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CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

十日戎

2017年01月13日 05時42分21秒 | 神戸情報
2017年1月9日、奈良の明日香村に行く時に阪神電車の神戸三宮駅で
西宮神社の十日戎の展示とポスターを見つけました。(下の2枚の写真)





そこで十日戎に関連する写真をまとめて紹介します。
えびす神社は全国各地に約3500社ありますが、全国のえびす宮総本社が西宮市の
西宮神社になり、マグロの奉納や一番福のイベントなどが全国区で知られています。

十日戎は七福神の一人でもあるエビス様に商売繁盛を祈願する祭りで関西では
ほとんどの神社で1月9日、10日、11日に行われます。
商売繁盛のほかに無病息災、五穀豊穣、大漁なども祈願します。

私は今年は無病息災を祈願するためとしめ縄を燃やすため神戸市垂水の海神社に参拝
してきました。(2017-1-10)






上の3枚の写真は海神社の蛭子神社と説明看板


上の写真は七福神






上の3枚の写真はかわらけ割の祈願(本殿の裏側(北側))




上の2枚の写真は2017-1-11に参拝した生田神社の蛭子神社


上の写真は明石市の岩屋神社の初戎祭のポスター

関連ブログ:柳原蛭子神社

      兵庫七福神めぐり on 2013-1-4

       神戸七福神



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日本最古の大寺院 飛鳥寺 on 2016-10-6

2017年01月12日 18時18分36秒 | 奈良情報
2016年10月5日から7日まで2泊3日で奈良市と明日香村を散策し、
これまでに下記のブログを作成してきました。

明日香村の稲渕地区の棚田 on 2016-10-7

飛鳥川の飛び石(石橋) on 2016-10-7

明日香村祝戸地区にあるマラ石 on 2016-10-7

明日香村の飛鳥稲淵宮殿跡 on 2016-10-7

奈良ロイヤルホテル別館 中国料理 沙山華でのディナー on 2016-10-5

伝 飛鳥板蓋宮跡(乙巳の変の舞台)と蘇我入鹿の首塚 on 2016-10-6

明日香村 cafe ことだまでのランチ on 2016-10-6

まだ紹介していない箇所がいくつかありますので追加紹介していきます。
追加版の1回目で西大寺、2回目で秋篠寺、3回目で志津香でのランチ
4回目で春日神社、5回目で宇奈多理座高御魂神社、6回目で東院庭園、
第7回 造酒司の井戸、第8回 宮内省推定地、第9回内裏の井戸
第10回第2次大極殿跡と朝堂院跡、第11回キトラ古墳壁画体験館 四神の館
第12回 岡寺を紹介してきました。

しばらく中断していましたがまた再開します。

 第1回 西大寺 on 2016-10-5

 第2回  秋篠寺 on 2016-10-5

 第3回 志津香 公園店での釜飯のランチ on 2016-10-5

 第4回 春日大社 on 2016-10-5

 第5回 宇奈多理坐高御魂神社 on 2016-10-5

第6回 平城宮跡の東院庭園 on 2016-10-5

第7回 平城宮跡の造酒司の井戸

 第8回 平城宮跡の宮内省推定地

 第9回 平城宮跡 内裏の井戸 on 2016-10-5

 第10回 平城宮跡 第2次大極殿跡と朝堂院跡 on 2016-10-5

 第11回 キトラ古墳壁画体験館 四神の館 on 2016-10-6

第12回 岡寺 on 2016-10-6


今回(第13回)は2016年10月6日に訪問した日本最古の仏教寺院である 
飛鳥寺を写真紹介します。




飛鳥寺(安居院)の基本情報

 住所:奈良県高市郡明日香村飛鳥682 TEL:0744-54-2126
 宗派:真言宗豊山派 御本尊:飛鳥大仏(釈迦如来) 山号:鳥形山
 法号:法興寺、元興寺
 開基:蘇我馬子 推古4年(596)


