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神戸開港150年 祝砲 「ロイヤル・サルート」 on 2017-1-1

2017年01月01日 17時02分22秒 | 神戸情報
2017年1月1日の正午より神戸開港150年の記念イベントの一つとして表題の神戸開港祝砲 「ロイヤル・サルート」のイベントがありました。1868年1月1日正午、神戸開港を告げる21発の王礼砲が神戸沖に停泊する外国軍艦より放たれました。この故事にちなみ21発の昼花火が新港第2突堤から打ち上げられました。動画で紹介します。1968年3月28日号のイラストレイテッド ロンドン ニュースが開港後、間もない神戸のイラストを掲載しており解説文もスケッチ及び解説文は英国海軍 F・J・パーマー中尉代理によるものでロドニー号(旗艦)、オーシャン号、バジリースク号、リナルド号、ラトラー号、コーモラント号、シルヴィア号、サーベント号、アドヴェンチュア号、サラミス号、マニラ号および砲艦スナップ号がハリー・ケッペル卿が指揮のもと2列に整列して21発の祝砲が放たれた。
アメリカ船4隻は英国艦船より海岸よりに投錨した。
祝砲の打ち上げられた場面のイラスト(下の写真)は海抜210mの山側(再度山か?)
から描かれた美しい港の光景である。
ハリー・パークス卿とイギリスの公使館員はオーシャン号に乗船している。






ハリー・パークス卿の Wikipediaによる解説
サー・ハリー・スミス・パークス(Sir Harry Smith Parkes、CGMG、KCB、1828年
2月24日 - 1885年3月22日)は、英国の外交官で、幕末から明治初期にかけ18年間
駐日英国公使を務めた。
来日まで
イングランドのスタッフォードシャーの鉄工場主の長男として生まれる。
しかし少年期に父母が死去したため、1841年に2人の姉を頼って清(中国)のマカオ
に赴き中国語の勉強をするかたわら公的な仕事に従事した。
1840年に勃発したアヘン戦争を目撃、1842年のコーンウォリス号上での南京条約調印
にも立ち会った[1]。
1843年、15歳で広東領事館に採用され、翌1844年、厦門の領事館通訳となった
(この頃から領事ラザフォード・オールコックのもとで仕事をするようになった)。
1854年、厦門領事に就任。1855年、全権委員として英・シャム条約締結。
1856年、広東領事としてに介入。1860年9月、英仏連合軍の北京侵攻にあたり
全権大使エルギン伯の補佐官兼通訳を務めたが、交渉中に清軍に拉致され翌10月まで
北京で投獄された。
長く中国で暮らして中国語に通じていたのが幸いし、日本公使に転任していた
オールコックに認められて、1864年には上海領事となった。


