つれづれ日記

チェリスト秋津のつれづれな日記です。

妙に揃ってます

2009年02月25日 17時01分35秒 | Weblog
夜中の廊下



日課の添い寝をして、夜中に廊下に出たときの事。
簡単に見過ごすことが出来ない光景が目に入ってきた。
考えて配置したのかな?と思うくらい、何ともきちんと揃ったものだなあ?
思わず、パシャ! パシャ! と寝静まっている廊下でシャッターを切った。
しばらくすると、案の定、寝室から不機嫌な顔がぬーっと出てきた。
ヤバッ! 「何やってんの!」
多分、翌日取った写真を見るまで、夢は「不愉快!」だったに違いない。

長老

2009年02月18日 15時04分42秒 | Weblog
こいつは、今回最長寿になる。

いつも、風呂に入って身体を洗っているとき、存在に気付く。
こいつが、仮に他の仲間と同じ位の長さなら、いてもいなくても、たいして気になることもなかろうが、こう目立ったら、まだ今日も安泰ですね!と、労りの気持ちが芽生えてしまっている。
もし、ある日突然いなくなられたら、かなり、ショックかもしれない。〓
良い、悪いは別にして、目立つことは、少なくとも気にかけてもらえるということだろう。

人生の世渡り術を、こいつから教わっている気がする。

バレンタインケーキ

2009年02月17日 01時21分44秒 | Weblog
嬉しいことがあった。
嫁さんがバレンタインにケーキを焼いてくれた。



初ガトーショコラなるものがお目見えした。
うーん、なかなかいける良いお味でした!
初めてにしては、上手なんじゃあ?
あ、すいません。勝手にしろ!って言われそうですね。
ちなみに後ろのちっちゃいのが、我が愛娘であります。

おやすみなさい

無常を感じる

2009年02月12日 23時55分40秒 | Weblog
今日は、ちょっと沈んでいる。
何故かというと、何度か僕のお寺に講師としてお招きした布教師の先生が亡くなられた。これを、うちの宗派ではお浄土に還られたという。
先生には昨年の10月にお会いして、まだそんなにご高齢でもないし、まさかお別れがこんなに早く来るとは露ほども思わなかった。
僕がリサイタルをすることをお話したら、博多の公演の日にちょうど用事があるので、都合がつけば伺いたい、とまでおっしゃって下さっていたが、結局叶わぬこととなった。
後日、達筆のお手紙を頂いたものが、先生の形見のようになってしまった。

南無阿弥陀仏


コンサートの感想

2009年02月11日 02時35分24秒 | Weblog
昨日、少し気になるコンサートがあったので意を決して行ってみた。
「ワルシャワからの新しい風」というものだった。
音楽監督に細川俊夫さんがなられていて、コントラバス弾きでもあり作曲者でもあるタデウス・ヴィレツキというかたを招いて、二人の作曲者の生の声と解説やコメントを聞きながら演奏を聴く、というスタイルでのコンサートだった。
他にイヴォナ・ミロニューク、next mushroom promotionという現代音楽アンサンブルのグループが演奏をした。
最初に細川さんのお話があった。感じとして、広島は気候が温暖で良いところだが、芸術という点では、冬のこの時期最低な気候であるドイツのほうがとても充実した内容があり、案外住みにくいところのほうが芸術は発展するのでは? と言われてたように思った。また、日本は現代音楽(この単語も、ほかのクラシック音楽の分野と少し差別されているようでお好きでないようで、今生きている我々が何かを感じ、その思いを音楽にし、それを演奏するという意味で、現代の人たちは、この分野をもっと大事にしてもいいのではないか、とも言われていた)の分野では、外国に遅れている!とも言われていた。