飛鳥大仏





堂内での撮影がここでは珍しく許可されていて写真を撮れました。
観る角度で仏様の表情が変わるという解説があったので角度を変えて撮った
日本書紀の記述によれば、推古天皇13年(605)に推古天皇は皇太子(聖徳太子)、
大臣(蘇我馬子)=この時代天皇の命を受け治世した役職でおおまえつぎみと呼称、
諸王、諸臣に詔して、銅(あかがね)と繍(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立
を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。
そして、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという


鳥大仏は止利仏師が制作し、推古17年(609)に完成。
飛鳥大仏は15トンの銅と30Kgの金が使用された釈迦如来坐像
平安・鎌倉時代の火災で損傷、のちに補修されている。

飛鳥寺東門(入口)と説明板






飛鳥寺境内の建物

上の写真は飛鳥寺本堂 この中に飛鳥大仏が安置
ほぼこの位置に中金堂があったことが発掘調査の結果、判明している
現在の本堂は江戸時代の文政8年(1825)に建てられたもの。


上の写真は大師堂




上の2枚の写真は鐘楼とその説明板


上の写真は西門側から見た飛鳥寺の遠景

創建時の飛鳥寺



上の写真は現地の説明版による創建時の飛鳥寺(法興寺、元興寺)
寺域は東西約200m,南北約300mあった。百済から多くの技術者が呼ばれ、
瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わった。瓦を製作した集団はこの後、
豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていく。


上の写真は創建時の塔の心礎に関する現地の説明板


上の写真は創建時の飛鳥寺配置図
 出典:2016-12-19放送 BS-TBS にっぽん! 歴史鑑定 
             「蘇我入鹿暗殺事件」より

蘇我入鹿の供養塔









上の写真は蘇我入鹿の首塚供養塔(五輪塔)とその周辺の光景

飛鳥寺の発掘調査と槻の木広場

上の写真は飛鳥寺西門跡の発掘現場の説明板です。
飛鳥寺西方遺跡を発掘調査した明日香村教育委員会は、入鹿の首塚の西で
広範囲に広がる石敷き遺稿を検出した。飛鳥時代に「槻(つき)の木広場」
として知られていた。槻の木とは現在のケヤキのこと。
この場所で蹴鞠が行われ中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が出会った
場所として有名。


上の写真は飛鳥寺と「槻の木広場」
 出典:明日香村 飛鳥京絵図 部分







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薬師寺東塔 心柱立柱式 on 2017-1-9

2017年01月11日 06時31分32秒 | 奈良情報
約110年ぶりの解体修理が進む薬師寺東塔(国宝、高さ約34メートル)の心柱は
奈良文化財研究所の調査で最も外側の年輪が719年を示し、720年代に
伐採されたことが判明した。(2016-12-19に公表)これにより薬師寺東塔は
現在地に新築されたことが確定した。以前は藤原京にあった本薬師寺からの移設
の説もあったが明治時代から続く論議はこれで終止符がうたれたことになる。

上記の薬師寺東塔で2017年1月9日、心柱を据え直す「心柱立柱式」があった。
この様子は昨日(2017-1-10)の各新聞で報道されているとうりで、
約900人の参列者と村上太胤管主(たいいんかんす)らが般若心経の読経が響く中、
高さ約18メートル、重さ約4トンの心柱がクレーンで吊られ、工事関係者が紅白の
綱でゆっくりと引っ張って塔の中心に立てられた。


上の写真は朝日新聞(2017-1-10朝刊)の報道例

本ブログでは2012年6月7日に薬師寺に訪問した写真と藤原京の本薬師寺跡
(2016-12-22訪問)の写真紹介をします。






上の3枚の写真は薬師寺東塔が写っているもの(2012-6-7撮影)














