「大奥」大年寄り絵嶋殿 高遠 この地この屋敷で 女人成仏至
絵嶋殿「もし相果て候はば、
日蓮宗にて候間法花寺(ほつけでら)へ取り置き候」とのみ言付け・・・
この囲み屋敷の角材格子によって囲まれた八畳間で机の上に法華経を紐解き開き、
大奥での政治権力争いの犠牲者として哀れみ世なきと想い、
成仏なさったのでしょうか・・・・・。
寛保元辛酉年
一、四月三日晩御在所より飛脚立て、絵嶋去年二月頃より快からず
浮腫もこれ有り候のところ、軽き容体にて服薬いたしつれづれ
快く当年に至り、相変る儀もこれなく候ところ、去る二日頃よ
り寒熱これ有り、痰咳ならびに痞(つかえ)強く、食事進まず、同七日
八日頃よりさし重(おも)り絶食にて
一、同十三日巳下刻御足軽飛脚弐人着き、絵嶋養生相叶はず、去る
十日酉上刻落命の由申し来る
一、北原道立.伊東交言最初より療治し、薬剤ならびに様体書等来る
右に付き、御用番本多中務太輔(なかつかさだゆう)様へせんだつて絵嶋病気の御届
け相勤め候、死去の段はいまだ披露に及ばず
御徒目付衆両人尋ねの趣答書の控へ
一、絵嶋事何年以前何月幾日御預けに成り候や、誰殿仰せ渡され候
や
正徳四年甲午三月十二日、御老中阿部豊後守様へ留守居の
者召し呼ばれ、御直(じき)に仰せ渡され候、絵嶋事永き遠流仰せ
つけられ候、このたび在所高遠へ遣はし候やうに、尤も御
預けと申すにてはこれなき段仰せ渡され候
(中略)
一、つねづね江戸表の儀など咄(はな)し候節も御座候や
つねづね江戸表の儀咄し候儀御座なく候由、附け置き候下
女申し候
一、なんぞ苦に致し候躰(てい)など相見え候や.
何にても苦に致され候躰相見えず候由、附け置き候下女申
し候
一、死後の事など申さず候や
もし相果て候はば、日蓮宗にて候間法花寺(ほつけでら)へ取り置き候や
うに致したき旨つねづね申され候由、附け置き候下女申し
候、このほか何にても申し置かれ候儀御座なく候段、これ
また下女申し候、以上(中略)
右御尋ね成られ候か条、一々御答書仕り候通り御座候、以上
内藤大和守内
酉四月廿五日 田村与一右衛門
(以下六名略)
杉浦惣十郎殿
平林太郎左衡門殿
「江嶋卸預ヶ記」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
注 寛保元辛酉年 四月三日(旧暦) 西暦 1741年 5月 17日(新暦)
正徳四年甲午三月十二日(旧暦) 西暦 1714年 4月 25日(新暦)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
絵嶋殿は、
寛保元辛酉年酉上刻 四月十日(旧暦) 西暦 1741年 5月 24日午後六時頃(新暦)、
体がむくみ、寒気、喉に痰がからみ食事も喉に通らず絶食状態になり衰弱し、藩士の看護もままならず永眠なさったようです。
絵嶋殿の遺言は一言
「願わくは日蓮宗を信心しておりますゆえ、亡骸を法華寺へ葬ってください」
と女中に託したそうです。
絵嶋殿は、高遠の地に遠流になったとき、生家が法華信者の家であったためなのでしょうか持参した法華経一巻を糧に、日蓮宗に帰依し読経念仏三昧精進の日々を送り生涯を突き通され成仏なさたそうです。
また絵嶋殿はよく、朝夕に聞こえる鐘の音に耳を澄まし、女中にその寺寺の名を聞いたそうですので、その鐘の音に幼い頃聞いたような思い出を回顧し、しみじみ生まれた故郷、そして両親を遠く高遠の地で顧みたのでしょうか・・・・・。
絵嶋殿は、よく高遠で桜を観て四月三日に御亡くなりになったと哀れ悲しむ方が多いようですが、実際は五月中旬で桜は散ってしまっています。しかし四月下旬頃哀れんだ藩士、女中は一枝の桜を机の上に飾ったと思え、桜のように花開き、散っていく姿を我に顧み成仏への準備に入ったと考えたほうが宜しいようです・・・・。
ー浮き世にはまた帰らぬ武蔵野の 月の光のかげもはづかしー 絵嶋の辞世
絵島物語 高遠HP
絵嶋殿「もし相果て候はば、
