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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

山田抄太郎

2012-02-15 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
山田抄太郎


東京芸術大学、初代邦楽科教授山田抄太郎は
昭和30年(1955)に、
57歳で第一次重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。

そして昭和32年(1957)に、
芸大の前身である東京音楽学校の卒業生を中心とした
長唄演奏グループ「東音会」を結成し、会長を歴任。

芸名のある人でも、本名での参加を基本としたのは、
流派を超越した組織をめざしたからだろう。

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photo by 和尚

平井澄子

2012-02-13 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
平井澄子


能楽科が外された事を一番に憂えたのは、
邦楽科設置実行委員で渉外、宣伝班だった平井澄子。

平井は日本画家の父と、箏曲家の母の間に生まれ、
幼いときから箏・三絃に親しみ、15歳から宮城道雄についた。

30歳で東京音楽学校邦楽研究科に入り、宝生流の能楽を学んだ。
昭和21年(1946)に卒業、翌年宝生流で初の女性能楽師となった。

そして昭和23年(1948)に邦楽科設置運動が始まった時から、
卒業生として参加し、このたびの勝利を得たのだ。

だのに何ということ、能楽科が外されてしまった。
なぜだ!

平井は学長や音楽学部長との交渉を開始。
時間をかけて、ゆっくりと諦めずに、37歳の平井は能楽の将来を訴えた。

やがて平井の真摯な情熱と知性は両者の心をほぐし、
箏曲・長唄に遅れること2年、昭和26年(1951)に能楽科が設置されたのだ。

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photo by 和尚


芸大邦楽科スタート

2012-02-12 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
芸大邦楽科スタート


結局、邦楽科は能楽を除いた箏曲と長唄だけでスタートすることになり、
箏曲科の主任教授は山田流の中之島欣一、長唄科は稀音家六治に決定した。
六治はこれ以後、本名の山田抄太郎で通す。

なぜ能楽科が外されたかは不明だが、
邦楽科設置実行委員会の委員長だった
宝生九郎(重英)に対する学校当局の何かかもしれない。

しかも実行委員会の代表的存在だった、
生田流箏曲の宮城道雄を、教授にも講師にもせず、
大学から追い出してしまえ、というのだから、
洋楽教授連の反発は半端じゃない。

とにもかくにも泥縄で学生募集が発表されたが、
実際に試験が行われたのは翌春(昭和25・1950年)のことだ。


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photo by 和尚


吉川辞職

2012-02-11 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
吉川辞職

吉川には邦楽科設置運動中に国会に提出した
「芸術大学に於ける邦楽の扱い方」
という素案がある。

今後はそれを詰めて行けばいいだろう。
国立芸術大学に邦楽科を!の信念を貫き通した吉川の胸は踊る。

ところが7月の中旬、音楽学部学部長が吉川を訪ねこう言った。

「困った事に、洋楽の教授たちの君に対する心証がすこぶる悪くてね、
大学の講義は頼まない事にしようと言っているのだよ…」

これはつまりは辞職勧告じゃないか。
これからだというのに、なんということ!
吉川の頭は一瞬真っ白になったという。

しかし、これは小宮校長辞職の仇討ちだ。
とりあえずは蟄居して時節を待つしかないだろう。

翌月、41歳の吉川は辞表を提出し、芸大問題から手をひいた。


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photo by 和尚

邦楽科設立準備委員会

2012-02-10 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
邦楽科設立準備委員会


東京芸術大学に邦楽科が設置されることになったが、
現実的にはなんの準備もできていない。

とりあえず音楽学部は洋楽だけでスタートすることになり、
初代学長には、東京美術学校の校長だった上野直昭が就任。

そして学長のための諮問機関「邦楽科設立準備委員会」が発足した。

邦楽サイドと学校サイドから各3名、計6人による構成で、
吉川は学校サイドの委員に選ばれた。

これから具体的な問題が協議され、学生の募集が始まるのだ。

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photo by 和尚