上の写真は何故薬師寺東塔の修理が必要なのかを解説したパネル

薬師寺東塔の修理(2011年スタート)前の姿がないと寂しいので2013-10-11放送
のNHKテレビBS3のプレミアムアーカイブ(2008年放送の再放送)より

写真をピックアップ









上の5枚の写真は薬師寺東塔が写ったもの


上の写真は薬師寺の境内建物配置図




上の2枚の写真は再建前の薬師寺(東塔と仮本堂のみ)と再建に注力した高田管主


上の写真は薬師寺東塔の修理の必要性を解説される鈴木嘉吉さん


上の写真は大講堂&回廊再建後の落慶法要(2008-9-24)の様子








上の写真は本薬師寺(もとやくしじ)跡の看板の説明内容
最寄駅は近鉄畝傍御陵前で駅の東側にあります。








上の写真は本薬師寺東塔の礎石(2016-12-22撮影)








上の写真は本薬師寺跡の金堂付近の現況と礎石(2016-12-22撮影)


上の写真は史跡本薬師寺跡と書かれた石碑


境内に何気なく置かれた石仏の頭部分




上の写真は本薬師寺の西塔跡の遠景


本薬師寺はホテイアオイの時期が観覧の好機

関連ブログ:
  鎹(かすがい) 薬師寺の再建に関連して

  錦帯橋に使用された釘と鎹(かすがい)

  薬師寺伽藍の復元模型(佐倉の歴史博物館)

奈良薬師寺の食堂跡の発掘調査 By奈良文化財センター
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明王寺の追儺式 on 2017-1-4

2017年01月07日 05時29分46秒 | 神戸情報
2017年1月4日、明王寺の追儺式を見に行って動画と写真を撮って
きましたので紹介します。
過去の訪問記は下記のとおりでリンクしておきます。
明王寺の追儺式 on 2015-1-4

2014年1月4日の明王寺追儺式

明王寺の追儺式 on 2013-1-4

明王寺の追儺式 on 2012-1-4


まず、明王寺について簡単に説明します。

明王寺の基本情報
住所:神戸市垂水区名谷町1900  TEL:078-707-0163 
山号:龍華山(りゅうげざん)
宗派:高野山真言宗 御本尊:不動明王(菩提僧正作)    
開山:大同元年(806)厳賀(ごんが)上人


明王寺は高野山真言宗の古刹で、山号は龍華山です。
以下、明王寺が転法輪寺の山内の一坊であったとの説を前提に記しています。
大同元年(806)の創建で神戸市垂水区では最古の寺です。大同寺といっていました。
城天皇が即位の後、御病気になり、806年(大同元年)に在原行平が
平癒を祈願して建てた勅願寺であると伝えられています。
本堂の扉に皇室と徳川家の御紋があります。
小生の明王寺紹介のBlogで明王寺本堂の扉の写真を紹介をしています。
平安時代の、貞応二年(1223)まで神戸市垂水区のジェ-ムス山「千本カ原」に
あり千坊ケ谷廃寺として大規模な寺院で古代寺の瓦も出土されています。
その後旧明石郡垂水郷滑(なめら)村に移設されました。

前置きが長くなりましたがいよいよ14:27から追儺式の鬼踊りの前段で
追儺式にとっては重要な法要が始まりました。(下の動画)

明王寺の檀家は滑(なめり)と西名(にしみょう)の集落でした。
法要では滑と西名および本日参拝の皆様に対して五穀豊穣、家内安全、
商売繁盛、学業成就、等々の願いがこの地域の住民にもたらせるようにと
護摩祈祷されていました。


今回は子鬼、親鬼夫々8回の鬼踊りが行われますがその流れを時系列で
記載していきます。

参照した本
 1) 神戸市文化財調査報告書24 神戸の民俗芸能 垂水編 
      神戸市教育委員会 (1979)

 2) 神戸史談 212号(復興14号) 垂水転法輪寺・明王寺紀要
     松本楠夫著 (1957)

 3) 兵庫県民俗芸能誌 喜多慶治著 (1977)


① 14:39 子鬼の踊り(1回目)
   