さて、その長いお話の後は、タデウス・ヴィレツキさんのお話を聞いた。
お人柄はシャイで普通の外人さんという感じだったが、イヴォナ・ミロニュークさんや、next mushroom promotionのメンバーのそれぞれの演奏を聴いた感想は、うーん! 面白いか?というと、なんといっていいかよく分からない。解説では自然と対話する。自己の内面と向き合う。とか言われていたので、彼の中で感じているそれぞれの要素を、音を介して垣間見ることになったのだが・・・。
まあ、例えが悪いかも知れないけど、僕はこのように思います。
食べ物で言うと、全くの未開の地で初めてのものを食べて、「これ、旨いか?」って聞かれて、即座に正しい見解が出来るか?といわれたら、NOでしょう。 でも、ホントは何回か聴いてみてから、その作品あるいはその作曲者への評価を出すべきだとは思います。 でも、残念ながら僕は美味しいと感じれなかった。
が、しかし、何度か聴きたいか? という問いに対して、僕の中である記憶が蘇っていた。

その記憶は、まだまだ子供の頃お袋から「本を読みなさい。芸術を志すものが文学が解らないで、どうして素晴らしい音楽が出来るのですか?」といわれ、好きでもないのに半ば強制的に有名な文学小説を買ってきて読んだ。しかし、読み始めて何ページも読まないのに、目は字を追っかけているが、頭に何も残ってなく、どうやら他の考え事をしているような有様。 そこを飛ばして先に進めばいいのに、中途で挫折。 また、気を取り直してほかの有名な人の作品を読むが、またもや同じ結果に。 こんなことを繰り返しているうちに、とうとう本当に嫌いになってしまった。という経緯があったことを思い出す。


誰か、僕のこの分野の音楽の聴き方にどこか間違いがあるようなら、教えて下さいます?


ためになる話(その1)

2009年02月05日 02時59分30秒 | Weblog
以前、NHKの「プロフェショナル」でのお話で、とてもいい話があったので、お話ししたいと思います。

そのお話は、海難救助隊の隊長さんのお話でした。

「気持ちだけでは救えない。でも、気持ちがないと救えない」

この話は、私たち演奏家にも、そっくり当てはまる話です。

「気持ちだけでは伝わらない。でも、気持ちがないと伝わらない」

とでもいいましょうか? 要するに、この音楽が好きだ。こういう感じで演奏したい!  とかいったところで、楽器を弾く技術をマスターしないとどうにもならないのは明らかですよね。  しかも、楽器の演奏技術をマスターすることと別に、楽譜の読み方や時代による演奏スタイルを勉強する必要があるために、ひと通り勉強したら理屈っぽくなりがちです。そこに、本来あるべき感性の世界や、人間の感情を読み取ることが置き去りになりがちです。
要するに、言っていることは解ったけど結局どう思っているの? ということになっているのです。
例えば、「今日は本当に楽しかった!」という文章をただ正しく発音しただけでは、何も感情が伝わらないのと同じで、そこにどういう風に楽しかったか? という感情を、声の大きさや、言葉のスピードやトーンを変えて話すと、いろんな伝わり方をするのと同じでしょう。

音符に命を与え、そこに感性や感情を乗せ、巧みに楽器をあやつり、演奏することが出来た時、初めて聴いている人の心を揺さぶることになるのです。

あーあ、でも、もしかしてプロと言われている人たちの中には、ホントによくそこまで気のない淡々とした演奏が出来るなあ? この人、音楽がホントに好きなのかなあ? と首をかしげてしまうようなこともよくあります。
それだったら、アマチュアの方々のほうが、まず先に本当に音楽を好きで愛している事が解るだけに、教えていても楽しいし、広い意味で世の中が平和になるかも知れませんね。 

どっちが幸せなのかな? て考えた時、自分がちょっと心配になってきたりして・・・?

