漱石とオナラ (PART 1)
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デンマンさん。。。 夏目漱石がオナラのことについて書いた小説があるのでござ~ますかァ~?
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いや。。。 オナラをテーマにした小説を夏目漱石は書いてません。。。
それなのに、どういうわけで夏目漱石とオナラを取り上げたのでござ~ますかァ?
あのねぇ~、夏目漱石が朝日新聞社に勤めて新聞小説を書いていた頃、仕事の関係で、けっこう各地で講演をしていたのですよ。。。 その講演の内容が一部 本になっている。。。 その本をたまたま僕はバンクーバー市立図書館で読んだのです。。。
文芸と道徳
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道徳に関係のない文芸のお話をすれがいくらでもありますが、たとえば今私がここへ立って難しい顔をして諸君を眼下に見て何か話をしている最中になにかの拍子で、卑陋(ひろう)なお話ではあるが、大きな放屁(ほうひ)をするとする。
そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか。
そこが問題なのである。
というといかにも人を馬鹿にしたような申し分であるが、私は諸君が笑うか怒るかでこの事件を二様に解釈できると思う。
まず私の考えでは相手が諸君のごとき日本人なら笑うだろうと思う。
もっとも実際遣ってみなければ分らない話だから、どっちでも構わんようなものだけれども、どうも諸君なら笑いそうである。
これに反して相手が西洋人だと怒りそうである。
どうしてこういう結果の相違を来(きた)すかというと、それは同じ行為に対する見方が違うからだといわなければならない。
すなわち西洋人が相手の場合には私は卑陋の振舞をいちずに徳義的に解釈して不徳義---なにも不徳義というほどのこともないでしょうが、とにかく礼を失していると見て、その方面から怒るかもしれません。
ところが日本人だと存外単純に看做(みな)して、徳義的の批判を下す前にまず滑稽を感じて噴き出すだろうと思うのです。
私の鹿爪(しかつめ)らしい態度と堂々たる演題に心を傾けて、ある程度まで厳粛の気分を未来に延長しようという予期のあるやさきへ、突然人前では憚るべき音を立てられたのでその矛盾の刺激に堪えないからです。
(中略)
道徳と文芸というものは、決して切り離すことのできないものであります。
両者は元来別物であっておのおの独立したものであるというような説もある意味からいえば真理ではあるが、近来の日本の文士のごとく根底のある自信も思慮もなしに道徳は文芸に不必要であるかのごとく主張するのははなはだ世人を迷わせる盲者の盲論といわなければならない。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
145-147ページ 『夏目漱石、現代を語る』
漱石社会評論集
編著者: 小森陽一
2016年5月10日 第1刷発行
発行所: 株式会社 KADOKAWA
つまり、上の本を読んだので、デンマンさんも急にオナラのことが また書きたくなったのですかァ~?
そうです。。。 いけませんかァ~。。。
つまり、デンマンさんはオナラにハマっているのですわねぇ~?
いや。。。 僕は別にオナラに関心があるわけではないのですよ。。。
でも。。。、でも。。。、7月19日に『オナラの曲芸』という記事を書いたばかりではござ~ませんかァ~!
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これが世界一のオナラの威力だ!
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アタイのオナラの連発を聞いてね!
あなたのために
日本創世記をイメージした
「狂屁曲ヘ長調 創世記」です!
お楽しみくださいませ。 (笑)
■『オナラの曲芸』
上の記事を投稿してから、まだ2週間経ってないのでござ~ますわァ~。。。
『オナラの曲芸』を投稿してから、たまたまと言うか。。。 偶然に上の本を読んだわけですよ。。。 すると夏目漱石が講演でオナラを取り上げて話をしていた。。。 考えてみると、タイミングがいいわけですよ。。。 だから、この機会に夏目漱石が取り上げたオナラのエピソードについて考えてみようと思ったわけです。。。
漱石が取り上げたオナラのエピソードが それほどデンマンさんの関心を引き付けたのでござ~ますかァ?
そうです。。。
。。。で、どういうところに興味を持ったのですか?
あのねぇ~、漱石は「文芸と道徳」という堅苦しい題目で講演していたのですよ。。。 僕がその当時生きていたら、特に“道徳”という文字が目に入ったら、まず講演を聴きに行かなかったと思います。
デンマンさんは、道徳の話が嫌いなのですか?