   
   上の写真と動画で紹介

② 14:13 親鬼の踊り(1回目)
   太郎鬼 1匹による 走り(走り松明)の鬼踊り
   

③ 14:46 子鬼の踊り(2回目)

④ 14:49 親鬼の踊り(2回目)
   太郎鬼、次郎鬼、ババ鬼3匹の親鬼による鬼踊り

   

⑤ 14:54 子鬼の踊り(3回目)

⑥ 14:58 親鬼の踊り(3回目)
   2回目と同じ太郎鬼、次郎鬼、ババ鬼3匹の親鬼による鬼踊り
  

⑦ 15:04 子鬼の踊り(4回目)~15:21(6回目)

⑧ 15:07 親鬼の踊り(4回目)~15:23(6回目)
   鬼追いのハイライトである餅つきがある。

   4回目は太郎鬼が中央に立ち餅つきを3回行う
   5回目は次郎鬼が中央に立ち餅つきを3回行う
   6回目はババ鬼が中央に立ち餅つきを3回行う

  
   上の動画で4回目、5回目、6回目の餅つきの様子を紹介
   鬼の配置が3回とも変化しています。

⑨ 15:30 子鬼の踊り(7回目)
⑩ 15:33 親鬼の踊り(7回目)
    7回目は鬼及び出演者、招待者、僧侶などにより参拝者に対し
    ハナ、餅、ミカン、福銭が回廊より撒かれます。

⑪ 15:37 子鬼の踊り(8回目)

⑫ 15:40 親鬼の踊り(8回目)
    次郎鬼 1匹による鬼踊り

  ⑨⑩で餅などが撒かれるとと大半の参拝者は帰ってしまうようです。
   8回目の鬼踊りを見学する人は少ない


上の写真は明王寺本堂の平面図 (「上記の資料 1)のPage71)

概略の鬼の動きが理解できると思います。


上の写真は太郎鬼 右手に松明、左手に槌を持っています
浅緑色の鬼衣に 鬼綱を掛け藤蔓(ふじつる)の鬼絡み 足に7か所、腕に5か所
胴に3か所巻き


上の写真は昭和40年(1965)1月4日当時の明王寺 太郎鬼の面
鬼衣が以前はは茶色であったことが判ります
  出典:神戸女子大学 喜多文庫HP http://www.suma.kobe-wu.ac.jp/kita/index.html 

上の写真は次郎鬼 右手に松明 左手に斧を持っています。


上の写真はかっての次郎鬼の鬼面
 太郎鬼と同じ撮影日と出典


上の写真の中央がババ鬼 右手に松明 左手に鉾を持っています。


上の写真はかってのババ鬼の鬼面
  太郎鬼と同じ撮影日と出典  

昭和40年の鬼面の写真を見てきづいたのですが現在の太郎鬼と次郎鬼が鬼面を
新調した時期?から逆になっているのではないかと思います。



神戸では下記の9つの場所で実施されています。右記は2017年の実施月日です。

1.妙法寺  2017-1-3 15:00~
2.明王寺  2017-1-4 14:30~
3.転法輪寺 2017-1-7 14:00~
4.多聞寺  2017-1-5 14:00~
5.太山寺  2017-1-7 14:00~
6.勝福寺  2017-1-7 18:00~
7.性海寺  2017-1-9 13:00~
8.長田神社 2017-2-3
9.近江寺  2017-2-11 13:00~

詳細は下記サイトでまとめています。
神戸の追儺式  


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北野坂 栄ゐ田でのランチ on 2016-12-19

2017年01月06日 16時19分54秒 | 神戸情報
2016年12月19日、北野坂 栄ゐ田でいただいたランチを写真紹介します。

北野坂 栄ゐ田の基本情報

住所:神戸市中央区中山手通1丁目22−13 ヒルサイドテラス 5F
TEL:078-221-1608
料理ジャンル:和食
営業時間:11:30~13:30  17:30~22:00
休み:不定休

