に出会うと、耳の方が耐えられずして、いつしか、音楽から逸れてしまうのである
(草子地:ここは、神秘的ではあるが、私は、敢えて、それに触れなかった。ドイツ的な合理主義は、究極的には、神秘主義に通じる、という見方があるからである。そんな次元での話ではなかったはずであり、バッハは、少なくとも、そんなものは乗り越えている、と私は信じている)。
ただ言えることは、この息苦しさは、Crusifixus(信条)の苦悩、苦痛に拮抗している、ということである。
さて、私がミサ曲の中で気にする箇所は、他にもあるのである。
例えば、<サンクトゥス>と<ベネディクトゥス>に続くホサナ《神を賛美する叫び[言葉]》の繰り返しの、作曲者の処理の仕方である。
我ながら、意地の悪い注目の仕方ではあるが、バッハのこの作品のそれは、とりわけ無様ではないか。
その不器用な繰り返しを、それに輪をかけて不器用に演奏しているニコラウス・アーノンクールは、実に、バッハに忠実である。
ミサのテキストの中では、このベネディクトゥスから戻るオザンナ(草子地:これは綴りの間違いではない)が、唯一の繰り返しであるところが、皮肉にも面白い。
ただ神にのみ栄光を!
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(赤字はデンマンが強調)
27-28ページ
『後奏曲集―後書きばかり-作品 3』より
。。。で、上の記事が危険に晒されているということですか?
そうだよ。。。
でも、危険ってぇ、具体的にはどういうことなのですか?
まず、次の検索結果を見て欲しい。
(gog71129a.png)
■『拡大する』
■『現時点での検索結果』
つまり、オマエの上の記事が出てくるサイトを見つけようとして「間奏曲集―主題なき変奏-作品 2 太田将宏」と入れて検索したのだよ。。。
あれっ。。。 水色の枠で囲んであるのはデンマンさんが投稿した記事ですねぇ~?
そうなのだよ。。。 僕はこれまでに オマエの『後奏曲集』の中からいくつかの作品を引用して記事を書いたのだよ。。。 たまたま赤枠で囲んだ箇所が目に付いた。。。 これは確かにオマエが書いた記事なのだよ! その証拠に引用した文中の赤字で書いた箇所が出ている!
。。。で、リンクをクリックするとオイラが投稿した記事が出てくるのですか?
まず次のページが出てくるのだよ!
(pap71129a.png)
■『拡大する』
■『実際のページ』
これはオイラがアップロードした『後奏曲集』を表示しようとしている画面ですねぇ~。。。
そうなのだよ。。。 ところが30秒ほど待っても『後奏曲集』は表示されないで、次の画面が出てくる。
(pap71129b.png)
■『拡大する』
■『実際のページ』
あれっ。。。 オイラの『後奏曲集』をアップロードしたサイトは何者かがマルウェアかトロイの木馬を忍び込ませて、あくどい事をしようとしたのですか?
まず間違いなくマルウェアが忍び込んでサイトを台無しにしてしまったのだよ!
マルウェア
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マルウェア (malware) とは、不正かつ有害に動作させる意図で作成された悪意のあるソフトウェアや悪質なコードの総称で、コンピュータウイルスやワームなどがある。
悪意のコード(malicious code)、悪意のソフトウェア(malicious software)、悪意のある不正ソフトウェア、有害なソフトウェア、不正プログラムとも呼ばれる。
マルウェアの行う活動としてはデータの破壊やデータの盗難などがあるが、こうした「悪意のある」行動をするソフトのみならず、ユーザの望まない広告を勝手に出すアドウェアのような「迷惑ソフト」の中で悪質なものもマルウェアの範疇に含める場合がある。
マルウェア(malware) は、「悪意のある」という意味の英語「malicious(マリシャス)」と「software」を組み合わせて創られたかばん語である。
類義語としてクライムウェアがあり、これはマルウェアの中で特に犯罪(crime)に使われるものを指すとするものもあるが、必ずしもこれを要件としないものもあり、マルウェアとの関係は判然としない。
種類
1) ワームはウイルス同様自己増殖するが、ホストプログラムを持たず、単体で存在するプログラムの事を指す。
2) バックドアとは外部からコンピューターを操るために作られたコンピューターへの不正な侵入経路の事でRAT(Remote Administration Tool)とも呼ばれる。
バックドアをしかけるマルウェアをバックドア型と呼ぶ。
3) トロイの木馬は一見無害なファイルやプログラムに偽装した上でコンピューターに侵入したあと悪意のある振る舞いをするものを指すことが多いが、偽装を行わずにOS等の脆弱性を悪用して勝手にインストールされてしまうもの(ドライブバイダウンロード)もトロイの木馬に含める場合がある。
狭義のウイルスと違い自己増殖機能は持たない。
またトロイの木馬の定義として単体で存在し宿主を必要としないことを要件に加えるものもあるが、これを要件としない場合もある。
トロイの木馬の定義として、コンピューター内部に侵入したあと攻撃者による外部からの命令で悪意のある振る舞いをする事やバックドア型である事を要件にする場合もある。
4) スパイウェアは情報収集を主な目的とし、コンピューターの内部情報を外部に勝手に送信するソフトウェアで、ユーザーが気づかないうちにパソコンにインストールしているパターンが多い。
IPAとJNSAの定義によればスパイウェアとは「利用者や管理者の意図に反してインストールされ、利用者の個人情報やアクセス履歴などの情報を収集するプログラム等」のことである。
スパイウェアはマルウェアの一種とみなすことが多いが、シマンテックはスパイウェアをマルウェアに含めていない(クライムウェアには含めている)。
出典: 「マルウェア」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
オイラはどうしたらよいのでしょうか?
あのさァ~、オマエが掲載を依頼した paperzz.com のサイトは、すべてが駄目になっているようだよ!
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■『拡大する』
■『実際のページ』
オイラは、マジで どうしたらよいのでしょうか?
あのさァ~、お金を払ってまでパブリッシング・サイトに掲載を依頼する必要はないのだよ! ネット市民の記事を掲載している 無料で信頼のおける安全なサイトがたくさんあるのだから。。。!
例えば。。。?
たとえば、僕の Denman Blog が掲載されている wordpress.com だよ。。。 オマエもブログを始めて、記事を投稿すればよいのだよ!
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(すぐ下のページへ続く)