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チョイさんの沖縄日記

辺野古や高江の問題等に関する日々の備忘録
 

高江に作られた「ベトナム村」---沖縄人民党機関紙「人民」から

2011年07月19日 | 沖縄日記 高江(ベトナム村)

(米軍が高江に作った「ベトナム村」。高江の住民らが徴用され、対ゲリラ戦訓練が実施された。(沖縄県公文書館所蔵写真))

 7月13日のブログで、1964年に北部演習場に「ベトナム」村が作られ、高江の住民ら約20人が徴用され、対ゲリラ戦訓練が実施されたという琉球朝日放送の特集について触れた。

 そこでも、当時の沖縄人民党中央機関紙「人民」がこの事実を報道しているということだったので、県立図書館に行って入手してきた。以下、その内容を紹介する。(ここにある「新川」は「高江」の中の一集落)

 

米軍「対ゲリラ戦」訓練で県民を徴用---新川区民を狩り出す(「人民」1964.9.9)

  ---激化する演習で荒らされる山村

 敗北につぐ敗北をかさね、もはや南ベトナムから追い出されるのは時間の問題となっているアメリカ帝国主義は、その侵略拠点となっている沖縄で必死になって戦争拡大の演習を強化しているが、日本国民である県民をかれらの対ゲリラ訓練にかり出すという重大行為に出ている。これはアメリカの19ケ年にあたる占領支配の中でもかってなかったことであり、県民を直接侵略戦争の「協力者」に仕立てるもので、重大な問題であるとして県民各階層の間に激しい怒りの声がわきおこっている。

 米第3海兵師団は、8月26日東村高江-新川の対ゲリラ戦訓練場で、ワトソン高等弁務官、在沖第3海兵師団長コリンズ中将の観戦のもとに、「模擬ゲリラ戦」を展開した。この訓練には乳幼児や5,6歳の幼児をつれた婦人を含む約20人の新川区民が徴用され、対ゲリラ戦における南ベトナム現地民の役目を演じさせられた。作戦は米海兵隊1個中隊が森林や草むらに仕掛けられた針や釘のワナ、落とし穴をぬって「ベトコン」のひそむに攻め入り、掃討するという想定のもとに行われた。

 その日、米軍は新川区からつれてきた人々を、南ベトナム現地民の住む家として作った茅葺き小屋におしこめ、その中に仮想ベトコン2人を潜伏させた。また、彼らは南ベトナムに似た状況を作り出すためにあらかじめから山羊を借りていき、小屋の周囲にこれを放った。「対ゲリラ戦」は50人の海兵隊員が彼らを悩ましている「ベトコン」2人を捉え、筋書どおりの「成功」をおさめて終わった。

 以上が実戦さながらの情況のもとで行われた「対ゲリラ戦」の模様である。さて、それでは問題化している新川区民の訓練への駆り出しはどのようないきさつをだどって行われたのであろうか。

山への立入禁止恐れて「協力」

 ワトソン高等弁務官は作戦終了後、民にたいし、「みなさんのおかげで米軍将兵の命がどれだけ助かるか知れない。ほんとにごくろうだった」と言葉をかけ握手したが、しかし民は誰一人として弁務官の言葉を信じ、心からかれらに協力したものはいない。民は米軍から対ゲリラ訓練への徴用の通知が来たとき、「クッターガイーシェー ゼッタイ チィーシェーナランシガ(こいつらのいうことは絶対に聞いてはならない)」と激しい憤りを燃やし、こぞって反対の声をあげた。しかし米軍も民が簡単には命令を受諾しないことを考慮に入れ、最初からかれらの常とう手段である脅迫の手を使った。

 まず。同区にある米第3海兵師団対ゲリラ訓練場の将校と通訳が浦崎区長のところにきて、「演習をするので民も協力してほしい」といい、民の「対ベトコン戦」への参加を要求した。そしてかれらは「もし君たちが我々の要請に応じたくなければ、それでもよい。我々は隣の安波や魚泊の協力を得るであろう」とつけ加えた。これは浦崎区長にとって、あるいは新川区民にとって非常に含みのある言葉であり、明らかに脅迫であった。つまりこれは「協力したくなければしなくてもよい。しかしあとはどうなるかわからんぞ」といって民に短刀をつきつける行為に等しいのである。

 というのは、新川区民は米軍に山を奪われ、生活が破壊されつつあるだけでなく、たえず「山林への全面的立入禁止」という脅威にさらされてきたからである。生活の90%まで山に頼っている同区にとって、「山へ入るな」ということは死を意味する。しかも山林はほとんど国・県有地で、これを米第3海兵師団が対ゲリラ訓練場として接収しているのである。すでに彼らは山林の大部分を立入禁止区域にしているが、これが全面的な立入禁止になると、新川をはじめ山林に頼って生活している東村の人々は完全に生活が破壊されることになる。

