女帝と美女
熟田津(にきたづ)に
船乗りせむと
月待てば
潮もかなひぬ
今は漕ぎ出(い)でな
こんにちは。デンマンですよ。
きょうも引き続き万葉集の8番目の歌です。
3回目になります。
■ 『道後温泉と女帝と美女 2007-08-14』
■ 『章子さんと大伴家持と山上憶良 2007-08-16』
初めて読む人は上のリンクをクリックして前回の話を読んでみてください。
はっきり言って、上の歌の表面的な意味だけを考えるならば、
この歌はたいしたことは無いですよ。
誰でも作れるような歌ですよ。
あなただってそう思うでしょう?
僕ならば、現代風に次のような歌を作りますね。
葉山にて
船出しようと
月待てば
潮もころあい
さあ、こぎだそう
by デンマン
地名が変わっているだけで、僕の作った歌と熟田津(にきたづ)の歌は
表面的な意味だけを読む限り、ほとんど変わりがないのですよ。
僕の歌には2つの写真が貼り付けてあります。
おそらくあなたにとって、どちらの歌の方に関心があるかと言えば、
当然2つの写真が貼り付けてある僕の歌の方だと思うのですよ。
どうですか?
このかわいこちゃんって、一体誰なの?
このかわいこちゃんがヨットの中に居る訳なの?
それで、デンマンよ!
オマエ、このかわいこちゃんとヨットで葉山から太平洋に船出したのかよ?
ええっ?どうなの?
オマエ、こんなかわゆい女の子と一緒に本当にヨットに乗って太平洋に出て行ったの?
一体、どういう訳でこのかわいこちゃんが乗ってんだよ?
もっと詳しく話を聞かせてくれよ。。。
どうですか?
あなただって、僕の歌にそのような関心を持つのではないですか?
生前、司馬遼太郎さんは、このようなことを言っていましたよ。
“作品は作者だけのものと違うんやでぇ~。。。
作者が50%で読者が50%。。。
そうして出来上がるモンが作品なんやでぇ~”
名言だと思いますねぇ~~。
あなたが読者として、どれだけ50%の分を読みつくすか?
それが問題ですよね!
大伯皇女が全身全霊の力を込めて詠(うた)ったのがこのページの上で示した歌です。
あなたも、全身全霊の力を込めて。。。
あなたの人生経験と、これまで学んできた国文と、日本史と、
すべてを噛み砕いた上で理解すべきなのかもねぇ~。
大伯皇女は、それを期待しながら、
1300年後に生まれるだろうあなたに、
この当時の波乱に満ちた政治の真相を伝えようと、
上の歌を詠(うた)ったのかも知れませんよ。へへへへ。。。。
大伴家持は一読者として大伯皇女の歌を充分に読み取った上で
万葉集に載せたのだと思いますね。
『愛と怨霊』より
司馬遼太郎さんの名言は、短歌についてはまさにその通りだと思いますよ。
作者の言おうとしたことを、読み手がどれだけ汲み取る事ができるか?
それで初めて作品(この場合、短歌)が作者と読者の間で一つの作品として完成される。
文学作品というものは、そういうものだと僕も思います。
。。。で、あなたが僕の短歌から、どれだけの事を読み取る事ができるか?
上の2つの写真だけしか手がかりが無いのですよ。
実は、この女性の事についてはレンゲさんも気になって
次の記事の中で僕とレンゲさんが、この女性の事でいろいろと話しています。
■ 『ロマンチックなバンクーバー (2007年8月15日)』
上の記事を読めば僕がどうして葉山の短歌を作ったのか?が書いてあります。
もし、『現代万葉集』を作るとして、僕が編集長になったら僕の作った短歌は載せるだけの値打ちが無いと思います。
つまり、どうでもいいような歌なんですよね。
僕が作った葉山の短歌には、どうしても書かなければならなかった、詠まねばならなかったと言う動機がない。
じゃあ、『万葉集』に載せられた歌にはそのような動機があるのか?
あるのですよ!
僕は感じ取る事ができます。
また、そういうものを感じ取って欲しいために、編集長の大伴家持はそのような政治的な歴史的な意味のある歌を選んで載せたと信じる事ができます。
万葉集の中には“読み人知らず”の歌がたくさんあります。
その作者たちは『万葉集』に自分の歌が載せられるだろうとは考えてもみなかったでしょう。
。。。で、大伴家持は、なぜ載せたのか?
大伴家持が、その人たちの作った歌の中に、充分な政治的で歴史的な意味を見つけているからです。
つまり、大伴家持は読者として残りの50%の部分を充分に読み取っている。
読み取った上で、『万葉集』の編集長として載せている。
僕は、そう見ているのですよ。
すぐ上の引用の中で書いた「大伯皇女の歌」もそのような政治的に歴史的に意味のある歌なんですよ。
もちろん、大伯皇女は万葉集の中に自分の歌が取り上げられるだろうと思って作った歌じゃない!
