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ダンスとか。

「フランス・ハルスとハールレムの画家たち」展

2004-02-06 | ダンスとか
佐倉市立美術館。
去年の夏に越後妻有トリエンに行った時に電車の中吊り広告で見た展覧会。忘れた頃に回ってきたので、遠いところを出かけてみると、60点構成中ハルスはたった3点(大きな『理事たち』が2点と最初期の肖像画が1点)しかなく、全体のクオリティもあまり高くなかった。期待外れ。しかし絵だろうと言葉だろうと「描写」のリアリティというのは、描写対象を構成しているのとは異なる別の素材+手段によりつつその対象にどこまで近づいているかという、いわば程度問題であって、だからどんな細密な描写も、近づいてよく見ればリアリティを錯覚させるトリックがどうなっているのか必ずわかる。細かい筆先の点を等間隔に置くことで光の線や色面を作ることができたり、ちょっとした色やタッチの誇張で立体感とか動きとかを表現できたりする。これはレトリック以外のなにものでもない(他方、「現実」はどこまで眼を凝らしてもキリがない。CGは今この視覚の限界へ向かって解像度を高めている)。だからハルスを印象派の先駆者として歴史的に位置づけるのは理解できるのだけれども、ハルスと同時代の細密画家たちとの差も描写の密度に関する量的な問題なのであってみれば、むしろ逆にどうしてそんな近代絵画史を300年もすっ飛ばすような「先駆者」が忽然と生まれてしまえるのかが不思議に思える。こんなガサガサゴツゴツした手だとか、大胆きわまりない黒の重ね塗り(というか、刷いただけ)だとか、同時代の人の眼にはどう映ったのだろう。やっぱり「うわー、ヘタ!」だろうか。いやそうだとしたらむしろそんな「ヘタ」なのに画家としてやっていけるハルスの神経が理解できない。没後忘れられて後で「発見」され再評価された芸術家は多いが、忘れられるには忘れられるだけの理由があって、それを後から勝利者史観的に「生まれるのが早すぎた」とか「常人には理解できない天才だった」とかいうお約束的な物言いがどうも納得できない。あるいは「ヘタ」な人がそういう「天才」神話を内面化して唯我独尊的に突っ走る、というのが昔から常道としてあったのだろうか。歴史的アヴァンギャルドとかのメンタリティは明らかにそうだけれども。
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