goo blog サービス終了のお知らせ 

西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

女浄瑠璃

2014-12-17 | 三田村鳶魚を読む
甚内の読みは的中し、僧や武士、貴顕のやんごとなきお方までもが
芝居見物にかこつけて押しかけ、
遊女町は連日大盛況となった。

京では遊女かぶきや女かぶきの他に、
男児の一座や、男女入りまじりのかぶき踊りなどが出現し、
女浄瑠璃、遊女能なども現れた。

それほどの需要があったのかと思うが、みな目的は芸の後にある。

女浄瑠璃太夫は浄瑠璃を語りながら人形を使うので
芸もさることながら、容姿の良し悪しが大事となる。
事実、女浄瑠璃を率いる超美形の六字南無右衛門(ろくじ・なむえもん)は
豊臣の重臣、浅野幸長に請出されたりしているから、
遊女と同じような扱いだったのだろう。


 〓 〓 〓

 
 photo by 和尚

女かぶき

2014-12-15 | 三田村鳶魚を読む
読みながら、調べながら書いているもので昨日の原稿に不備がありました。
遊女かぶきの禁止には時間差や段階があります。
昨日、寛永6年(1629)と書いたのは最終的に禁止された年代でした。
消去しましたが訂正します。



京で発生した「遊女かぶき」はまたたくまに江戸に入った(慶長10・1605年)。
江戸は城下町造成の真っ最中で、
あちこちに点在していた遊女屋が、
日本橋室町の元誓願寺前に強制移転させられたばかりだった。
吉原開基の立役者となる庄司甚内という男が遊女屋を代表して
幕府に傾城町の認可を申請した。
ところが普請でそれどころではない幕府はなかなか回答を出さない。
しびれをきらした甚内らは、暫定的な寄り合い世帯の遊女町を作った。

そして人寄せのために町内に舞台を造り、京で流行の「女かぶき」の一座を呼んだのだ。

※「遊女かぶき」と「女かぶき」の違いは、遊女屋の経営か否かだけで
 実態は同じだ。遊女かぶきのスターが独立して一座を結成したものを
 女かぶきと称する。

 〓 〓 〓

 
 photo by 和尚

遊女かぶき

2014-12-14 | 三田村鳶魚を読む
京で発生した「遊女かぶき」はその名のとおり遊女によるかぶき踊りで、
六条柳町の遊女屋の主、林又一郎のひらめきで生まれたものだ
(慶長・1596~1615年・初期)。

当然のことだが、四条河原のかぶき小屋は遊女の張り店となり、
舞台も衣裳も目一杯豪華で非日常の心ときめく空間となる。
客は夢見心地で舞台で踊る遊女を品定めして、夜の部へと流れていく。

これが大当たりし、遊女かぶきが各地に伝播した。
大名旗本から裕福な町民、はてはやんごとなきお方にいたるまで、
遊女かぶきにうつつを抜かし、男どもの淫行が目に余るようになった。
お上はこれは由々しきことと、遊女かぶきを禁止するのだ。

 〓 〓 〓

 

芸者と役者

2014-12-13 | 三田村鳶魚を読む
本来の「芸者」という言葉のルーツは人形芝居にあるようで、
当時は人形遣いを「役者」といい、浄瑠璃の太夫を「芸者」と称していたらしい。

歌舞伎の方では芝居の他に諸方の屋敷へ召され、
舞や所作事などの舞踊をする役者(つまりは踊子)を「芸者」といい、
芝居にしか出ず、狂言のみで所作をしない者を「役者」といって区別していたそうだ。

歌舞伎よりも人形芝居の方が発生が先行しており、
権門貴顕などでは彼らを屋敷に呼んで鑑賞するのが習わしだったわけだから、
後発の歌舞伎でも初期の頃はそれに倣っていたのだろう。

歌舞伎もいつしか「芸者」と「役者」の線引きが曖昧となり、
「芸者」という言葉が「役者」に吸収合併され、「役者」一本になったのだという。

かくして「芸者」という言葉が歌舞伎から消えたが、
舞踊を専らとする役者、つまり「踊子」が「芸者」であることは紛れもない事実である。

 〓 〓 〓
 
 

武芸者

2014-12-12 | 三田村鳶魚を読む
こんにちいうところの「芸者」という言葉は武士の世界にもあった。
それは「武芸者組」といわれるもので、
弓・馬・槍・剣・鉄砲などの武道の達人集団だ。

寛政(1789~1801)の頃までは石高の多い諸大名は
おのおの「武芸者組」という組織を持っていたのだそうだ。
「武芸者組」の「武」をはぶいて「芸者組」、さらに略して「芸者」と称していたそうだ。

「武芸者」はいつしか武士階級から消え失せ、
「芸者」という言葉が花柳界に残った。

戦のない泰平の世が続くにつれ、
武芸も次第に形骸化していったのだろう。


 〓 〓 〓

 
 photo by 和尚