あのねぇ~、人間は誰でも完璧じゃないのだから、道徳の話ができる人は、そう多くはないはずなのですよ。。。 だから、道徳というテーマで話をする人の気が知れない。。。 いい気なものだと思ってしまう。。。
でも。。。、でも。。。、当時でも漱石先生は有名だったから、ぜひ真近かで漱石先生のお話を聴きたいという日本市民が大勢居たのではござ~ませんかァ?
そうだと思いますよ。。。 でもねぇ~、僕はへそ曲がりなところがあるから、有名であればあるほど、道徳の話をする人間を馬鹿にして、まずお金でももらわない限り講演を聴きになどゆきません。。。
それなのに、どうして漱石先生のオナラのエピソードを取り上げる気になったのですか?
あのねぇ~、漱石先生も演題が堅苦しいと気づいていたのですよ。。。 だから、聴衆をリラックスさせるために、それに聴衆の関心を自分の話に引き込むために、わざとオナラのエピソードを話したと思うのですよ。。。
そのエピソードがデンマンさんは気に食わないのですか?
いや。。。 実に面白いと思ったァ。。。 だから、こうして取り上げる気になったのですよ。。。 でもねぇ~、漱石のオナラの話は、実際にはありえない話なのですよ。。。
どういうことですか?
ちょっと次の小文を読んでみてください。。。
「分類」か「関係」か
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アメリカの発達心理学者が行った実験があります。
「サル、パンダ、バナナ」という3つのものから、どの二つがより近いと思うか?という質問です。
あなたはどの二つを選びますか?
では、「ウシ、ニワトリ、草」では?
質問されたアメリカ人大学生は、大半が「サルとパンダ」「ウシとニワトリ」を近い二つとして選びました。
一方、中国人と台湾人の大学生は「サルとバナナ」「ウシと草」を選びました。
あなたが日本で育ったのなら、こちらの二つを選んだのではないでしょうか。
「ウシと草」は、日本人には少し馴染みがないかもしれません。
もし「ウシ、ニワトリ、玉子焼き」としたら、ほとんどの日本人は、「ニワトリと玉子焼き」を選ぶと思います。
アメリカ人は「二つとも動物である」という「分類」の観点で選びました。
分析的な思考をするためには、相手が何のカテゴリーに所属しているのか「分類」することが大切だからです。
一方、中国や台湾(そして、おそらく日本)の学生は、二つの「関係」で選びました。
「サルとパンダよりは、サルとバナナの方が近い」という「関係」です。
「ウシと草」も(ニワトリと玉子焼きも)同じです。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
208-209ページ
『クール・ジャパン 外国人が見たニッポン』
著者: 鴻上尚史
2015年4月20日 第1刷発行
発行所: 株式会社 講談社
この本も漱石の本と一緒にバンクーバー市立図書館で借りて読んだのですよ。。。 要するに、東洋人は「サルとバナナ」「ウシと草」を選び、アメリカ人は「サルとパンダ」「ウシとニワトリ」を選ぶでしょう、という話なのですよ。。。 僕は日本人で、もちろん中国人と台湾人と同じように東洋人だけれど、「サルとパンダ」「ウシとニワトリ」を選んだのですよ。。。
デンマンさんは人生の半分以上をカナダで暮らしているから、アメリカ人とほぼ同じような反応をしたのだと思いますわァ。
卑弥子さんは「サルとバナナ」「ウシと草」を選んだのですか?
いいえ。。。、あたくしも、デンマンさんと同じように「サルとパンダ」「ウシとニワトリ」を選びましたわァ~。。。
卑弥子さんは、“平成の紫式部”と呼ばれる 極めて日本的な大和撫子(やまとなでしこ)なのに、どういうわけで「サルとパンダ」「ウシとニワトリ」を選んだのですか?
あたくしは外見的には十二単がよく似合う平安女性のように見えますけれど、オツムは、かなり分析的なのですわァ。。。 だから、上の御本にも書いてあるように分析的な思考をするためには、相手が何のカテゴリーに所属しているのか「分類」することが大切なので、あたくしは自然に「サルとパンダ」「ウシとニワトリ」を選んだのでござ~ますわァ。
なるほどォ~、京都の女子大学で腐女子たちに「日本文化と源氏物語」を講義している橘卑弥子・准教授は源氏物語を分析的に研究している、と言いたいのですねぇ~。。。
おほほほほほ。。。 そうでござ~ますわァ。。。 ところで、この話と漱石先生のオナラの話が、どのように結びつくのでござ~ますかァ?