 米軍は区民のこのような立場をたくみに利用、少しでも民が生活と権利を守るため、たたかいに立ち上がるとすぐ「山をオフリミッツにするぞ」と脅してきた。したがって、対ゲリラ訓練への「協力」を強要してきた米海兵隊将校の捨てゼリフは、浦崎区長にとってはきわめて敵意にみちた言葉であったといえよう。すなわちこれは「米軍に協力しなければ全面的にオフリミッツにするぞ」との脅迫ととれたのである。

 こうした事情のもとに浦崎区長が米軍の命令を伝達してまわると区民は一様に「応ずべきではない」との意志を表明したが、区長によって右に述べたような米軍の脅迫が説明されると、強硬に反対することもできず、いやいやながらかり出されていったのである。

戦場さながらの落とし穴

 こんどのように民をゲリラあるいは現地住民にしたてて公然と訓練を行ったのは初めてであるが、今年に入って海軍省や第3海兵隊の高官が来島した際、同じ手口で同じ規模の対ゲリラ戦訓練に民が2回にわたって参加させらている。米軍は「過去の成績が良かったから、弁務官に視察してもらうのだ」と臆面もなく語っている。

 ところで、米軍は東村高江を中心とする北部山岳地帯でどのようなことを行っているのであろうか。

 ここはたんなる対ゲリラ訓練場ではなく、実際の戦場と少しも変わらない実情だ。かれらのいわゆる訓練といい、住民の生命財産に対する危害といい、戦場での敵に対する行為とまったく同じである。

 かれらが訓練場として主に使用しているところは新川の北側にある伊湯岳一帯で、そのふもとにキャンプを設営、「第3海兵師団ゲリラ ウォーフェア スクール(対ゲリラ訓練場)」との看板をかかげてある。そこにはまた、ヘリコプター用飛行場が2ケ所に設けられている。

 兵隊の数は300~400名といわれているが、これは常時それだけというのではなく、マリン兵が交代で一定期間づつ訓練をおこなっている。だから、南ベトナム、ラオスその他の東南アジア諸国へ民族解放闘争鎮圧のため出動していくマリン兵は、一応ここで対ゲリラ訓練を受けてから出動していることは間違いない。

 かれらは対ゲリラ兵術を身につけようとしているのであるから、それに必要な訓練はすべて行っている。山林にはワナを仕掛け、落とし穴を無数に掘ってある。

 ワナは他人に気づかれないように仕掛けてあり、落とし穴には竹や木片で作った鋭利なとげを無数につき立、穴口を落ち葉などでおおってある。かれらは訓練場としてかこってあるところだけで訓練を行うわけではなく高江の民家を含めてこの一帯はすっぽり「対ゲリラ戦場」につつまれた格好にあるので、ワナや落とし穴は、「立入禁止地区」とそうでないところ別なくしかけられている。約2ケ月ほど前、宮城区の1婦人が山に薪取りにいってこの落とし穴に落ち、尻や足に棘がささり、重傷を負った。また、ほとんど新川区と境界を同じくしている村有林の中にもワナや落とし穴を仕掛けてあるのでここでワナにかかり、あるいは落とし穴に落ち重傷を負った区民は多い。

 このたびごとに民の中から限りない怒りが燃え上がっているが、米軍は一向にあらためようとしない。むしろ激しくなっているのである。かれらは県民をモルモットに使って対ゲリラ兵術を生みだそうとしているのだ。

「ねえさん出せ」と放火

 新川区民をはじめ山に依存して生計を立てている東村の人々は、山林の中に雨露をしのぐための小屋をつくっている。「対ゲリラ訓練場」の司令官(少佐)は自らヘリコプターを操縦、小屋をめがけて焼夷弾を投下し焼き払った。これは南ベトナムにおけるナパーム弾、焼夷弾投下を地でいく訓練である。焼夷弾はさいわい、民が入っていた小屋に命中せず、側にそれたので、中にいた人々は九死に一生を得たと話している。

