道後温泉と女帝と美女
熟田津(にきたづ)に
船乗りせむと
月待てば
潮もかなひぬ
今は漕ぎ出(い)でな
こんにちは。デンマンですよ。
この歌は万葉集の8番目の歌です。
有名だから、あなただって聞いたことがあるでしょう?
37代天皇の斉明天皇(女帝)が詠(よ)んだと言われていますが、
実は、この女帝に仕えていた額田女王(ぬかだのおおきみ)が代わって詠んだと言うのが定説です。
どういう意味なのか?
次のような説明が最も一般的ですよ。
熟田津で船出をしようと月を待っていると、
潮流も良い具合になった。
今こそ漕ぎ出そう。
僕は初めて読んだ時、たいした歌じゃないのに、
どうしてこの歌が万葉集に載っているのだろうか?
そう思ったのですよ。
あなたは、どう思いますか?
この歌がそれ程素晴しいと思いますか?
僕が万葉集の選者だったら取り上げていませんよね。
もちろん、個人の好き好きでしょうから
僕がたいしたことはないと思っても、
この歌を取り上げた大伴家持(おおともやかもち)にとっては素晴しかったのかもしれません。
なぜ、取り上げたのだろうか?
僕だって当然そう思いますよね。
なぜ素晴しいのか?
上の歌がそれ程注目に値するのか?
例えば僕が次のような意味の歌を詠んだとします。
葉山のヨットハーバーで船出をしようと月を待っていると、
潮流も良い具合になった。
今こそ漕ぎ出そう。
地名を変えただけですよ。
でも、それだけでも現代風になりますよね。
。。。で、あなたは上の文章を読んで、いいと思いますか?
いいとは思わないでしょう?
僕だっていいとは思いませんよ。
だから、どうしたって言うんだい?
それで終わりですよ。
それ以上の興味は湧きませんよね。
でもね、ここで僕が次のように言ったとしたら、
あなたは俄然、身を乗り出して僕の話に耳を傾けますよ。
実はねぇ、すっげぇ~♪~美人がヨットに乗ってんだよ。
うへへへへ。。。
どんな女だか、あなただって見てみたいでしょう?
次のようなイイ女なんだよゥ!
すっげぇ~♪~じゃん!
あなただって、そう思うでしょう?
とにかく昨日、葉山の浜辺で出会ったんだよ。
意気投合してヨットに乗って沖に出てみようと思ったわけさぁ~。
なるべく波が静かで月夜の晩がイイと思ってねぇ。
そうしたら、ちょうど具合も良く波が静かで月夜のきれいな晩になったんだよ。
もう、これ以上のロマンチックな場面はないと思ってね。
それで、うま~♪~くゆけば、このかわいこちゃんとヨットの上で
お月様を見ながら愛し合えると言う訳なんだよ。。。
うしししし。。。
どうですか。。。?
それで。。。それで。。。どうなったの。。。?
あなただって、急に興味が湧いてきたでしょう?
実はねぇ、上の熟田津(にきたづ)の歌にも、このような隠されている裏話があるのですよ。
ところが、そう言う事は万葉集の中には一言も書いてありません。
だから、つまらないのですよ。
でしょう?
大伴家持は書きたかったのですよ。
。。。でも、書けなかった。
なぜ?
書けば“発禁処分”になってしまうからですよ。
その当時に“発禁処分”なんて事があったの?
もちろんあったのですよ。
つまり、当時の権力者が書いて欲しくない政治的なスキャンダルを
大伴家持は万葉集の中に書くわけにはゆかなかったのですよ。
だから書いてない!
それで。。。スキャンダルって一体どういう事なの?
大伴家持が書けなかったから、
僕が書こうじゃないか。。。そう思ったわけですよ。
ええぇ~?、デンマン、オマエ、そんなことを知ってんの?
だから、調べたのですよ。
でもね、話し始めるとかなり長くなるんですよね。
今日だけでは書ききれないと思います。
今日はとりあえず、イントロの部分を書こうと思います。
まず、熟田津(にきたづ)ってどこなのか?
