初心者のクラシック

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カミ―ユ・サン=サーンス(第5話)

2007年11月20日 | 作曲家の生涯
たまには、作曲家の生涯にふれてみてはいかがですか?

有名な作曲家にはその真偽はともかくとして、たくさんの興味深いエピソードがあります。
そんな興味深いエピソードを中心に作曲家の生涯をたどっていきます。

今日はシャルル・カミ―ユ・サン=サーンス(第5話)です。

≪作曲家ゆかりの曲≫
死の舞踏~マルティノン/フランス音楽名演集
マルティノン(ジャン),イベール,サン=サーンス,ビゼー,マスネ,パリ音楽院管弦楽団,イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団
ユニバーサル ミュージック クラシック

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【Charles Camille Saint-Saens】

戦禍を潜り抜けたかのように見えたサンサーンスでしたが、パリコミューンによってロンドンに難を避けます。そして今日はその続きから。

(第5話)【国民音楽協会】
1871年3月にパリ・コミューンによってフランスが混乱状態になった事を受けて、ロンドンに逃れたサンサーンスでしたが、5月頃に国内情勢が落ち着いたのを見計らってすぐにパリへと舞い戻ります。

2月に立ち上げた「フランス国民音楽協会」の活動を始めるべく、準備を整えていきます。
11月にはようやく最初の演奏会に漕ぎつけると自作をはじめ、フランクの作品を演奏していくのでした。

しかし、“音楽協会”と言っても作曲家が何人か集まっただけの集団だったため、特に裕福なスポンサーやパトロンがいた訳でもなかったようなので、経済的には非常に難儀していたようです。

そのため、せっかく作曲した大編成の管弦楽作品も、オーケストラを抱える余裕が無かったため、ピアノ連弾で演奏するなどして、こじんまりとした活動に留まらざるを得ないのでした。

こうして、初期の頃はおぼつかない足取りで始まった「国民音楽協会」でしたが、後にはドビュッシーやデュカス、ラヴェル等々、名だたる作曲家の作品が初演される事になるのでした。

そんな中、歌劇「サムソンとデリラ」が作曲されますが、当時は聖書の物語を引用する事は不謹慎とみなされたため、パリでは演奏さえも拒否される事もあったようです。

更に、1874年には交響詩「死の舞踏」を作曲し翌年にこれを初演しますが、当時としても奇抜な曲調は聴衆に受け入れられることはありませんでした。
また、「死の舞踏」は、サンサーンス以前にリストが既に別の曲を作曲していたこともあって、これと比較されてけなされる事も多かったようです。


パリに戻ったサンサーンスは「国民音楽協会」の活動を本格化させようとしますが、当初サンサーンスの作品はパリ市民に受け入れられる事は無かったようです。
このつづきはまた明日。

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