 山の中には夜となく昼となく、米兵が潜伏しているため、婦人たちは一人ではもちろん、少人数で山に出かけることはできない。婦人たちは必ず、7、8名、10名ずつ組を組んで薪とりに行く。昨年9月頃、10名組の婦人たちが山に着いたとたん、偵察飛行中の米機がこれを発見し、まもなく訓練場から米兵たちがやってきて逮捕した。米軍では「訓練場に拾い物をしに入ったから捕えるのだ」といっていたが、これは明らかに口実であった。いうまでもなく彼女たちが捕えられたところは米軍のいう立入禁止区域ではなく、普通の国有林だった。このように米軍は高江の住民を本当のゲリラとみなして、これを対象に対ゲリラ戦訓練を行っているのである。

 それだけではない。彼らは婦女子を恥ずかしめようとしたり、区民の家を焼き払ったり、農作物を盗んで食べるなど幾多の悪事を働いている。さらに6月の下旬、高江-小浜の上に火事がおこり、江洲義仁さん所有の三間四方の空家が全焼した。

 この日午後8時頃江洲さんの家屋に隣り合わせの石原昌亀さん(62)のところに米兵3人があらわれ、「ねえさんを出せ」とせまった。石原さんが「ねえさんはいない」と答えると、「ノー、ねえさんある。ウソ!」といって、家の後ろにまわり、火を放ったのである。かれらは放火しても逃げはせず、近くの空家の床下に隠れていた。

 小浜の上のには戦後、約9軒の家があったが、交通の不便、物騒であることなどの事情により、次々と引き上げ、事件のあった頃には石原さんと高里盛保さん(32)の家がわずかに2軒残っていただけだった。米兵は高里さんの妻カズ子さんを狙って襲ってきたのである。さいわい、30分後には新川区民が救援にかけつけたため、類焼を防ぎ、その他の被害も食い止めたわけである。

 この事件でこのにはこれ以上住めないというので石原さん夫婦はコザ方面に出稼ぎに出ている子どものところへ、高里さんは新川にいる親戚の家に間借りし、それぞれ引き上げていった。いまや小浜の上は人間が一人もいないとなり、かっては民が住んでいた家がそのまま残されその荒廃した姿がアメリカ帝国主義に踏みにじられた沖縄の姿を象徴しているかのようである。

自衛手段とる区民

 米軍はまた、パインを盗んで食べたり、狭い道路から車を猛スピードで運行、村の電柱をへし折ったり、県民の車に衝突し、大きな被害を与えるなど、全く戦場と同じ行為をやっている。もちろん、県民に与えた損害に対しほとんど賠償を行っていない。ではこのように言語に絶する蛮行を働いている米軍にたいし新川区民はどう抵抗し、たたかっているのであろうか。

 今から約10年前、米第3海兵師団対ゲリラ訓練部隊がきた直後のことである。ある日の晩11時頃、米兵が新川区のある婦人をはずかしめようとした。これに怒った区民は子どもから年寄にいたるまで全員部隊に押し掛けた。区民は婦人をはずかしめようとした犯人の米兵を引き出すよう要求し隊長にたいし謝罪と今後このようなことをしないという保証を求めたが、部隊長は当初区民の要求を一切拒否してとりあわなかった。そこで県民は部隊の前に薪を運び、これをともし、「もし米軍が犯人の米兵を捕え、このようなことは再びやらないという約束をしなければ、われわれは薪をたき、いつまでもがんばる」と宣言、そのとおり実行した。

 ついに一昼夜が過ぎ、翌午前11時頃、部隊長が区民の前にあらわれ、「全将兵を整列させ、首実験をすれば誰が犯人であるか、君たちは指摘できるか」と聞いた。区民はいささかのためらいもせず全隊員を整列させるよう要求した。 米兵は整列した。いよいよ首実験だ。何百人という米兵の中から区民は3人の米兵を見つけだし、部隊長につきつけた。米兵は全区民の前で犯行を認めたのであれほど強気だった部隊長も認めないわけにはいかなかった。

 結局、部隊長は「今後自分の部下にこのようなことはさせない」と約束させられたたかいは区民の完全な勝利となった。だが米軍は犯人の米兵を罰せず、事件がすんで間もなくすると、彼は再び部隊に姿をあらわしていた。

 新川区民はたたかいのなかから自分たちの生命と権利を守る手段を学んだ。すなわち、米兵の悪あがきに反対して団結することを---。それ以来、新川区では米兵が区民に危害を加える場合青年会長の非常招集でまず青年会員が集合、さらに全区民を動員して対処するという自衛手段をとっている。いま、15人の青年会員は何時でも非常事態に応じられるように、その態勢を固めている。

 しかしこのように勇敢なたたかいの経験をもつ新川区民の自衛手段にも限度がありいまこそ全県民がベトナム侵略反対闘争の一環として対ゲリラ訓練に抗議するたたかいをくまなければならないときである。

 

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