公式HP:http://kitanozakaeita.com/
スタッフブログ:http://www.kitanozakaeita.com/blog/
 定休日の情報はコチラ

当日いただいたのは栄ゐ田膳 1,500円





上品な味でVery Goodでした。 こちらも女性客が多い


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玉子焼(明石焼き)専門店 松竹 パピオスあかし店でのランチ on 2017-1-6

2017年01月06日 15時38分50秒 | 神戸市以外の兵庫県
本日(2017-1-6)、2016年12月1日に新装開店した「パピオスあかし」の
1階の玉子焼(明石焼き)専門店 松竹でいただいた玉子焼(明石焼)を
写真紹介します。

玉子焼 専門店 松竹(しょうちく)の基本情報

住所:明石市大明石町1-6-1 パピオスあかし 1F TEL:078-912-0091
営業時間:11:00~20:00  定休日:水曜日



上の写真が当日いただいた玉子焼(明石焼) 650円(税込)です。
創業以来、中のトロッとした食感で美味しくいただきました。
昨年12月21日に行った時は定休日で、今回初めて入ることができました。
行列のできる店としても有名。2016年12月2日の神戸新聞でも名前は
伏せられていましたが凄い行列ができていたとの記事がありました。



上の写真はお店の外観です。


上の写真はメニュー表です

パピオスあかしについて簡単に触れておきます。
2005年に撤退したダイエー跡に建設されていた明石駅前再開発ビルは
「パピオスあかし」と名称が決まり2016年12月1日、オープンした。
来年3月には124m高層マンションの入居が始まる。
1階から3階の飲食店や物販、医療機関など三十数店が12/1に開業し、
来年1月までに約60店舗になる予定。
パピオスと山陽明石駅や魚の棚商店街をつなぐ歩行者用デッキも通行可能と
なり、バス乗り場も再編される。魚の棚へのアクセスが便利になった。
(明石駅から330mあった距離が国道2号を跨ぐので信号待ちもなく210mに短縮)

施設棟は地下2階、地上6階建てで、明石市の施設としては、催しなどに
利用され12月9日に開業した2階の「市民広場」、さらに来年1月27日に
オープンする4階の「市民図書館」や、戸籍や国民健康保険などを扱う6階の
「総合窓口」5階に一時保育ルームなどがある。地下は駐車場となっている。

パピオスという名称は「パレス(殿堂)」と「ピアッツア(広場)」と推進
するという意味を込めた「押す」を組み合わせた造語である。


パピオスあかしの公式HPに詳しい情報が記載されていますのでリンクさせて
いただきました。
 https://papios.jp/
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ユネスコ文化遺産「山・鉾・屋台行事」33件の開催時期情報

2017年01月04日 13時18分29秒 | 有用な情報
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の補助機関は「京都祇園祭の山鉾行事」など
18府県33件の祭りで構成する「山・鉾・屋台行事」を無形文化遺産に登録された
とのニュースが昨年(2016)12月にあった。

この33件の行事の開催時期の情報が2017年1月1日毎日新聞の正月特集
の記事「日本八景」の中で書かれていましたので紹介します。(下に添付)



日本で21件目だそうである。そこで21件の無形文化遺産の一覧を以下に記す。

2008年記載
 01)・能楽
 02)・人形浄瑠璃文楽
 03)・歌舞伎

2009年記載
 04)・雅楽
 05)・小千谷縮・越後上布
 ・石州半紙((注)2014年に「和紙:日本の手漉和紙技術」として拡張記載)
 ・日立風流物(茨城) 今回「山・鉾・屋台行事」として拡張記載
 ・京都祇園祭の山鉾行事(京都) 今回「山・鉾・屋台行事」として拡張記載
 06)・甑島のトシドン(鹿児島)
 07)・奥能登のあえのこと(石川)
 08)・早池峰神楽(岩手)
 09)・秋保の田植踊(宮城)
 10)・アイヌ古式舞踊(北海道)
 11)・題目立(奈良)
 12)・大日堂舞楽(秋田)
 13)・チャッキラコ(神奈川)

