新宿・パークタワーホール。
冒頭シーンが凄かった。大仰なコーラスがかかって、上手奥から照射された金色ビームの対角線上に寺田、砂連尾と並んで踊る。光と音によってモニュメンタルな存在へと仕立て上げられるフツーな人々の姿、このちぐはぐ具合はまさに『あしたはきっと晴れるでしょ』のクライマックスの、場違いなスペクタクル感を髣髴とさせた。しかし安定した対角線構図がひとたび崩されてから後は、もうほとんど何も見えてこなかった。『ユラフ』を初めて前橋で見た時から毎回感じるこのとらえどころのなさ。トークで砂連尾は、二人が視線を合わせないこととか、正面から向き合わないこととか、しきりに「曖昧さ」なるものについて語っていたから、これが「曖昧な表現」ではなく「曖昧さの表現」なのだと信じたいが、しかしこの程度に「曖昧」な舞台であればそれこそ他にいくらだって挙げられるのだから、これは「曖昧さの表現」が残念ながら「曖昧」なのだというほかないだろう。二人の身体が、二人の間に常にポッカリと設けられている広大な空間に負けてしまっている。他方、この作品の中で誰もが面白いと思うに違いないのは寺田の踊りで、振りが体の中にしっかりと落ちているし、よく咀嚼し解釈した上でアウトプットされているから、小さな振りでもきわめてクリアに伝わってくる。そしてこの寺田は案の定、砂連尾が「曖昧さ」などについて語るのを「フーン」と受け流すばかりで食いついてくれないらしい。そんなに前から見続けているわけでもないくせに『あしたは…』ばかり引き合いに出すのは良くないが、それでも、少なくともあの作品はすでに十分「曖昧」だったし、それが表現としての強度をもっていたことは間違いなく、つまり砂連尾は「曖昧さ」を語ることで「曖昧さ」そのもの(寺田の「フーン」な身体)からも、ダンスからも遠ざかってしまっているのだろう。ちなみに『あしたは…』には、二人が並んでバラバラの動きをしながら下手から上手へと移動していく忘れがたい場面があり、そして『ユラフ』にも辛うじて、上手で二人が至近距離で向き合いながら互いに噛み合わないバラバラの動きを次から次へと繰り出す印象的な場面があった。どちらも説教くさいお題目などではなく、絶妙なスレスレ感が何ともいえずエキサイティングなダンスになっていたのだった。
冒頭シーンが凄かった。大仰なコーラスがかかって、上手奥から照射された金色ビームの対角線上に寺田、砂連尾と並んで踊る。光と音によってモニュメンタルな存在へと仕立て上げられるフツーな人々の姿、このちぐはぐ具合はまさに『あしたはきっと晴れるでしょ』のクライマックスの、場違いなスペクタクル感を髣髴とさせた。しかし安定した対角線構図がひとたび崩されてから後は、もうほとんど何も見えてこなかった。『ユラフ』を初めて前橋で見た時から毎回感じるこのとらえどころのなさ。トークで砂連尾は、二人が視線を合わせないこととか、正面から向き合わないこととか、しきりに「曖昧さ」なるものについて語っていたから、これが「曖昧な表現」ではなく「曖昧さの表現」なのだと信じたいが、しかしこの程度に「曖昧」な舞台であればそれこそ他にいくらだって挙げられるのだから、これは「曖昧さの表現」が残念ながら「曖昧」なのだというほかないだろう。二人の身体が、二人の間に常にポッカリと設けられている広大な空間に負けてしまっている。他方、この作品の中で誰もが面白いと思うに違いないのは寺田の踊りで、振りが体の中にしっかりと落ちているし、よく咀嚼し解釈した上でアウトプットされているから、小さな振りでもきわめてクリアに伝わってくる。そしてこの寺田は案の定、砂連尾が「曖昧さ」などについて語るのを「フーン」と受け流すばかりで食いついてくれないらしい。そんなに前から見続けているわけでもないくせに『あしたは…』ばかり引き合いに出すのは良くないが、それでも、少なくともあの作品はすでに十分「曖昧」だったし、それが表現としての強度をもっていたことは間違いなく、つまり砂連尾は「曖昧さ」を語ることで「曖昧さ」そのもの(寺田の「フーン」な身体)からも、ダンスからも遠ざかってしまっているのだろう。ちなみに『あしたは…』には、二人が並んでバラバラの動きをしながら下手から上手へと移動していく忘れがたい場面があり、そして『ユラフ』にも辛うじて、上手で二人が至近距離で向き合いながら互いに噛み合わないバラバラの動きを次から次へと繰り出す印象的な場面があった。どちらも説教くさいお題目などではなく、絶妙なスレスレ感が何ともいえずエキサイティングなダンスになっていたのだった。