「大奥」大年寄り絵嶋殿 絵嶋生島事件の発端
正徳四午年正月十四日、上野増上寺へ月光院様より御名代として
遣はされ候女中
上 野へ 大年寄 絵嶋殿 三十三才
御中老 梅山殿 二十五才
増上寺へ 御年寄 宮路殿 三十二才
御年寄並 伊予殿 二十五才
木曽路 二十壱才
おふせ 二十三才
おらん 十九才
右の女中都合十弐人、木挽町山村長太夫座見物に参られ、中村清
五郎.清助両人にて桟敷世話仕り、その上裏座敷にて役者ども罷
りいで大酒盛に成り、御城へ帰られ候刻限遅く成り申し候ゆゑ、
供に罷り越し候伊賀同心豊嶋久左衛門・稲川惣左衡門罷りいで、
もはや御帰り成らるべく候七ツ過ぎに罷り成り候と申し、役者ど
もを叱り侯ゆゑ、皆々退き申し侯、然るところ、絵嶋殿殊のほか
腹立ちにて、推参者慮外ものとて伊賀同心を叱り申されてのちか
へられ候、そののち御広敷御番頭(おひろしきごぱんがしら)へ絵嶋殿より申され候儀は、
今日供に参り候伊賀衆、我らに慮外仕り候と断り申されければ、
御番頭衆も絵嶋殿の事いか成る慮外仕り候やとて、おふきにおどろ
き御留守居方へ早々御広敷御番頭より断り申され候、これによつて
伊賀同心豊嶋久左衛門・稲川惣左衛門・久野(ひさの)金五郎・竹沢勘助番
頭へ御預け御穿鑿に相成り候ところ、木挽町役者どもと大酒盛の
異見の次第、一々申し披(開)き仕り候、これより御老中方へ申し
上げられ、秋元但馬守、大目付仙石丹波守、御目付丸毛五郎兵
いなふせんぎかかり
衛・稲生(いなふ)次郎左衛門、町奉行坪内能登守御詮議掛(せんぎかかり)、中村清五郎御
吟味に相成り一々白状仕り、去年中より絵嶋殿不義の次第残らず
申し上げたり、この清五郎は長太夫座の狂言作者にて、絵嶋どの
へ取り入り、殊のほか気に入り、呉服屋手代清助両人にて万事と
りもち申し候、これにより絵嶋殿舟遊山などに出られ候節は、人
数まで明白に相知れ申し候、二月二日より御詮議、三月六日落去(らっきゅ)
御仕置仰せ付けられ候
「枯木集」より
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
注 正徳四午年正月十四日(旧暦) 西暦 1714年 2月 28日(新暦)冬陽春~小春日和
同 二月二日(旧暦) 同 3月 17日(新暦)桜の便りもちらほらの早春
同 三月六日(旧暦) 同 4月 19日(新暦)朝夕暑寒差異の春
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
絵嶋殿 34歳(数え年で) 大(御)年寄になり三年目
時は、御屠蘇(おとそ)もあけない正月14日
月光院の御代名として文昭院(家宣)の御霊屋 芝道上寺へ代参した帰りに、
木挽町の山村座で歌舞伎狂言「東海道大石曽我」を130名余りの大勢で観劇し、
飲めや歌へやの大騒ぎをしたことによるとの事です。
注 当日の歌舞伎狂言演目は「大名曽我」(近松門左衛門作)、
「さざれ石那須野の二柱」とも云われています。調査中
(「枯木集」の上野へ 芝増上寺への記述は誤っているかもしれません、調査中)
注 一般的な時代小説では、絵嶋殿と宮路さんの混乱を避けるため、
一行絵嶋殿は芝道上寺へ代参した帰りに、山村座で観劇し、酒豪におよんだと
書かれているようですが、時代考証で著名な稲垣史生氏の著書でも上記「枯木集」
のように、絵嶋殿一行は上野 寛永寺へ、宮路さんは芝増上寺へ互いに代参し
木挽町山村座で合流し、月光院様の許可を得て、堂々と観劇の息抜きレジャーに
及んだと述べていますので、現時点では「枯木集」を採用したいと思います。
なお、絵嶋での一行が芝増上寺からの代参の帰りであるというのは、
”判決文”の文書のようですが元文が見つからなかったので
今後の課題とさせていただきます。
なお寛永寺当時は、徳川家の菩提寺で厳有院(家綱)、常憲院(綱吉)両殿が御眠りし、
芝増上寺は文昭院(家宣)が御眠られているとの事ですので、御取調べのとき
両者を取り違い筆記間違いをしたのではないかと推測も出来ますが・・・・。
寛永寺 増上寺
補 木挽町の山村座の場所は、現在の銀座 旧丸善書店のあたりだそうです。
(丸善本店が丸の内ビルに移転したようですので日本橋高島屋近くで銀座より
といったほうが分かりやすいかも・・・)
後、余談がありどんどん災いが絵嶋殿にふりかかってきます・・・・。
また、時代考証家稲垣史生氏論を目を通して見ますと、色々と想像が働きました!
この絵嶋生島事件での、大奥での天英院様と月光院様の性格からの根本的な確執を閃きました。
つまり「アカデミック(Academic)」伝統格式派と
「トレンド(Trend)」流行趨勢派の確執です!