あのねぇ~、上の「サルとパンダ」と「ウシとニワトリ」の話は、極めて面白い。。。 それが科学的に正しいか間違っているかは別として、誰にでも、すぐに答えることが出来る。。。 ところが、漱石先生の話は、ちょっと考えると、すぐに答えられるかもしれないけれど、現実的には、このようなことは まずありえない!
どういうことでござ~ますかァ?
あのねぇ~、「何か話をしている最中に なにかの拍子で、卑陋(ひろう)なお話ではあるが、大きな放屁(ほうひ)をするとする。 そうすると諸君は笑うだろうか、怒るだろうか」と漱石先生は言ってるけれど、演壇に立って1000人近い聴衆を前にしてオナラをすることは、まず普通の人には出来ないのですよ。。。
どうしてでござ~ますか?
卑弥子さんだって経験があると思うけれど、講堂や、体育館で300人ぐらいの生徒の前で話をする時に、オナラがしたくなったという経験がありますか?
考えてみると、そういう経験はござ~ませんわァ。。。
。。。でしょう? だいたい、300人ぐらいの聴衆を前にして話をしている時には、「次にどのようにして話を進めてゆくのか?」 そのことばかりに神経や意識が集中しているので、オナラをしたいとか、オシッコがしたくなったとか、ウンチがしたくなったとか。。。 そういうことは意識されないのですよ。。。 しかも、講演の前にトイレに行っている筈だから、すでにオナラもオシッコもウンチも、全部してきているのですよ。。。
でも。。。、でも。。。、中にはおトイレに行ってないで講演を始める人もいると思うのでござ~ますわァ。。。
だから、そういう不注意で、オツムのどこかが ぼけているか、間抜けな人間だけが演壇に立ってオナラをするかもしれないけれど、そのような愚か者でも、音がしないように「すかしっぺ」をするのですよ。。。 だから、聴衆の耳には届かない! 聞こえない! しかも、講演をする人と最前列の間は 少なくとも5メートルぐらい離れているし、演壇は1メートルぐらい高いところにあるので、臭い匂いが最前列の聴衆にも届かない!
つまり、演壇に立っている人がオナラをしても、聴衆には分からないという事ですかァ~?
その通りですよ。。。 だから、かなりの愚か者が演壇で講演の途中で「すかしっぺ」をしても、聴衆は笑うことも、怒ることもできないのですよ!
でも。。。、でも。。。、愚か者の講演者の中には、音のするすっご~♪~いオナラをする人もいると思うのですわァ~。。。
だから、そういう愚かな人の行為を「曲屁(きょくべ)」というのですよ。。。
曲屁
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曲屁(きょくべ)とは、音の高さや長さ、強さをさまざまに変えながら放屁することにより、聞き手を楽しませる行為のことである。
曲放(きょくひり)ともいう。
興行として曲屁を行った事例は世界各地に存在し、日本では安永年間に霧降花咲男を称する者が興行を行った記録があるほか、19世紀末のフランスでムーラン・ルージュを中心に活動したル・ペトマーヌ、近年ではイギリスのミスター・メタンなどが知られる。
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ミスター・メタン
こうした興行では、放屁の長さや連発といった単純な放屁技能の誇示や、「若い女の屁」「紳士の屁」などさまざまな設定で放屁し分けることで笑いを誘うもの、放屁単独もしくは別の楽器を伴った音楽の演奏などが行われた。
また放屁そのものを聞かせる芸以外に、肛門に管をつないで別の楽器を演奏する、放屁で離れたところにあるろうそくを吹き消す、といった芸も行われた。
出典: 「曲屁」
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だから、愚か者の講演者がイギリスのミスター・メタンのように音のするオナラをぶっ放したら東洋人であろうが、西洋人であろうが、まず間違いなく笑うのですよ。。。 怒るどころではありませんよ! 涙を流して笑いますよ!
そうでござ~ましょうか!?
だってぇ~、卑弥子さんも上のイギリスのミスター・メタンのクリップを見て、1年分の涙を流して、転(ころ)げまわって笑ったではありませんかア!
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