ベートーヴェン:ピアノソナタ第17番「テンペスト」
ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」
ピアノソナタ第26番「告別」
ピアノ:エミール・ギレリス
CD:ドイツグラモフォン UCCG-5049
ベートーヴェンはその生涯で32曲のピアノソナタを作曲した。これらはいずれもピアノソナタの傑作であり、中でも中期から後期のソナタになればなるほど、ベートーヴェンが追い求めた音楽の形が具体的な姿になって現れて来るわけで、その精神性に深さには驚嘆せざるを得ないものがある。それ以前、こんなにも高いレベルのピアノソナタ集を作曲した作曲家は一人もいなかった。シューベルトもシューマンもブラームスもベートーヴェンのピアノソナタを相当意識して作曲したがいずれも力及ばずであった。これからも果たして、こんな凄い一連のピアノソナタを作曲できる作曲家が出てくるかどうかは分からない。同様なことは弦楽四重奏曲や交響曲にも言えるわけであるが、弦楽四重奏曲は心の内面の独白といった面が強く、交響曲は心の音楽というより、壮大なドラマの音楽だ。それに対し、32曲のピアノソナタ、特に中期のピアノソナタは、あたかもリスナーのひとりひとりにベートーヴェンが直接語りかけて、勇気づけてくれているかのように感じられる。
今回は、そんなベートーヴェンの中期のピアノソナタ3曲を、ロシア出身の名ピアニスト、エミール・ギレリス(1916年―1985年)が弾いたCDを紹介しよう。ベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音したピアニストは少なくないが、残念ながらギレリスは、あと5曲で全曲録音が終了するところで、68歳の生涯を閉じてしまった。この「テンペスト」「ワルトシュタイン」「告別」を収録したCDは、これらの曲のあらゆる録音の中でもトップクラスに、らくらくと入るほどの優れた内容となっている。実に安定感のある弾きぶりであり、リスナーはそのたっぷりとした安定感の中で存分にベートーヴェンのピアノソナタの世界を満喫できるのだ。ギレリスは、現役当時鋼鉄のタッチを持ったピアニスト”として、つとに有名であった。ここでもそのことが十分に味わえる。何か一本の糸がぴんと張ったような緊張感に加え、限りない静寂さが全体を覆う。しかし、その静寂さも、突如として劇的な高揚感に激変する。その二つの局面の演奏の妙にリスナーは、完全にギレリスの弾くベートーヴェンの世界へと引きずり込まれていく。そしてそんな演奏を一層現実味のあるものにしているのがこのCDの録音の質の高さである。実際に、ピアノの直ぐ傍らで聴いている気分に浸らせてくれるのだから、嬉しいかぎりだ。
ピアノソナタ第17番は1802年に作曲された。ベートーヴェン32歳のときだから、作曲家として油の乗り切った時期の作品。交響曲第5番「運命」が作曲される前のことである。弟子のシントラーがベートーヴェンにどう解釈したらいいのか尋ねたところ、ベートーヴェン曰く「シェイクスピアの戯曲『テンペスト(嵐)』を読みたまえ」と言ったということから、「テンペスト」のニックネームが付けられている。シェイクスピアの「テンペスト」は、主人公が、実の弟と仇敵ナポリ王とが手を組んだ謀略に巻き込まれ、ミラノ公の地位とともに祖国を追われる。命からがらある島に辿り着き、その後島の近くまで来たナポリ王と弟のミラノ公の船に対して魔法の力で嵐を起こして懲らしめる、といった筋書きを持った戯曲である。なるほど、ベートーヴェンの「テンペスト」を聴くと、そんな物語を彷彿とさせられる。聴き終わったあと何か勇気付けられるのは、「最後まで希望を捨てずにいれば、そのうちチャンスが到来するよ」とでもベートーヴェンが言っているからかもしれない。ギレリスは、そんなピアノソナタを実にドラマティックに弾き進む。私は、この曲の第3楽章の出だしが、ピアニストのレべルを占うのに最適だと常日頃考えているが、ここでギレリスは最高の技量を見せてくれている。
ピアノソナタ第21番は、ベートーヴェンの有力な後援者のワルトシュタイン伯爵に献呈されたので「ワルトシュタイン」のニックネームで知られている。大変な力作で聴いていても手に力が自然に入ってしまうほどである。最初は2楽章からなっていたようであるが、最終的には聴きやすさを考慮して現在の3楽章に落ち着いたのだという。第1楽章の緊張感を持った早いパッセージを聴くと思わずこれがベートーヴェンだ”と叫びたくなる。人間としてかくも緊張感を持続できるものだと、改めてベートーヴェンの超人ぶりを思い知らされる。この曲はなるべく若い時期に聴いたほうがいい。それはこれからの人生でどんな困難に出くわしても、「ワルトシュタイン」を聴くと、不思議に何となく突破できる気分になれるからなのだ。第3楽章の幸福感に満ちた佇まいもまた、新たなエネルギーの源泉になれるようだ。正にベートーヴェンは不滅なのだとの思いを深くする。ギレリスのピアノは、そんなピアノソナタの劇的な内容を的確に捉え、リスナーに伝えてくれる。一歩も引かず、ただ前進あるのみ、そんなギレリスの演奏に私は限りない魅力を感じる。最後のピアノソナタ第26番「告別」は、ベートーヴェンの後援者の一人、ルドルフ大公との「告別」「不在」「再開」をベースとしている。この背景には、当時のウィーンがフランス軍の攻撃を受けるという政治情勢があることを忘れれてはなるまい。これ以後、ベートーヴェンは徐々に政治との関わりを深めていく(ベートーヴェンと政治の関わりについては古山和男著「秘密諜報員ベートーヴェン」<新潮新書>が詳しい)。(蔵 志津久)