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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

稀音家幸

2012-02-24 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
稀音家幸


幸はいわゆる女流長唄演奏家の魁たる人物だ。
自らが率いる一門の女流演奏会「稀音会」では絶対君主的な存在で君臨。

父稀音家浄観(2世)の愛弟子、六治(山田抄太郎)との間にもうけた娘が
現在女流長唄の最高峰、稀音家康(きねややす)。

康は平成23年(2011)に稀音家から分派し、貴音流を創設。
貴音康(きおんやす)と改名した。

名跡をめぐっての騒動は名家の常だ。

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tea break
photo by 和尚


梅幸会

2012-02-23 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
梅幸会


平成24年(2012)の現在、実に創設以来1世紀以上、
110年もの歳月を経てなお研精会は健在だ。

ただし、小三郎も六三郎もすでに孫の代ではあるが。

研精会は見事に歌舞伎からの独立をはたし、
長唄を演奏会音楽として定着させることに成功した。
こうなると女性の長唄人も、演奏家として活躍の場ができてくる。

その初めは稀音家浄観の娘幸(こう)と、小三郎の弟子小梅が
結成した勉強会「梅幸会」(昭和21・1946年)。

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tea break・海中百景
photo by 和尚

長唄研精会

2012-02-21 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
長唄研精会


明治35年(1902)に、若き吉住小三郎(4世)と杵屋六四郎(3世)が
創設した「長唄研精会」は戦争を挟んでも継続し、
昭和22年(1947)6月には400回目を迎えた。

六四郎は昭和元年(1926)に杵屋を稀音家と改称し、
昭和14年(1939)に父の隠居名、浄観を継ぎ、
2世稀音家浄観と改名。

研精会発足から実に45年、この年で歳74歳になる。
小三郎は72歳になった。

400回記念の曲は、劇作家久保田万太郎作詞による「みやこ風流」。
三味線の手は浄観が、節は小三郎が付けた、
二人にとって最後の合作曲となる。

この会を最後に二人は研精会を引退し、それぞれの息子に席を譲る。


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tea break・海中百景
photo by 和尚

その後の吉川英史

2012-02-19 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
その後の吉川英史


邦楽科問題から手をひいた吉川は、
東京での職もなく、
とりあえず家族の疎開している秋田に帰って隠棲。

ほどなく、吉川の師である田辺尚雄から
NHKのラジオで日本音楽の解説をしないか、という誘いがきた。

そして、吉川は昭和24年(1949)10月から
「三味線音楽について」という放送を開始した。

翌年も「邦楽の発達と変遷」という番組を与えられ、
NHK の嘱託となった。

この頃はまだまだ邦楽を啓蒙する番組が盛んだったのだ。

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tea break・海中百景
photo by 和尚


菊岡裕晃

2012-02-16 | 長唄を作った人たち (c) y.saionji
菊岡裕晃


山田が定年退官し名誉教授となったのが、昭和41年(1966)。
後任は山田の愛弟子で、当時助手の菊岡裕晃。

芸大邦楽科が始まったのは昭和24年(1949)で、私が1歳の時。
そして私が芸大に入学したのが昭和42年(1967)の春だから、
私は19年目の入学生ということになる。

当時は認識不足で、芸大邦楽科は
はるか昔からあったのだと思っていたが、
まだ二人目の教授の時だったのだ。

在学中、日本音楽史を吉川英史先生に、
三味線を田島佳子・菊岡裕晃先生に習った。

箏曲の中之島欣一先生もお見かけした。

いずれの先生も邦楽科設置運動で奔走された方で、
今は全員物故された。

長唄にたずさわる者として、
歴史の流れを感せずにはいられない。


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tea break
photo by  和尚