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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

ラジオの時代

2012-10-25 | 薄まる文化

薄まる文化-7


3世は父親からだけではなく、
9歳年上の姉(綾子)からも習った。
3世の芸風が繊細なのはその影響があるのかもしれない。

同時代の三味線弾き、山田抄太郎・稀音家浄観(2世)・杵屋勝太郎・杵屋勘五郎(6世)
などとは芸風が異なるように思う。

マイクを使わない歌舞伎の長唄は、ダイナミックな方が効果的だ。
細かい表現はしても通じないし、意味がない。

ところがマイクを通して録音するようになると、
繊細で微妙な表現も可能になる。

3世はかなりラジオということを意識したのではないか。
それこそが時代の流れなのだろうが、
3世の芸を「重箱の角をほじくるように女々しい」と酷評する人もいたと聞く。

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tea break・海中百景
photo by 和尚

「うぐいす」

2012-10-24 | 薄まる文化

薄まる文化ー6


先代の家元(3世今藤長十郎)は、27歳の時(昭和16年)
箏とコーラス、三味線による新作「うぐいす」で作曲コンクールに入賞。
この曲は、戦時下という時代が信じられないような、穏やかに美しい繊細な曲だ。

3世は部屋に籠り、民話「鶴の恩返し」の鶴の如く、
身を削って感性をしぼり出して曲を作っていたようだ。

作曲が始まると、家族の方は物音一つ立てないように気を使ったという。

3世は子供の頃身体が弱くて、
あまり長生きできないかもしれないと思われていたそうだ。

だから子供の時から、家族よりいいものを食べ、
いいものを着せられて贅沢に育てられたという。

そういう環境が3世の感性を形成したのだろう。
もちろんそれと、父親2世のDNA。


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tea break・海中百景
photo by 和尚

替手

2012-10-19 | 薄まる文化
薄まる文化-5

あいにく私は2世作曲の曲は習っていないが、
綾子先生から教えていただいた替手は、
そのほとんどが2世の作だと伺った。

替手というのは、本手に対する副旋律のようなもので、
即興で弾くことが許される旋律だ。
だから流派によっても、また演奏者によっても異なる。

相対的に今藤流の(厳密にいえば2世の作った)替手は
手(旋律)が複雑でメロディックだ。

本手と互角か、あるいは際立つほどに歌う手が多い。
その分、二重奏になったときには音楽性が増すのだが、
今でもそう感じるのだから、当時としてはさぞ異端の替手だったに違いない。

2世のやりたかった方向性というものが、
替手を通して見えてくるような気がする。


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tea break・海中百景
photo by 和尚

2世今藤長十郎

2012-10-18 | 薄まる文化

薄まる文化-4


2世今藤長十郎が囃子方から、
長唄に転向した理由は定かではないが、
望月太左衛門の名跡を巡っての囃子界の争乱も原因しているかもしれない。

それとも3世杵屋正次郎、2世勝三郎亡き後の三味線界がつまらなくなったのか。

研精会を立ち上げた、
杵屋六四郎(3世)・吉住小三郎(4世)はまだ20代だし、
杵屋六左衛門(12代目)の次男勘五郎(5世)もまだ30歳だ。

しかし、彼らは明治という新しい時代の風を受けて、
「胡蝶」や「春秋」などの新感覚の演奏長唄を作り始めている。

2世も新しい曲を作りたい衝動にかられたのだろうか。

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tea break・海中百景
photo by 和尚

長唄今藤流樹立

2012-10-16 | 薄まる文化

薄まる文化-3


2世長十郎が母上の美佐吉に三味線を習い始めた頃は、
もう江戸が終り、明治という新しい時代が始まった頃です。

2世は父親が今藤佐太郎という囃子方だったので、
始めは囃子が専門でした。

しかし、この頃は囃子方といえども(今でもそうですが)
三味線は弾けなければいけませんから、
おそらく母親から厳しく仕込まれたのでしょう。

39歳まで囃子方だった2世はある時、方向転換を決意します。
父の師匠(2世田中佐十郎。後、改め今藤長才・こんどうちょうさい)の本名、
今藤長十郎を継ぎ2世長十郎として、
長唄今藤流を樹立。三味線弾きに転向するのです。

時明治37年のことです。

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tea break・海中百景
photo by 和尚