―櫻井節子夫人のメッセージを精読する。その⑦
引き続き櫻井節子夫人のメッセージを読み進めていきます。読んでみてのHOPEの率直な感想を付け加えさせていただいています。
(6)私たちが果すべき使命 -共に悔い改め、祈りましょう!
今日の事態に対して私たち祝福家庭はいかになすべきなのでしょうか!
今日のこの状況はどこから解決し得るのでしょうか?もし、この一連の問題が、本当に父母様と子女様の間で起こったものであったとすれば、また、子女様同士の葛藤であったとすれば、そこで解決して頂く以外にないでしょう。しかし、そもそも、天が保護すべき真の家庭に、どうしてサタンが侵入できたのでしょうか?
私たちは往々にして真の家庭に責任を転嫁してきたのではないでしょうか。実は真の家庭における様々な問題の発端が実は私たち祝福家庭にあったという事例を数多く目にしてきました。真の家庭の問題は真の家庭自らに任せておけばいいという見方もあります。確かにそれもそうでしょう。しかし、多くの問題の発端が私たち祝福家庭が真の家庭、特に真の子女様に侍ってくることができなかったことに起因しているという事実を私たちは多く目にしてきています。その問題に関して私たちは無関心であってはならないと思うのです。
ユダの荒野で、サタンがイエス様を試みることができたのは、洗礼ヨハネの基台が崩れたからです。また、イエス様が最後に十字架の道に行かざるを得なかったのは、12弟子の基台が崩れたからでした。お父様が興南の刑務所に行かれたのはキリスト教の基台が崩れたからであり、多くの子女様が数々の試練を受け、困難に陥り、真の家庭が多くの犠牲を払ってきた主原因は、私たち祝福家庭の基台が立たなかったからなのです。
祝福家庭の基台が重要です。祝福家庭がしっかりと基台を作って真の家庭を支えていたならば、真の家庭に問題が起こるはずもありませんでした。ましてや、今日のような分裂の事態は、そのことを想像だにすることのできない問題だったのです。
とはいえ、それは大半の食口からみれば、身に覚えのないことでしょう。しかし、ユダヤ民族は、当時のたった一握りの指導者たちと中心人物の過ちゆえに、イエス様を十字架の道に追いやったことの全責任を共に背負うようになりました。キリスト教は神様と共に生きた2000年の涙ぐましい歴史をもち、全世界に数々の篤実なクリスチャンを有しているにもかかわらず、数名の中心人物の一時の不信によって、真の父母の基台となり得る選民としての資格を失ったのです。
単純に一部指導者の過ちとしてしまうことはできないのです。指導者の過ちを看過してきた自分たちであるからです。もしや指導者が誤っていたら我々は命に代えてでもそれを諫め、誤りを正す努力が必要でした。
こうした観点から見る時、神様の摂理はどれほど厳正で、且つ無慈悲なものでしょうか?また、天一国時代、いつの時よりも子女様との一体化が求められていた時に、これを果たせなかった事実はどれほど深刻でしょうか。無論、子女様に何の落ち度もなかったと言うつもりはありません。しかし、どんな事情があったとしても、私たちのアベルとして、兄として、真心の限りを尽くして侍るべき私たちであったはずです。仮に、お父様に誤解が生じたなら、“それは違います”と、お父様にとりなすべきが私たちの立場だったのではないでしょうか。しかし、私たちはこれと逆のことをしてしまったのです。
結果的に私たちは真の家庭にきちんと侍ることができませんでした。「お父様」「御父母様」と慕っていたのは確かですが、このメッセージの最初の方に櫻井夫人が述べていたように、私たち祝福家庭はカインの子女としてアベルの子女である真の家庭の子女様たちに侍って一つになっていかなければなりませんでいた。ところがそれができてこなかったのです。真の子女様たちをどれほど寂しい立場に追いやり、どれほど蔑ろにしてきたかわかりません。真の子女様たちが否定され排除される姿を見て、真の父母様がいかにその胸を痛めてこられたかそのことに心致すことができなかった私たち祝福家庭ではなかったでしょうか!
