つれづれ日記

チェリスト秋津のつれづれな日記です。

今こそ自分にできることを

2020年04月15日 04時23分29秒 | 報告
みなさま

昨今の新型コロナウイルスの事では、 3月頃ではまだよその所の出来事という気持ちでいましたが、今や広島県下でもクラスターが出来てしまい、本当に他人事ではなくなり、にわかに落ち着きのない緊迫した日常に様変わりしてしまいました。

まず、当願船坊の対応について、みなさまにお知らせいたします。

当面の間、以下のお寺の行事を自粛いたします。

中止する行事

毎週水曜日開催 朝活・朝コン
毎月一回開催 日曜学校
5月10日(日)開催予定 「お庭コンサート」


ところで先日テレビの番組で現在のインドの様子を伝えていました。町並みの向こうにヒマラヤ山脈が見えていました。インドも最近は大気汚染が進んでいて、遠くの景色は見えないのが当たり前になっていたようです。このコロナウィルスのことにより、社会の日常が激変したためでしょう。でもこのことが私たちに何かを教えてくれているんじゃないでしょうか。

今世界中がこのコロナウィルスによりこれまで築き上げてきた文明生活と言うものが、根底から考え直す時期になっているのかもしれませんね。

そういえば仏教の捉え方の中に「今ここにある当たり前と思っているものは、本当は何一つ当たり前と言うものはない」
と言う教えがあります。

また、ある仏教書に書いてあるのですが、

ひとの生を うくるはかたく
やがて死すべきものの
いま生命あるはありがたし
正法を 耳にするはかたく
諸仏の 世に出づるも
ありがたし 『法句経』182番

2500年前、釈尊が発見された天地の真理は、「縁起」の一言で表現されてます。例えば時計の部品の1つが故障したら、時計全部が止まる。つまり1つの部品を動かす背景に、時計を構成している部品のすべての働きがあるように、私1人を生かし、木一本を育てる背景に全地球、全宇宙の働きがある。その命の尊さに目覚めよ、と言うのが縁起の教えです。
天地総力の働きをいただいていると言う点では、人間も動物も1本の木も皆同じであり、命の尊さにおいては全く平等と仏教では説く。
ただし授かりの働きが違う。天地いっぱいの働きを一身にいただいて、今私はこうして呼吸ができ、考え、筆を運ぶと言うことができると言うことを、自覚する働きをいただいているのは人間だけだと言う。
自覚する働きをいただいた人間として、命を授かることができた喜び、それが『法華経』の「人の生をうくるはかたく」の一句なのです。
しかし、そんな素晴らしい人間の命をいただいて生まれてきても、その尊さを説いてくださる教えに出会えなければ気づくことができない。幸い命の尊さを解く人と教えに出会うことができた。それが次に、

正法を耳にするはかたく
諸仏の世に出づるも ありがたし

の一句でしょう。
しかし、どんなにすばらしい人がこの世にお出ましくださり、 すばらしい教えを説いてくださっても、聞く側にアンテナが立っていなければ、人にも教えにも出会うことはできません。

「私が苦しみから救われる」のではなく、「苦しみが私を救う」のです。

これはローマ法王の側近としてバチカンで活躍しておられた尻枝正行神父の言葉だそうです。
苦しみから逃れて救われるのではなく、苦しみに導かれてアンテナが立ち、人や教えに出会うことで救われる。苦しみはアンテナを立てよと言う仏様からの慈悲のプレゼントといただくのである。

さて、苦しみの最たるものは「死」といえよう。
葬儀の1つの大きな意味は、死者が全身心をあげて残った者たちに語りかける遺言の一言を聞くところにあるのではないか。
最期の遺言とは何か。

「死ぬんだよ。あなた方も。必ずこの日が来る。しかも予告なし、待ったなしに。いつ死んでも良いような今日ただいまの生き方をしなさい」

とかく人々は死を忘れる。人は死を嫌い死から眼をそらそうとする。葬式は嫌でも死を目の前に突きつけられる時、死を見据えることにより、本気で生命とは何か、生きるとはどういうことかを考えることができるのです。

「問う、死の宣告は仏の慈悲か」
「答えて曰く、人は皆、死の宣告を受けているものです。ただつまらないことに心を奪われて、その声が聞こえないだけです」と。

「法句経」の「死すべきものの、いま生命あるはありがたし」の心をいただくのであります。

今は音楽家としてより、一僧侶としてのお話でした。

なまんだぶ

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