シネマ見どころ

映画のおもしろさを広くみなさんに知って頂き、少しでも多くの方々に映画館へ足を運んで頂こうという趣旨で立ち上げました。

「灰とダイヤモンド」 (1958年 ポーランド)

2022年06月08日 | 映画の感想・批評
 ドイツ軍が連合国に無条件降伏した1945年5月8日、ポーランドの田舎町で、国内軍の残党であるマチェクは同志のアンジェイ、ドレブノフスキーと共に労働者党書記シチューカの暗殺を企てた。当時のポーランドはドイツ軍撤退後に侵攻したソ連軍に近い労働者党と、それに抵抗するゲリラ兵グループが激しく対立していた。間違って別人を殺してしまい、暗殺計画は失敗に終わるが、マチェクは翌朝までにシチューカを殺害することを上官であり友人でもあるアンジェイに約束する。
 ホテル・モノーポルでは今まさに対独戦の戦勝祝賀会が催されており、マチェクとアンジェイはポーランドの軍歌「モンテカシノの赤いケシ」を聞きながら、ウォッカに火を付け、戦死した同志たちを悼んでいた。暗殺を決行するまでのひととき、マチェクは軽い気持ちでバーのウエイトレス、クリスティ―ナを口説く。意外にもクリスティーナは誘いに応じ、マチェクの部屋で二人は裸で抱き合った。マチェクもクリスティーナも戦争で家族を失い、身寄りがなかった。クリスティーナは愛情を失うことを恐れて刹那的な生き方をしており、マチェクが去っていく人であることを予感し、夢や身の上話を聞こうとしない。思い出も作りたくないと言い、一夜限りの関係を望んだ。
 雨の夜、散歩に出かけた二人は、廃墟となった教会で墓標に書かれた碑文を見つける。クリスティーナが読み始めると、マチェクは続きを暗唱した。それは戦死した兵士を弔うノルヴィトの詩であった。

・・・・/永遠の勝利のあかつきに/灰の底ふかく/
さんぜんたるダイヤモンドの残らんことを

「灰とダイヤモンド」という題名はこの詩に由来する。クリスティーナは問いかける。
「私たちは何?」「君か、君こそダイヤモンドだ」
 マチェクは成り行きまかせに生きてきた人生に疑問を持ち、クリスティーナと生活を立て直したいと思うようになる。「状況を変えられるかもしれない」と語ると、刹那的だったクリスティーナに希望の灯がともった。激しくキスをしてクリスティーナと別れた後、マチェクは上官であるアンジェイに心の内を打ち明ける。人を殺して逃げ回る生活に耐えられなくなった、テロリストの仕事から足を洗いたいと懇願する・・・しかしアンジェイの答えは冷たかった・・・

 本作はアンジェイ・ワイダの「世代」(55)、「地下水道」(57)と並ぶ<抵抗三部作>の最終作にあたり、おそらく最も有名なポーランド映画のひとつであろう。青春映画にして恋愛映画、戦争の悲劇とテロリストの悲しみを描いた傑作である。ノルヴィトの弔詩、逆さキリスト、暗殺時の花火、ゴミ溜めの死・・・多くの印象的なエピソードが全編に散りばめられている。マリア像の前の殺人や廃墟となった教会と逆さキリスト像は、神の救済なき世界を糾弾しているかのようだ。ゴミ溜めの中の壮絶な死は後世の映画に多大な影響を与え、日本のヤクザ映画でも同じようなシーンが繰り返されている。銃撃されてゴミ溜めで悶死するマチェクと、涙を堪えながらポロネーズを踊るクリスティーナのカットバックは運命の苛酷さを表現して余りある。
 この作品の背景となっているのが1944年8月のワルシャワ蜂起で、ナチス・ドイツからの解放を求めて立ち上がった人々をドイツ軍が弾圧し、報復としてワルシャワを徹底的に破壊した。ワルシャワの人口の20%が殺されたと言われていて、破壊のすさまじさはロマン・ポランスキーの「戦場のピアニスト」(2002)に詳しい。蜂起を呼びかけたモスクワは援軍を送らず、国内軍と市民を見殺しにしたために、ドイツ軍撤退後に国内軍はソ連軍を攻撃目標とするようになった。やがて国内軍は解散し、地下組織となってソ連や労働者党に対して武力抵抗を続けていく。作中、登場人物たちがたびたびワルシャワ蜂起に言及しているのを見ると、ポーランド人の心の中に蜂起の傷跡が生々しく記憶されていることがわかる。
 複雑な国内情勢はワイダの<抵抗三部作>にも微妙に反映している。各作品の対立構造を見てみると、「世代」は共産党VSナチス、「地下水道」は国内軍VSナチス、「灰とダイヤモンド」は国内軍VS共産党となっていて、敵対関係が変化しているのがわかる。「灰とダイヤモンド」の対立関係は単純な勧善懲悪ではなく、暗殺される側のドラマも丹念に描かれている。シチューカはスペイン内戦でファシストと戦い、その後はソ連軍に参加してナチスと戦った共産主義者であり、けして単純な悪玉ではない。妻が亡くなった後に、息子が反共ゲリラ組織に加わってしまったことを知って苦悩する父親でもある。マチェクが発砲したとき、シチューカはマチェクに抱きつき彼の腕の中で息絶える。マチェクを同志だと思っているのだ。その時、対独戦の勝利を祝う花火が夜空に打ち上げられるのが象徴的だ。二人は国内軍とソ連軍に所属し、共にナチスと戦った兵士だった。ここにマチェクの苦悩がある。間違えて無実の人間を殺してしまったり、祖国のために戦ってきた男を暗殺したり、自分のしてきたことは何だったのか、自分は何者なのかというアイデンティティの危機が生じている。
 イェジ・アンジェイェフスキの原作ではマチェクはクリスティーナと逃げる約束をしており、シチューカ暗殺後にクリスティーナが待つ駅へ向かう。映画では一緒に逃げようとはせず、別れを告げて一人で旅立とうとする。今回の仕事が最後であることをアンジェイは了承しているし、マチェクはシチューカを殺した後に拳銃を捨てているので、テロリストを辞める決心はついているはずだ。それなのに何故クリスティーナと一緒に逃げようとしなかったのか。ワイダは何を表現したかったのか。
 キーワードとなるのが<大義>という概念である。アンジェイに「大義を信じるのか」と問いかけるシーンがあるが、マチェクは暗殺の正当性に疑問を抱き、<大義>を信じられなくなっているのではないか。もし自分の仕事に名誉と誇りを持ち、殺人を正当化できたら、クリスティーナを連れて逃げたに違いない。 <大義>がなければただの殺人者と同じで、マチェクのアイデンティティは崩壊する。愛する女を犯罪者の道連れにするわけにはいかない・・・
 思うに<大義>とは恐ろしいもので、<大義>があれば人も殺すし、原爆も落とす。<大義>のために切腹する人もいる。ただ<大義>がなければ侵略した国と戦うこともできない。諸刃の剣である。今なお世界では多くの人たちが<大義>のために命を落としている。家族を失い、恋人を失った、何千、何万のマチェクとクリスティーナが生まれているのだ。(KOICHI)

原題:Popiol i diament
監督:アンジェイ・ワイダ
脚本:アンジェイ・ワイダ   
イェジ・アンジェイェフスキ
撮影:イェジ・ヴォイチック
出演:ズビグニエフ・チブルフスキー  
エヴァ・クジジェフスカ