駐日英国公使
1865年(慶応元年)、前年の四国艦隊下関砲撃事件に際しての行動が英国政府の意に
沿わないとして解任されたオールコックの後任公使に任命され、横浜に到着した[2]。
幕府との交渉を開始するが[3]、当時将軍など幕閣の大半が第一次長州征討で江戸を
留守にしていたため、パークスは仏・蘭とともに連合艦隊(米国は代理公使のみの派遣)
を兵庫沖に派遣し、威圧的に幕府・朝廷と交渉。
その結果、孝明天皇は条約勅許と関税率の改正は認めたが、兵庫開港は不許可とした
(兵庫開港要求事件)[4]。 家族を迎えるために上海に向かう途上、下関で長州藩の
高杉晋作・伊藤博文と会談した[5]。
1866年(慶応2年)、米仏蘭とともに幕府と改税約書に調印。グラバーの仲介で
鹿児島を訪問、薩摩藩主・島津茂久(島津忠義)、その父・島津久光のほかに西郷隆盛・
寺島宗則と会見した[6]。第二次長州征伐勃発直後、フランス公使レオン・ロッシュと
共に、下関で長州藩の桂小五郎・伊藤博文らと、小倉で幕府老中小笠原長行と会談し、
両者の調停をはかるが失敗した。その後、宇和島藩を訪問し、前藩主・伊達宗城らに
会った。年末、公使館を横浜から江戸泉岳寺前に移転した。
1867年(慶応3年)江戸で米価高騰による米騒動を目撃し、幕府にすすめて外国米の
輸入販売を許可する布告を発布させた。箱根に旅行。大坂で徳川慶喜に謁見する。
このとき徳川慶喜はまだ勅許を得ていなかったが、期限どおり兵庫を開港することを
確約した。パークスは、このときの慶喜の印象を「今まで会った日本人の中で最も
すぐれた人物」と語り絶賛した。敦賀視察[7]の後、大坂から海路で江戸に帰った。
イギリス海軍教官受け入れ準備のため軍艦奉行・勝海舟と交渉した。
軍艦スナップ号(後にバジリスク号)で箱館から日本海を南下し、新潟・佐渡・七尾を
視察した後に、長崎を経由し大坂に行った。イカルス号水夫殺害事件、
浦上信徒弾圧事件を知り、幕府に対してイカルス号水夫殺害事件の責任を厳しく追及、
当初は土佐藩の関与が疑われたため、徳島経由で土佐に赴き、主に後藤象二郎と交渉した。
夫人を伴い富士山に登った[8]。 兵庫開港・大坂開市に備え大坂に行った。
王政復古の大号令が出されたために京都を離れ大坂城に入った徳川慶喜に謁見した。
1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いの勃発、幕府軍の敗北、慶喜の大坂城脱出
を知った。幕府から各国外交団の保護不可能との通達があったため兵庫へ移動した。
神戸事件が勃発、アメリカ海兵隊・フランス水兵とともにイギリス警備隊を率い
備前藩兵と交戦した。兵庫に派遣されてきた新政府使節・東久世通禧と会談、
新政府の開国和親・条約遵守の方針を確認し、神戸事件についてもほぼ解決に至った。
公使団を説得し[9]、戊辰戦争への局外中立を宣言した[10]。
新政府の正当性を宣言するため各国外交団に明治天皇への謁見が許された[11]矢先に
堺事件がおきたが、同事件解決後に京都に行き、三条実美・岩倉具視などに会い、
天皇にも謁見した。
御所に向かう途中に一行は二名の暴漢に襲われた(パークス襲撃事件)。
襲撃者は護衛に撃退され、パークスは無事であったが、謁見は3日後に延期された。
新政府の東征軍が江戸に接近している頃に横浜へ戻り、横浜の治安維持にあたる一方、
慶喜処分案や江戸無血開城に影響を与えた[12]。大坂で天皇に謁見し新政府への
信任状を奉呈、諸外国では最初に新政府を承認した。
1869年、岩倉具視などとの会談でフランス・オランダとともに箱館を拠点とした
榎本武揚の軍勢を交戦団体と認めず、アメリカ・イタリア・プロシアと対立した。
岩倉具視と横浜駐留の英仏軍隊撤退問題など外交・内政について話し合った。
1871年、岩倉具視らと会見し、薩摩藩など諸藩の政府への不満の増大やそれに対処
するための御親兵設置・廃藩置県について話し合った。横浜駐留イギリス軍の大幅削減
を本国に提案し採用された。賜暇のためにアメリカ経由で帰国、アダムズが代理公使と
なった。賜暇休暇中にイギリス本国で対日外交について政府に意見具申した。
主な内容は、(1)岩倉使節団訪英にあたって日本に帰任しようとしていたアストンを
通訳として確保すること(2)日本の皇室用馬車を寄贈すべきこと(3)横浜駐留の
イギリス軍隊の撤退時期について(4)廃藩置県についての意見(5)東京麹町に恒久的な
イギリス公使館を設置すべきこと(6)公使館員・領事館員の待遇改善について
(7)日清修好条規について、などである。
1872年、訪英中の大使岩倉具視、駐英公使寺島宗則と会見し条約改正問題について
話し合った。[13]日本人留学生の教育や日本海軍の育成に関して尽力した。
グランヴィル外相と岩倉具視・寺島宗則の条約改正予備交渉に同席、日本での
キリスト教自由化・外国人の内地旅行自由化・治外法権撤廃・横浜駐屯イギリス軍撤退・
下関戦争償金などについて協議した。

1873年、日本に帰任した。

明治維新後は、日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献し、日本アジア協会の会長を務めている。ただし、条約改正問題では外務卿である寺島宗則に反対した。
コメント (2)
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明けましておめでとうございます 2017年元旦

2017年01月01日 04時47分56秒 | Weblog

明けましておめでとうございます。

 本年もよろしくお願い致します。


          2017年 元旦


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