顕進様の非をあげつらい、理解し難い部分を讒訴し、父母様との間の信頼を損なわせるようなことも多々あったに相違ありません。サタンがそれを讒訴しないでしょうか? 彼は最大の実力を行使して、真の家庭を破滅に導こうとしてきたのです。「お母様とだけ一体化していれば、全て解決される」という人も多くいます。しかし、原理はそうなっていません。問題は、私たちの“父母様に対する姿勢”にあったのではなく、“子女様に対する姿勢”にあったからです。
問題は、“父母様に対する姿勢”にあったのではなく、“子女様に対する姿勢”にあったと、ここで櫻井夫人は述べています。まさにそのことが最も大きな過ちであり、今日の統一家の分裂と葛藤をもたらしている一番大きな原因なのではと思います。
摂理的観点からみる時、私たちはサタンの讒訴を免れ得ないでしょう。しかし滅亡を免れ得ないソドム・ゴモラの町のため、アブラハムが必死にとりなしの祈りを捧げた時、神様は「十人の義人がいれば滅ぼさないだろう」と約束されました。私たち統一家に、十人の義人がいないでしょうか?私は統一家全体が共に生きる道を見出したいのです。
今日真の家庭が破綻し、統一家が分裂状態に陥った現状に鑑みてみると、その責任を担う祝福家庭にはもはや救いはあり得ないかの如くです。「別れ争う家また国は立たず」とイエスの教えにあります。分裂状態に陥った真の家庭と統一教会にはもはや一切の救いは無いかのごとき状況に瀕しています。
しかし、アブラハムが10人の義人がいればと祈祷したように、本当に悔い改めと精誠を尽くす祝福家庭があるならば神も我らを見捨てることなく救いに至る道を残してくださっているのではないでしょうか。
子女様の行動が父母様の心に傷をつけたとして、子女様が父母様に悔い改めるべき点があったとしても、その前に悔い改めるべきは私たちなのです! 特に、孝進様が困難に陥ったその時から、自らがお兄さんに代わって長子の立場を守ろうとし、真の家庭に責任をもち、祝福家庭を正しく導くために、必死な思いで歩んできた顕進様の胸に、私たちはどれほど多くの心情の矢を突き立ててきたことでしょうか。
長子に向けられた刃は、まさにその父母に向けられた刃と同じです。真のお父様の使命と責任を相続して歩まれようとしてきた顕進様に我々祝福家庭は如何ほどの刃を向け、矢を放ってきたことでしょうか。実はそれは真のお父様と天の神様に対する刃であり、鏃であったことをこれまで私たちは気づかないできました。
顕進様に浴びせられてきた迫害の一端を知る者として、顕進様のその間の御言や祈りを伝え聞いた時、悔い改めの涙を禁じることができませんでした。顕進様は今もこう言っておられます。「祝福家庭は私の家族だ。私には彼らに対する責任がある」と。私たちが今すべきこと、それはまず、統一家族としての深い悔い改めであり、祈りではないでしょうか。そうした悔い改めの渦が巻き起こり、その量が満ちる時、摂理の道も、統一家再生の道も開かれるのではないでしょうか。
いま私たちは深い祈りと悔い改めの時に遭遇していると思われます。顕進様はいかに反逆して、いかにこれまでご自分を蔑ろにしてしてきた祝福家庭であろうと、真のお父様が祝福した祝福家庭である以上、それは自分の弟であり妹であると、深い祈りと許しの心で対してきてくれているのです。
私たちが見たいのは、顕進様をはじめ、真の家庭の全ての子女様が、父母様のもとに一つとなった姿であり、このような分裂した統一家族が再び一つになる姿です。顕進様、國進様、亨進様が、天一国創建のビジョンと目的のもとに手を取り合う姿です。それが私たちにとってのビジョン2020の核心ではないでしょうか。
統一の日を天上の神様も、真のお父様も切望しておられます。そしてそれはすべての祝福家庭の本心の願いであり、良心の叫びでもあると思うのです。真の家庭の全ての子女様が、父母様のもとに一つとなった姿、分裂した統一家族が再び一つになる姿、顕進様、國進様、亨進様が、天一国創建のビジョンと目的のもとに手を取り合う姿、その姿を見たい天上の父母様であり、神様であろうと思われるのです。そしてそれが私たち祝福家庭の本心からの願いではないでしょうか。
真の家庭さえあれば、この教会は何度でも立て直せるでしょう。それが神様の摂理の中心だからです!
いま私たちに必要なものは教会組織ではなく、お金でもありません。今私たちに必要なものは統一の核心、幸福の原点、すべての理想と希望の核心である「真の家庭」の再生であり、真の家庭の一致化したお姿ではないでしょうか。それこそがすべての摂理の核の核、中心の中心だからです。