日蓮宗にて候間法花寺(ほつけでら)へ取り置き候」とのみ言付け・・・
この囲み屋敷の角材格子によって囲まれた八畳間で机の上に法華経を紐解き開き、
大奥での政治権力争いの犠牲者として哀れみ世なきと想い、
成仏なさったのでしょうか・・・・・。
寛保元辛酉年
一、四月三日晩御在所より飛脚立て、絵嶋去年二月頃より快からず
浮腫もこれ有り候のところ、軽き容体にて服薬いたしつれづれ
快く当年に至り、相変る儀もこれなく候ところ、去る二日頃よ
り寒熱これ有り、痰咳ならびに痞(つかえ)強く、食事進まず、同七日
八日頃よりさし重(おも)り絶食にて
一、同十三日巳下刻御足軽飛脚弐人着き、絵嶋養生相叶はず、去る
十日酉上刻落命の由申し来る
一、北原道立.伊東交言最初より療治し、薬剤ならびに様体書等来る
右に付き、御用番本多中務太輔(なかつかさだゆう)様へせんだつて絵嶋病気の御届
け相勤め候、死去の段はいまだ披露に及ばず
御徒目付衆両人尋ねの趣答書の控へ
一、絵嶋事何年以前何月幾日御預けに成り候や、誰殿仰せ渡され候
や
正徳四年甲午三月十二日、御老中阿部豊後守様へ留守居の
者召し呼ばれ、御直(じき)に仰せ渡され候、絵嶋事永き遠流仰せ
つけられ候、このたび在所高遠へ遣はし候やうに、尤も御
預けと申すにてはこれなき段仰せ渡され候
(中略)
一、つねづね江戸表の儀など咄(はな)し候節も御座候や
つねづね江戸表の儀咄し候儀御座なく候由、附け置き候下
女申し候
一、なんぞ苦に致し候躰(てい)など相見え候や.
何にても苦に致され候躰相見えず候由、附け置き候下女申
し候
一、死後の事など申さず候や
もし相果て候はば、日蓮宗にて候間法花寺(ほつけでら)へ取り置き候や
うに致したき旨つねづね申され候由、附け置き候下女申し
候、このほか何にても申し置かれ候儀御座なく候段、これ
また下女申し候、以上(中略)
右御尋ね成られ候か条、一々御答書仕り候通り御座候、以上
内藤大和守内
酉四月廿五日 田村与一右衛門
(以下六名略)
杉浦惣十郎殿
平林太郎左衡門殿
「江嶋卸預ヶ記」より
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注 寛保元辛酉年 四月三日(旧暦) 西暦 1741年 5月 17日(新暦)
正徳四年甲午三月十二日(旧暦) 西暦 1714年 4月 25日(新暦)
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絵嶋殿は、
寛保元辛酉年酉上刻 四月十日(旧暦) 西暦 1741年 5月 24日午後六時頃(新暦)、
体がむくみ、寒気、喉に痰がからみ食事も喉に通らず絶食状態になり衰弱し、藩士の看護もままならず永眠なさったようです。
絵嶋殿の遺言は一言
「願わくは日蓮宗を信心しておりますゆえ、亡骸を法華寺へ葬ってください」
と女中に託したそうです。
絵嶋殿は、高遠の地に遠流になったとき、生家が法華信者の家であったためなのでしょうか持参した法華経一巻を糧に、日蓮宗に帰依し読経念仏三昧精進の日々を送り生涯を突き通され成仏なさたそうです。
また絵嶋殿はよく、朝夕に聞こえる鐘の音に耳を澄まし、女中にその寺寺の名を聞いたそうですので、その鐘の音に幼い頃聞いたような思い出を回顧し、しみじみ生まれた故郷、そして両親を遠く高遠の地で顧みたのでしょうか・・・・・。
絵嶋殿は、よく高遠で桜を観て四月三日に御亡くなりになったと哀れ悲しむ方が多いようですが、実際は五月中旬で桜は散ってしまっています。しかし四月下旬頃哀れんだ藩士、女中は一枝の桜を机の上に飾ったと思え、桜のように花開き、散っていく姿を我に顧み成仏への準備に入ったと考えたほうが宜しいようです・・・・。
ー浮き世にはまた帰らぬ武蔵野の 月の光のかげもはづかしー 絵嶋の辞世
絵島物語 高遠HP
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