つれづれ日記

チェリスト秋津のつれづれな日記です。

二つの道

2011年02月25日 09時00分00秒 | いい話
先週の日曜のレッスンの時に弟子の小学生に話したこと。

何気に弾いてしまった音階を見て、ひと言お話をした。

ちょっと専門的になるのだが、僕の師匠の斎藤先生は、どういう教え方をされていたかということにもつながる話である。

ある結果を見るとき、それはなるべくしてなった結果なのか、それとも、偶然的に(まぐれ)あるいは事故でなったことかを見る先生だった。(これは、成功例でも失敗例でも適用できる)

解りやすい例で言うと、身体の機能で、「まばたき」と「呼吸」は自分でも意識的に止めたり早くしたり出来るけど、放っておいても勝手にやっているわけ。

チェロを弾いている時、音と身体をある意味リンクさせないとダメなわけですが、例えばある箇所を何度も何度も繰り返し弾けば、そのうち慣れてきて、出来るようになるものですが、この「慣れ」ということは必要なことだけども、一流にするためには、その出来たことを(出来るようになった過程)どこを使ってどういう風にやっているから、今このように出来ている。と自分にも他人にも説明がつくことが大事だと。

ちなみに、この弟子が弾いた音階は一見何も問題がなかったが、僕に言わせると肘の準備が不十分だった。
「音階のポジションチェンジの時には、意識しないといけない場所があるだろう?」と問いかけ、本人がうなずいてから、もう一度弾かせたら、結果はかえって悪かったのだ。これを、どう考えるのが妥当なのでしょうか?
僕が余計なことを言ったために結果が悪かったのだから、これは意識しないほうがいいのか?
いや、そうではないと思います。この弟子は、要するに行為はしたものの、加減がコントロール出来てないわけで、その分量をコントロールする練習(何度も同じ結果が出るように)をまだまだやらないと、本物ではないということです。
いやあ、僕もその昔こういうことを何度もやったのでしょうが、子供にしたら、どうして出来ることを何回も何回もやらなくてはいけないのか理解できないし、また精神的苦痛を感じるところだと思います。

僕は、どちらの回路(意識・無意識)を使っても、結果に違いが出ないところまで突き詰めることが、本物になれるかどうか?という話になるのではないかと、思うのです。
そうして、いろいろ考えて出来たことが、いつの間にか考えなくてもやっている(出来ている)状態を自分自身で感じることが出来れば、ようやく会得したと言っていいのでは?と思うのです。

 
長文で失礼しました。

ではでは