2010年記載
 14)・組踊
 15)・結城紬

2011年記載
 16)・壬生の花田植(広島)
 17)・佐陀神能(島根)

2012年記載
 18)・那智の田楽(和歌山)

2013年記載
 19)・和食;日本人の伝統的な食文化-正月を例として-

2014年記載
 20)・和紙:日本の手漉和紙技術

2016年記載
 21)・山・鉾・屋台 (全国33箇所の山・鉾・屋台が含まれる)


上の写真は日本の代表的な祭りである祇園祭の山鉾巡行(2016-7-17撮影)

今後、33か所のうちいくつ見れるかは判らないができる限り多くの祭りを
見て回りたい。





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2017年1月1日の新聞各紙の一面記事

2017年01月03日 04時44分44秒 | Weblog
例年、1月1日に朝日、毎日、読売、日経、産経の5紙を購入しています。
上記新聞に神戸新聞を加えて夫々の新聞の一面記事の内容を記載します。

赤字はトップ記事

(1)日経新聞
   「当たり前」もうない 逆境を成長の起点に 30兆円覚醒 私たちの手で

   LNG、欧州大手と提携 東電・中部電、10社と交渉 調達コスト下げ

   NY株、年間2337ドル高

   春秋

(2)読売新聞
   中国、海底命名で攻勢 日本EEZ周辺など 申請50件 権益拡大図る

   懲役・禁錮刑を一元化 法務省検討 再犯防止へ教育充実

   秋篠宮さま「皇太子」待遇 特例法案 天皇退位後は「上皇」

   幸せな新年願い 八坂神社

   編集手帳

(3)産経新聞
   大阪万博関西一円で開催 健康拠点を会場に 京大iPS研や神戸医療産業都市

   天皇ご一家穏やかに新年

   陛下は無言で立ち上がられた 平成30年史① 第1部 皇室

   年のはじめに 編集委員長 石井聡 自ら日本の活路を開こう

   産経抄

(4)毎日新聞
   多文化主義に影 勢いづく白人優越論者 現場報告 トランプと世界

   「天皇意思」明記せず 特別立法 退位要件で政府方針

   希望を持って前へ 主筆 小松浩

   ビニールハウス犬と共に年越し 熊本地震 益城

   第58回毎日芸術賞

   余禄

(5)朝日新聞
   民主主義の試練 歴史の「断層」その先はく

   朝日賞 3氏1団体

   退位「陛下固有の事情」明記 政府検討 特例法で例外協調

   折々のことば

   天声人語

(6)神戸新聞
   神戸港開港から150年 再整備加速、行事多彩に

   県内上場企業4割賃上げ 本紙調査 17年、設備投資増は3割

   「民」活用 万能の薬か 都市首長力1 ハコモノ運営

   きょうの天気

   正平調


写真は新聞六紙の一面(部分)

過去の同じテーマのブログへリンク

 2016年1月1日の新聞各紙

 2014年4月5日の新聞各紙の一面記事

  2014年1月1日の新聞各紙

 2013年1月1日の新聞各紙の一面記事

 2012年1月1日 新聞各紙の一面記事


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歳末 新春に撮った神戸の風景

2017年01月02日 16時23分47秒 | 神戸情報
年末と新春に撮った神戸の風景を写真紹介します。


上の写真は歳末も餅つき大会 横尾リファーレにて(2016-12-28)


上の写真は年末(2016-12-29)に撮った長田神社の絵馬

 
上の写真は須磨 PATIOの迎春の飾りつけ(2016-12-31)


上の写真はJR元町駅の神戸港開港150年のカウントダウン時計(2017-1-1)


上の写真は元町通りの入り口の迎春飾り(2017-1-1)