では、また。





ハーモニー (その2)

2009年02月03日 18時21分41秒 | Weblog
ハーモニーについて(その2)

前回は左脳、右脳の話で終わったと思います。

それで、日本人というか東洋人は音楽の感じ方が、どちらかというとメロディー(しかも歌詞付き)らしく、西洋人はハーモニーで感じるようです。
ここで、DNAの話で面白い話を思い出したんですが、人間が赤い色を見たら温かいと感じるのは、教えなくてももう既にDNAに情報として組み込まれているらしいのです。何代でその情報がDNAに組み込まれるのか記憶が定かではないですが、確か六代くらい続けるとそのようなことが起きる、と誰かが言われていたというのを思い出しました。 ということは、西洋人が特に音楽の教育を受けてなくても、代々教会に行きオルガンの音や賛美歌を聴いたりする習慣の中に、既にDNAの情報として組み込まれているとしか思えない。
だから、音楽の感じ方がハーモニーをベースにしたものであり、特に古典の音楽の解釈においては、どうしても我々日本人と、彼ら西洋人の演奏が根本的に何かが違うことを感じるわけです。 斎藤先生は教育でどこまで教えることが出来るか、常に試行錯誤しながら教えておられたのだと思いますが、ハーモニーについての指南は、意外とされていなかったように思います。
理由は、先生の輩出された沢山の著名な演奏家の演奏を聴いたとき、音楽がまるで音符が言葉のように意味(機能)を持って語っているように聴こえるのです。そのこと自体は西洋音楽を語る上で、とても大事なことであるのは周知のことです。
斎藤先生も厳格な演奏を出来るようになるためのトレーニングを研究され、よくアゴーギグ <Agogik(独)演奏法のこと。演奏のときに厳格なテンポ、リズムに微妙な変化をつけて精彩ゆたかにする方法。>という単語をレッスンのなかで使われていたという話を思い出します。

あ、ついでに言うと、僕は日本人であるのにメロディーで感じるより、ハーモニーで感じる派なんです。
どうしてかは、僕の幼少の頃の刷り込みといっても過言でないお話をひとつ。

僕の親父はレコードの自動プレイヤーというのを持っていたらしく、それにタイマーを連動させて、決まった時間に決まった音楽を常に聴かせていたようで、その音楽もベートーヴェンの弦楽四重奏やシューマンのピアノ五重奏などだったようだ。そのせいか、僕が後にベートーヴェンの四重奏の音を聴いたとき、身体のどこか潜在意識の中なのかなあ、どこかでいつか聴いたことのサウンドだなあ! と懐かしく思えたことを思い出します。

では、今日はこの辺で。

ハーモニー (その1)

2009年02月01日 00時13分34秒 | Weblog
久々に、音楽のお話。

僕は、割と幼少の頃から音に対する感覚がちょっと周りにいないタイプだったようだ。 どういう感じかというと、和音をドミソ、シレソと聴くのでなく、緑色、黄色、という感じで、その和音を色とか物に変換して聴いていたらしい。ついでに補足すると、絶対音感はすでに身についていた上での話です。

絶対音感という能力は、音を聴いて正しくドレミと当てることが出来る能力のことですが、どうも最近、音楽専攻の学生たちを指導していて思うことが多い。
音符の聴き方がこの段階(いわゆるソルフェージュ)で終わってしまっているために、和音の変化を感情の変化に置き換えたり、いくつかの音の並びを和音と聴いたり、言ってみれば音を言葉に置き換えたりすることが、とても難しいらしい。だから、バッハの無伴奏をアナリーゼ(解析)してきて! というと、和音を見つけたり、ラインを見つけたり、というところまでならやってくる。
でも、じゃあピアノで弾いてみて! というと、いわゆるソルフェージュのレベルで終わってしまう。 そこに、感情を乗せる(感じる)ところまではなかなかいかない。 
よく聞く話で、日本人は言葉を左脳で聴き、西洋人は右脳で聴く、という話だが、どうも日本人は音楽も左脳で聴いていて、いわゆる音を分析してしまっているために、音と感情が離れているのではないだろうか。これは、もしかすると、かつて教育を受けた時に大事なことを教わっていないのかも知れない。 

いやあ、話が込み入ってきたので、続きはまた今度!