コロンブドール

Les Films de la Colombe d'Or 白鳩が黄金の鳩になるよう人生ドラマを語る!私家版萬日誌

高遠に中野の子供たちが学童疎開で・・・

2006-05-12 | Weblog etc
小彼岸桜で有名な高遠で、戦時中、中野の学童が一時期疎開していたそうです。

ちょっと違う資料を探し、本を読んでいましたら偶然にもこんな記事が目に飛び込んできました。
中野で最初に出来た小学校 桃園小学校の生徒たちのようです。
まだ、未確認ですが詳細に調べる価値がありそうです。

戦後、60年以上も経ってしまいましたが、これも何かの因縁ととらえ、
高遠に親元から離れた学童疎開した子供たちは、どんな思いで高遠城址公園の桜を見ていたかが気になります・・・・。
東京の染井吉野を見慣れた子供たちは、高遠の小彼岸桜はどのように映っていたのでしょうかと思い・・・・・

また、私が住んでいる界隈は、空襲では焼けていないと思っていましたが、実は焼けていたことを隣のおじいさんからお伺いしました。
まだまだ戦前、戦中のお話をいろいろな方からお伺いできればと思います。

空襲で焼け残ったのは、以前住んでいた中野一丁目周辺で、あの界隈も昔のままで道が入り組んでいたので、当然、今の界隈も道が入り組んでいましたので、思い込んでしまったようです。

・・・ですので、学童疎開した子供らは、住んでいた町が空襲で焼けてと知ったときの様子と戦後、この町に帰り、焼けた町を自分の眼で見たときの様子をお伺いできればと思います。

以前書いた、中野区の子供たちが樹の保存に署名活動したエピソードをテーマにし、その樹の思い出を戦争時の子供らの様子を顧みながら、現代の子供らがその学童疎開した大人たちを見つめる話「樹木たちの家」のシュロの樹は”さくら”が似合うかもしれません!!

また、疎開した先は架空の小川村として長野の小川村周辺としていましたが、高遠での生活にしたほうがリアルさがあるように思えてきました・・・・。
お寺も多く,学童が泊まり住んだ様子が、実際に高遠に行き見てきてから、当時の子供らの様子が目に浮かぶようになって来ました!

「樹木たちの家」 シネハン写真とそのイマージュからの脚本部分


最新の画像もっと見る

コメントを投稿