でも、その歌を詠んだ大伴家持が政治的で歴史的な意味を読んで取り上げているのです。
僕が言おうとしていることは『愛と怨霊』を読んでもらえば、理解してもらえるはずです。
それで、熟田津(にきたづ)の歌にはそれ程の政治的で歴史的な意味があるの?
あるのですよ。
だからこそ『万葉集』の編集長は取り上げたのですよ。
この歌は37代天皇の斉明天皇(女帝)が詠(よ)んだと言われています。
でも、実は、この女帝に仕えていた額田女王(ぬかだのおおきみ)が代わって詠んだと言うのが定説です。
僕もそう思っています。
なぜなら、この時、斉明天皇(女帝)は歌など詠(よ)むような気分ではなかったはずです。
持病に苦しめられて養生のために道後温泉へ行ったからです。
。。で、歌はどういう意味なのか?
次のような説明が最も一般的ですよ。
熟田津で船出をしようと月を待っていると、
潮流も良い具合になった。
今こそ漕ぎ出そう。
表面的な意味だけならば、
つまらない取るに足りない歌なんですよね。
それなのに、編集長はなぜ取り上げたのか?
この歌に隠された裏話があるからですよ。
それを大伴家持は読み取って万葉集に載せたのです。
僕はそうとしか思えないのです。
。。。で、一体どんな裏話があるのか?
実は、この歌については、いろいろと不思議な事があると歴史学者や古代史研究家からも言われているのですよ。
どういうところが?
次のような事が言われています。
○ これらの船団は663年の唐・新羅連合軍との海戦への出発だと思われるのに、
この熟田津(にきたづ)からの船出は斉明天皇即位元年・655年です。
つまり、8年前に作られた歌だと言うのです。
○ 斉明天皇が筑紫朝倉宮に出陣したのは661年です。
海戦の現場はソウル沖ですから松山沖からの船出は
戦いの直接の出発ではありません。
○ 軍船は手漕ぎのガレー船なので、月の出をまって夜行するのは可笑しい。
昼間の方が漕ぎ易い。
○ 手漕ぎなのだから、潮待ちするのも可笑しい。
干潮であろうが満潮であろうが、手漕ぎだから
潮の満ち干きにそれ程影響を受けないだろう。
○ 帆船を同行していたとしても潮待ちではなく風待ちではないのか?
○ この軍団は前年に国東(くにさき)半島へ航海したのに、松山沖へとって帰っています。
兵員が逃亡、この補充のために松山沖へ投錨した。
やっと兵員の補充ができて、いざ筑紫へと再出発する時の歌ではないのか?
確かにいろいろと不思議の多い歌なのですが、
編集長はこの歌を載せて何を読者に伝えたかったのか?
その事を考えてみようとこの記事を書き始めたのです。
僕は、まず次のように思いました。
なぜ、熟田津(にきたづ)なのか?
熟田津でなければならない理由があったのですよ。
葉山では絶対にダメなのですよ!
僕が奈良時代に生きていて、上の葉山の歌を詠んだとしても
絶対に万葉集には載らなかったのです。
なぜ?
温泉でなければならなかった。
斉明天皇(女帝)や額田女王が生きていた飛鳥時代は、
温泉と言っても湯治場のようなものだったのでしょうね。
つまり、持病を治しにゆくようなところだったのです。
ちなみに、斉明天皇は温泉が好きだったようです。
好きと言うよりも病気を治すつもりがあったのだろうと思います。
658年10月15日に紀温湯に行き、659年1月3日に宮に帰る、という記録があります。
なんと2ヶ月半も逗留していた事になります。
持病を持っていたのでしょうね。
この紀温湯と言うのは白浜温泉のことです。
白浜温泉 「白浜温泉パーク」 樽風呂から海を望んだところ
それから2年後の661年1月14日に伊予の熟田津の石湯行宮に泊まっています。
唐と新羅の連合軍と戦いに行く途中に熟田津に立ち寄っているのですよ。
現在の我々の感覚からすると温泉に行くというのはリクリエーションなんですよね。
つまり、癒しを求めたり、楽しむために行くのです。
戦争に行く軍団の先頭に立って兵士たちを励まし、これから勇敢に戦ってくれ、
と言う立場にある“大元帥”が途中温泉に立ち寄る。
なんとなくふざけている様な話ですが、当時の温泉が湯治だということを考えれば、納得がゆきますよね。
斉明天皇は、どこか体の具合が悪かったようです。
事実この後、軍船に乗って九州に行きます。
そして半年後の7月24日に朝倉宮で亡くなっています。
暗殺説もあります。
でも、僕は2年ほど前に2ヶ月半も白浜温泉で湯治をしていた事などから考えて、
斉明天皇は病気を患っていたのだと思います。
大変つらい思いをしながら九州まで船旅をしたようです。
67歳で亡くなっています。
持病を持っている67歳の女性が、なぜ大元帥として日本軍の先頭に立って九州まで行かなければならなかったのか?