上の写真はサンチカの正月飾り(2017-1-1)


上の写真は湊川神社の初詣 参拝風景(2017-1-2)




上の2枚の写真は生田神社の初詣風景(2017-1-2)


上の写真は2017年の干支の酉を形どった神戸花時計(2017-1-2)


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神戸開港150年 祝砲 「ロイヤル・サルート」 on 2017-1-1

2017年01月01日 17時02分22秒 | 神戸情報
2017年1月1日の正午より神戸開港150年の記念イベントの一つとして表題の神戸開港祝砲 「ロイヤル・サルート」のイベントがありました。1868年1月1日正午、神戸開港を告げる21発の王礼砲が神戸沖に停泊する外国軍艦より放たれました。この故事にちなみ21発の昼花火が新港第2突堤から打ち上げられました。動画で紹介します。1968年3月28日号のイラストレイテッド ロンドン ニュースが開港後、間もない神戸のイラストを掲載しており解説文もスケッチ及び解説文は英国海軍 F・J・パーマー中尉代理によるものでロドニー号(旗艦)、オーシャン号、バジリースク号、リナルド号、ラトラー号、コーモラント号、シルヴィア号、サーベント号、アドヴェンチュア号、サラミス号、マニラ号および砲艦スナップ号がハリー・ケッペル卿が指揮のもと2列に整列して21発の祝砲が放たれた。
アメリカ船4隻は英国艦船より海岸よりに投錨した。
祝砲の打ち上げられた場面のイラスト(下の写真)は海抜210mの山側(再度山か?)
から描かれた美しい港の光景である。
ハリー・パークス卿とイギリスの公使館員はオーシャン号に乗船している。






ハリー・パークス卿の Wikipediaによる解説
サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes、CGMG、KCB、1828年
2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間
駐日英国公使を務めた。
来日まで
イングランドのスタッフォードシャーの鉄工場主の長男として生まれる。
しかし少年期に父母が死去したため、1841年に2人の姉を頼って清(中国)のマカオ
に赴き中国語の勉強をするかたわら公的な仕事に従事した。
1840年に勃発したアヘン戦争を目撃、1842年のコーンウォリス号上での南京条約調印
にも立ち会った[1]。
1843年、15歳で広東領事館に採用され、翌1844年、厦門の領事館通訳となった
(この頃から領事ラザフォード・オールコックのもとで仕事をするようになった)。
1854年、厦門領事に就任。1855年、全権委員として英・シャム条約締結。
1856年、広東領事としてに介入。1860年9月、英仏連合軍の北京侵攻にあたり
全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳を務めたが、交渉中に清軍に拉致され翌10月まで
北京で投獄された。
長く中国で暮らして中国語に通じていたのが幸いし、日本公使に転任していた
オールコックに認められて、1864年には上海領事となった。