次回は、上記検証を熟させ述べたいと思います・・・・。
正徳四午年正月十四日、上野増上寺へ月光院様より御名代として
遣はされ候女中
上 野へ 大年寄 絵嶋殿 三十三才
御中老 梅山殿 二十五才
増上寺へ 御年寄 宮路殿 三十二才
御年寄並 伊予殿 二十五才
木曽路 二十壱才
おふせ 二十三才
おらん 十九才
右の女中都合十弐人、木挽町山村長太夫座見物に参られ、中村清
五郎.清助両人にて桟敷世話仕り、その上裏座敷にて役者ども罷
りいで大酒盛に成り、御城へ帰られ候刻限遅く成り申し候ゆゑ、
供に罷り越し候伊賀同心豊嶋久左衛門・稲川惣左衡門罷りいで、
もはや御帰り成らるべく候七ツ過ぎに罷り成り候と申し、役者ど
もを叱り侯ゆゑ、皆々退き申し侯、然るところ、絵嶋殿殊のほか
腹立ちにて、推参者慮外ものとて伊賀同心を叱り申されてのちか
へられ候、そののち御広敷御番頭(おひろしきごぱんがしら)へ絵嶋殿より申され候儀は、
今日供に参り候伊賀衆、我らに慮外仕り候と断り申されければ、
御番頭衆も絵嶋殿の事いか成る慮外仕り候やとて、おふきにおどろ
き御留守居方へ早々御広敷御番頭より断り申され候、これによつて
伊賀同心豊嶋久左衛門・稲川惣左衛門・久野(ひさの)金五郎・竹沢勘助番
頭へ御預け御穿鑿に相成り候ところ、木挽町役者どもと大酒盛の
異見の次第、一々申し披(開)き仕り候、これより御老中方へ申し
上げられ、秋元但馬守、大目付仙石丹波守、御目付丸毛五郎兵
いなふせんぎかかり
衛・稲生(いなふ)次郎左衛門、町奉行坪内能登守御詮議掛(せんぎかかり)、中村清五郎御
吟味に相成り一々白状仕り、去年中より絵嶋殿不義の次第残らず
申し上げたり、この清五郎は長太夫座の狂言作者にて、絵嶋どの
へ取り入り、殊のほか気に入り、呉服屋手代清助両人にて万事と
りもち申し候、これにより絵嶋殿舟遊山などに出られ候節は、人
数まで明白に相知れ申し候、二月二日より御詮議、三月六日落去(らっきゅ)
御仕置仰せ付けられ候
「枯木集」より
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注 正徳四午年正月十四日(旧暦) 西暦 1714年 2月 28日(新暦)冬陽春~小春日和
同 二月二日(旧暦) 同 3月 17日(新暦)桜の便りもちらほらの早春
同 三月六日(旧暦) 同 4月 19日(新暦)朝夕暑寒差異の春
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絵嶋殿 34歳(数え年で) 大(御)年寄になり三年目
時は、御屠蘇(おとそ)もあけない正月14日
月光院の御代名として文昭院(家宣)の御霊屋 芝道上寺へ代参した帰りに、
木挽町の山村座で歌舞伎狂言「東海道大石曽我」を130名余りの大勢で観劇し、
飲めや歌へやの大騒ぎをしたことによるとの事です。
注 当日の歌舞伎狂言演目は「大名曽我」(近松門左衛門作)、
「さざれ石那須野の二柱」とも云われています。調査中
注 一般的な時代小説では、絵嶋殿と宮路さんの混乱を避けるため、
一行絵嶋殿は芝道上寺へ代参した帰りに、山村座で観劇し、酒豪におよんだと
書かれているようですが、時代考証で著名な稲垣史生氏の著書でも上記「枯木集」
のように、絵嶋殿一行は上野 寛永寺へ、宮路さんは芝増上寺へ互いに代参し
木挽町山村座で合流し、月光院様の許可を得て、堂々と観劇の息抜きレジャーに
及んだと述べていますので、現時点では「枯木集」を採用したいと思います。
なお、絵嶋での一行が芝増上寺からの代参の帰りであるというのは、
”判決文”の文書のようですが元文が見つからなかったので
今後の課題とさせていただきます。
なお寛永寺当時は、徳川家の菩提寺で厳有院(家綱)、常憲院(綱吉)両殿が御眠りし、
芝増上寺は文昭院(家宣)が御眠られているとの事ですので、御取調べのとき
両者を取り違い筆記間違いをしたのではないかと推測も出来ますが・・・・。
寛永寺 増上寺
補 木挽町の山村座の場所は、現在の銀座 旧丸善書店のあたりだそうです。
(丸善本店が丸の内ビルに移転したようですので日本橋高島屋近くで銀座より
といったほうが分かりやすいかも・・・)
後、余談がありどんどん災いが絵嶋殿にふりかかってきます・・・・。
また、時代考証家稲垣史生氏論を目を通して見ますと、色々と想像が働きました!
この絵嶋生島事件での、大奥での天英院様と月光院様の性格からの根本的な確執を閃きました。
つまり「アカデミック(Academic)」伝統格式派と
「トレンド(Trend)」流行趨勢派の確執です!
次回は、上記検証を熟させ述べたいと思います・・・・。