上の歌はこの時の歌なんですよ。
“今こそ漕ぎ出そう。”なんて意気揚々として漕ぎ出そうと言うような勇ましい歌ではないのですよね。
むしろ悲痛な叫びがその裏に隠されている!
もちろん、葉山のヨットハーバーから僕がかわいこちゃんと一緒に
ルンルン気分で太平洋に漕ぎ出すような楽しい気分では決してない。
つまり、額田女王が斉明天皇(女帝)のやるせない沈痛な気持ちを思いやりながら作った歌なのです。
この事情を大伴家持は充分に良く知っているので、この歌を万葉集に取り上げたのだと僕は信じています。
なぜ、持病持ちの、もしかすると船旅に持ちこたえられそうにないヤバい斉明天皇(女帝)が大元帥になって九州の大本営まで出向いてゆかねばならなかったのか?
実際、ヤバい事になってしまった訳ですよ。
戦争が始まる前に持病が悪化して死んでしまった。
この当時、政治の実権を握っていたのは、後に天智天皇になる中大兄皇子なのですよ。
だから、中大兄皇子が大元帥になって軍団を指揮して戦争をやればいいのです。
それなのに67才の持病を患っているおばあちゃんが大元帥になってノコノコと出て行った訳ですよ。
誰が考えたって可笑しな事なんですよね。
でも、このおばあちゃんでなければならなかった。
なぜなら、中大兄皇子が大元帥になったら、まとまりが付かなくなってしまう。
それ程この人物には敵対する者が多かった。
ほとんど誰もが中大兄皇子を信頼していないのですよ。
なぜ?
それは、この人の名前を見ればすぐに見当が付きます。
“大兄皇子”と言うのは皇太子、つまり次期天皇のことです。
“中大兄皇子”と言うのは、その次に皇位を継承できるポジションに居る人の事です。
つまり、皇太子ナンバー2です。
では、この当時の“大兄皇子”は誰だったのか?
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
何も無ければこの人が天皇になる人だった。
ところが“中大兄皇子”は野望を持っていた。
何が何でも自分が天皇になろうとした。
そのために、“中大兄皇子”は、645年にあの有名な大化の改新クーデターを起こした。
つまり蘇我氏から実権を奪った訳です。
古人大兄皇子も、その煽(あお)りを受けて亡き者にされてしまったのですよ。
本来ならばクーデターが終わった時に“中大兄皇子”は天皇になれるはずだった。
ところがなれなかった。
なぜか?
“中大兄皇子”を天皇に望む人が極めて少なかった。
つまり、それだけ反対者が多かったと言うことですよね。
“中大兄皇子”が天皇になったら反乱が起きそうな雲行きになった。
それで自分の母親をそのまま天皇にしていた。
これが35代の皇極天皇です。
この後、このおばあちゃんの弟が36代孝徳天皇になった。
この叔父さんである孝徳天皇が亡くなった後でも中大兄皇子は天皇にはなれなかった。
反対するものが多かった。
無理して天皇になったらクーデターが起きるかもしれない。
つまり、中大兄皇子は実行力はあったけれど、人望は無かったようです。
それで、仕方ないから、また自分の母親を天皇につけた。
つまり、同じ女性が二度天皇になった。
この37代の天皇が斉明天皇です。
皇国史観の影響で大化の改新クーデターは素晴しい政治改革と位置づけされていますが、
実体は、蘇我氏がやろうとしていた事を引き継いだに過ぎません。
中大兄皇子がとりわけ新しい事を始めたわけではないのです。
つまり、“大化の改新”と言うのは皇国史観に基づいて美化したものに過ぎず、
実体は政治権力闘争、内輪揉めに過ぎなかった。
そういう実体を地方の豪族なども良く分かっていたから中大兄皇子に反対する者が多かった。
もし蘇我氏が本当に悪政を施していて、中大兄皇子がその悪者たちを征伐したのならば、
中大兄皇子は大化の改新の年に、すんなりと天皇になっていたはずです。
あなたも、そう思いませんか?
でも、そうならなかった。
つまり、政治改革と言うよりも中大兄皇子が野心でクーデターを引き起こした何よりの証拠ですよね。