その存在は古代から知られ、その当時「にきたつ」と呼ばれてた。
つまり、「津」は濁らずに“つ”と読んでいたようです。
その意味は“煮える湯の津”と言うことだったようです。
これに「熟田津」と言う字が当てられた。
タイトルにも書きましたが、現在の道後温泉のことなんですよ。
道後温泉本館 (国指定重要文化財)
夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる温泉ですよね。
愛媛県にあります。
昔は「伊予国(いよのくに)」と呼ばれていた。
実は、この名前も温泉にちなんでいるのです。
湯国(ゆのくに)が転じて「伊予国(いよのくに)」になったという説もあります。
日本書紀、風土記などに登場することに基づいた「日本三古湯」と言うのがあるんですよ。
知っていました?
上の道後温泉と兵庫県の有馬温泉、それに和歌山県の白浜温泉です。
おそらく日本人ならば、ほとんどの人が上の3つの温泉の名前だけは聞いたことがあると思います。
温泉寺 (兵庫県神戸市北区有馬町)
温泉寺は奈良時代に僧行基が建てたと伝えられる名刹。
脇の参道の先にある湯泉神社は、有馬温泉を発見したという大己貴命と少彦名命を祀る。
境内からは温泉街が一望できる。
神戸電鉄有馬線有馬温泉駅から徒歩10分。
白浜温泉「白浜温泉パーク」
いろんなロケーションの湯場があって、それなりに楽しめる。
写真は樽風呂から海を望んだところ。
斉明天皇(女帝)や額田女王が生きていた飛鳥時代は、温泉と言っても湯治場のようなものだったのでしょうね。
つまり、持病を治しにゆくようなところだったのでしょう。
ちなみに、斉明天皇は温泉が好きだったようです。
好きと言うよりも病気を治すつもりがあったのだろうと思います。
658年10月15日に紀温湯に行き、659年1月3日に宮に帰る、という記録があります。
なんと2ヶ月半も逗留していた事になります。
持病を持っていたのでしょうね。
この紀温湯と言うのは白浜温泉のことです。
それから2年後の661年1月14日に伊予の熟田津の石湯行宮に泊まっています。
唐と新羅の連合軍と戦いに行く途中に熟田津に立ち寄っているのですよ。
現在の我々の感覚からすると温泉に行くというのはりクリエーションなんですよね。
つまり、癒しを求めたり、楽しむために行くのです。
戦争に行く軍団の先頭に立って兵士たちを励まし、これから勇敢に戦ってくれ、
と言う立場にある“大元帥”が途中温泉に立ち寄る。
なんとなくふざけている様な話ですが、当時の温泉が湯治だということを考えれば、納得がゆきますよね。
斉明天皇は、どこか体の具合が悪かったようです。
事実この後、軍船に乗って九州に行きます。
そして半年後の7月24日に朝倉宮で亡くなっています。
暗殺説もあります。
でも、僕は2年ほど前に2ヶ月半も白浜温泉で湯治をしていた事などから考えて、
斉明天皇は病気を患っていたのだと思います。
大変つらい思いをしながら九州まで船旅をしたようです。
67歳で亡くなっています。
持病を持っている67歳の女性が、なぜ大元帥として日本軍の先頭に立って九州まで行かなければならなかったのか?
上の歌はこの時の歌なんですよ。
“今こそ漕ぎ出そう。”なんて意気揚々として漕ぎ出そうと言うような勇ましい歌ではないのですよね。
むしろ悲痛な叫びがその裏に隠されている!
もちろん、葉山のヨットハーバーから僕がかわいこちゃんと一緒に
ルンルン気分で太平洋に漕ぎ出すような楽しい気分では決してない。
つまり、額田女王が斉明天皇(女帝)のやるせない沈痛な気持ちを思いやりながら作った歌なのです。
この事情を大伴家持は充分に良く知っているので、この歌を万葉集に取り上げたのだと僕は信じています。
要するに、1300年後に生まれる我々に、当時の真相を知って欲しいために大伴家持は上の歌を万葉集に載せた。
僕はそう思っているのですよ。
果たして大伴家持には、そのような魂胆があったのか?
もし、そうであるならば、どのような事を我々に伝えたかったのか?
それは、またあさって書きたいと思います。
ここまで読んでくれてありがとうございました。
ついでだから、他の記事も読んでくださいね。
では。。。