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西園寺由利の長唄って何だ!

長唄を知識として楽しんでもらいたい。
軽いエッセイを綴ります。

時代のテンポ・9

2021-09-02 | よもやま話 (c)yuri saionji
上方は当道の本拠地でもあるので、始めのうちは三味線にも制約をかけていたのだろう、
表芸の琵琶でも晴眼者が弾いたり教えたりすることが禁じられていた。
だから人形浄瑠璃などへは当道の法師が出張って弾いていたし、
遊里にも出向いていた。

大阪の歌舞伎に三味線が使われ出したのは1672年頃からで、
それまで当道の厳しい制約下にあった三味線が、この頃から民間に解放されたと考えられる。
それでも始めの頃はやはり法師が出向いていたのだろう、
今も「芝居歌」という歌舞伎音楽が地歌にはたくさん残されている。

    
    三味線入り人形浄瑠璃  
    語りは座本の晴眼者、三味線は法師が弾いている

時代のテンポ・8

2021-09-01 | よもやま話 (c)yuri saionji
猿若座の「今様長歌三味線」が殊の外ヒットをしたもので、
勘五郎のもとには森田座から出演の依頼が来たり、
市村座に吉之丞を貸し出したりするようになりました。
そうこうするうちに勘五郎の門弟が増え、好んで杵屋の姓を名乗る者が現れたりして、
江戸の歌舞伎小屋はどこも三味線を入れるようになるのです。
かくして杵屋勘五郎は「江戸男歌舞伎今様長歌三味線始祖」といわれるようになりました。

やがて江戸の「今様長歌三味線」は
大阪の大和屋甚兵衛座に初上陸します(1683年)。
そして若衆方で売り出し中の水木辰之助が
初めて長歌の地(じ・伴奏)で踊ったのが「槍踊」です。

槍踊というだけあって今までよりリズミカルになった。

   
   水木辰之助の槍踊

時代のテンポ・7

2021-08-31 | よもやま話 (c)yuri saionji
猿若座の三味線入り歌舞伎は大当たりとなり、
喜三郎は祖父の名を継いで、二世勘五郎となりました(1642年頃)。
そして役者にも三味線を弾かせ、連れ三味線を打ち出しました。

その後長男(4代目六左衛門)・次男(5代目喜三郎)・三男(吉之丞)にも三味線を弾かせ、
それまでは弾き唄いだったものを舞台映えを考えてか、唄と三味線に分業し、
「今様長歌三味線」と銘打って売り出したのです(1663年)。

佐山検校がいつ江戸に下ったかは不詳だが、この頃ではないだろうか。
佐山検校創作の長歌は「当風長歌」といわれ大流行したのだから、
勘五郎がそれに乗っかり、今流行りのという意味で、「今様長歌」と称したとしても不思議はない。

    
    猿若狂言ノ古図

時代のテンポ・6

2021-08-30 | よもやま話 (c)yuri saionji
若衆歌舞伎で初めて三味線を弾いたのは、
狂言師杵屋勘五郎の孫、喜三郎です。

猿若勘三郎率いる猿若座が京から江戸に下った当初は、
当時江戸の繁華街だった中橋南地(今の京橋辺り)に櫓を上げたのですが、
その後旧吉原近くの禰宜町(ねぎまち・日本橋堀留町辺り)に移転させられました。

喜三郎はおそらくここで遊女の弾く三味線小歌に感化され、
狂言小歌に三味線を合わせて弾き始めたのだろうと思われます。

これが評判となったため、勘五郎は喜三郎を狂言方から三味線弾きに転向させ、
三味線入り若衆歌舞伎を売り出すことにしたのです(1633年)。

   
   若衆歌舞伎図

時代のテンポ・5

2021-08-29 | よもやま話 (c)yuri saionji
もちろん遊女は遊女歌舞伎の時代から舞台で三味線を弾いていいますが
それは石村検校の本手組から派生した、遊里独自の三味線小歌というものです。

六条柳町の遊女雲井が、巷で流行っている小歌に三味線の伴奏をつけて
歌い始めた「弄斎・ろうさい」というのがその始まりです(元和頃・1615年〜)。

弄斎は京の遊里で大流行し、京遊女の江戸下りで吉原にも大流行、
それが「江戸弄斎」といわれて京に逆輸入され、洛中に大流行したのです。
後に柳川検校が三味線組歌に取り入れ、さらに後に八橋検校が箏曲「雲井弄斎」に取り入れるなど、
「弄斎」は元禄(1688〜)頃まで流行したという。

    
島原遊郭