駐日英国公使
1865年(慶応元年)、前年の四国艦隊下関砲撃事件に際しての行動が英国政府の意に
沿わないとして解任されたオールコックの後任公使に任命され、横浜に到着した[2]。
幕府との交渉を開始するが[3]、当時将軍など幕閣の大半が第一次長州征討で江戸を
留守にしていたため、パークスは仏・蘭とともに連合艦隊(米国は代理公使のみの派遣)
を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷と交渉。
その結果、孝明天皇は条約勅許と関税率の改正は認めたが、兵庫開港は不許可とした
(兵庫開港要求事件)[4]。 家族を迎えるために上海に向かう途上、下関で長州藩の
高杉晋作・伊藤博文と会談した[5]。
1866年(慶応2年)、米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印。グラバーの仲介で
鹿児島を訪問、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)、その父・島津久光のほかに西郷隆盛・
寺島宗則と会見した[6]。第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと
共に、下関で長州藩の桂小五郎・伊藤博文らと、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、
両者の調停をはかるが失敗した。その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城らに
会った。年末、公使館を横浜から江戸泉岳寺前に移転した。
1867年(慶応3年)江戸で米価高騰による米騒動を目撃し、幕府にすすめて外国米の
輸入販売を許可する布告を発布させた。箱根に旅行。大坂で徳川慶喜に謁見する。
このとき徳川慶喜はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを
確約した。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最も
すぐれた人物」と語り絶賛した。敦賀視察[7]の後、大坂から海路で江戸に帰った。
イギリス海軍教官受け入れ準備のため軍艦奉行・勝海舟と交渉した。
軍艦スナップ号(後にバジリスク号)で箱館から日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を
視察した後に、長崎を経由し大坂に行った。イカルス号水夫殺害事件、
浦上信徒弾圧事件を知り、幕府に対してイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及、
当初は土佐藩の関与が疑われたため、徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉した。
夫人を伴い富士山に登った[8]。 兵庫開港・大坂開市に備え大坂に行った。
王政復古の大号令が出されたために京都を離れ大坂城に入った徳川慶喜に謁見した。
1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北、慶喜の大坂城脱出
を知った。幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。
神戸事件が勃発、アメリカ海兵隊・フランス水兵とともにイギリス警備隊を率い
備前藩兵と交戦した。兵庫に派遣されてきた新政府使節・東久世通禧と会談、
新政府の開国和親・条約遵守の方針を確認し、神戸事件についてもほぼ解決に至った。
公使団を説得し[9]、戊辰戦争への局外中立を宣言した[10]。
新政府の正当性を宣言するため各国外交団に明治天皇への謁見が許された[11]矢先に
堺事件がおきたが、同事件解決後に京都に行き、三条実美・岩倉具視などに会い、
天皇にも謁見した。
御所に向かう途中に一行は二名の暴漢に襲われた(パークス襲撃事件)。
襲撃者は護衛に撃退され、パークスは無事であったが、謁見は3日後に延期された。
新政府の東征軍が江戸に接近している頃に横浜へ戻り、横浜の治安維持にあたる一方、
慶喜処分案や江戸無血開城に影響を与えた[12]。大坂で天皇に謁見し新政府への
信任状を奉呈、諸外国では最初に新政府を承認した。
1869年、岩倉具視などとの会談でフランス・オランダとともに箱館を拠点とした
榎本武揚の軍勢を交戦団体と認めず、アメリカ・イタリア・プロシアと対立した。
岩倉具視と横浜駐留の英仏軍隊撤退問題など外交・内政について話し合った。
1871年、岩倉具視らと会見し、薩摩藩など諸藩の政府への不満の増大やそれに対処
するための御親兵設置・廃藩置県について話し合った。横浜駐留イギリス軍の大幅削減
を本国に提案し採用された。賜暇のためにアメリカ経由で帰国、アダムズが代理公使と
なった。賜暇休暇中にイギリス本国で対日外交について政府に意見具申した。
主な内容は、(1)岩倉使節団訪英にあたって日本に帰任しようとしていたアストンを
通訳として確保すること(2)日本の皇室用馬車を寄贈すべきこと(3)横浜駐留の
イギリス軍隊の撤退時期について(4)廃藩置県についての意見(5)東京麹町に恒久的な
イギリス公使館を設置すべきこと(6)公使館員・領事館員の待遇改善について
(7)日清修好条規について、などである。
1872年、訪英中の大使岩倉具視、駐英公使寺島宗則と会見し条約改正問題について
話し合った。[13]日本人留学生の教育や日本海軍の育成に関して尽力した。
グランヴィル外相と岩倉具視・寺島宗則の条約改正予備交渉に同席、日本での
キリスト教自由化・外国人の内地旅行自由化・治外法権撤廃・横浜駐屯イギリス軍撤退・
下関戦争償金などについて協議した。

1873年、日本に帰任した。

明治維新後は、日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献し、日本アジア協会の会長を務めている。ただし、条約改正問題では外務卿である寺島宗則に反対した。
コメント (2)
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