かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

樗の花

2014年06月07日 | 日記


 5月31日、鎌倉支部の歌会前に毎年の習いで〈樗〉(おうち)の花を見に行った。

 「枕草子」の「木の花は」の段に、「木の様憎げなれど、あふちの花いとをかし。枯れ枯れに様ことに咲きて、必ず五月五日に逢ふもをかし。」と褒めています。

 今年の5月31日は旧暦でいうと5月3日、果たせるかな、樗の花はちょうど満開でした。ちなみに去年は6月8日に行ったので、「マッチ棒の先くらいの小さな緑の実がぶら下がっているのがかすかに見えました。」とこのブログに記している状態でした。花は満開とはいえ、ここ数年の間に下の方の枝が伐られたらしく、花の匂いをかぐのも、花の写真を撮るのも難しい状態でした。

場所は、鎌倉駅から宮大路に沿って由比ヶ浜方面に10分ほど歩いた鎌倉体育館の前。
 樗の樹は3本あって、一本は10メートルはあろうかという大木。





一本は枝が伐られて何の木だか見分けもつかないような哀れなもの、かろうじて花を撮ったのは中くらいの樹、葉っぱに天道虫がとまっている。

 「木の様憎げなれど」というのは、樹の姿がちょっと曲がっているせいでしょうか。



左端に曲がっているのが、哀れに枝を伐られた樹。手前に大きく曲がっているのが、花と天道虫を撮った樹。



コメント

渡辺松男の一首鑑賞 94

2014年06月07日 | 短歌一首鑑賞

【Ⅱ ろっ骨状雲】『寒気氾濫』(1997年)57頁
                          参加者:四宮康平、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
                           レポーター:渡部 慧子
                          司会と記録:鹿取 未放


127 まがことをもたらすために父は来る ろっ骨状雲ひろがるゆうべ

      (レポート)(2014年5月)
 すじ雲であろう。「ろっ骨状雲」と作者が名付けたくもは「まがことをもたらすために父は来る」という内容を支える景として提示される。父ゆえの論理は、家庭にとって少々難儀な言い分であったかもしれないが、家長としての父を捉えているのであろう。風景を一首に取り込み、それからそれへ流れる型をとらず、一字あけを用いながら、人のありようと景を一つと見ている作者を思う。(慧子)


          (発言)(2014年5月)      
★私はレポーターの意見にほぼ同感です。(鈴木)
★渡辺さんは父親のことをかなり意識していらっしゃる。男性の父親に対する気持ちは女性の父親
 に対する気持ちとは違うところがある。張り合う気持ち、うっとうしく思う気持ちもあるだろう。
 それを歌にするのは難しいでしょうね。(曽我)
★一般的にそうですよね。ただ、渡辺さんはどこかで父親はとても超えられない大きな存在だった
 と書いていらっしゃったように思います。また、当然、実際の親子関係が歌には影を落としてい
 るでしょうけど、基本的には家族の歌(もちろん全ての歌に言えることですけれど)は造形され
 たものだと思っています。そしてそのお父さん、お祖父さん、弟さん、それぞれ魅力的な造形だ
 と思っています。(お母さんはちょっと違うんですが、ここでは踏み込むのやめます。)
   (鹿取)
★この歌でもとてもスケールの大きなお父さん像が「ろっ骨状雲」が広がる景の中で提示されている
 と思います。「『ろっ骨状雲』と作者が名付けたくも」と慧子さんは書いていますが、「ろっ骨
 状雲」は雲形としての名称で、作者が名付けたわけではないですよね。乳房雲というのも以前出
 てきましたが、雲の名称なんかも好きなんでしょうね。(鹿取)


      (まとめ)(2014年5月)
 同じ『寒気氾濫』に〈商工会会長渡辺巳作氏が巨大茶碗で茶を飲む朝〉というリアルな歌がある。とりあえず上の句は客観的事実で、実際の作者の父であろう。しかし「ろっ骨状雲」一連で詠まれている「父」は現実の父を超えて造形されている。別の歌で鈴木さんも言及されていることだが、そもそも〈われ〉がイコール渡辺松男ではないのだから、当然「父」も現実の父を超えて普遍化されている。また渡辺さん自身、そもそも家族の制度を信じてはいないだろう。なによりも、この一連の歌を家長とか家族役割内での父親とかに限定した鑑賞は歌柄を小さくしてしまうだろう。(鹿取)

コメント