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神戸南京町での春節祭 on 2017-1-28

2017年01月28日 17時16分57秒 | 神戸情報
2017年1月28日(土)の神戸南京町での春節祭の様子を写真紹介します。

今年も春節祭の季節がやってきました。
旧暦で節句を祝う中国では、旧暦のお正月を「春節」として盛大に祝います。



上の2枚の写真は関帝廟から関帝さまがここ南京町に出張安置されています。




上の2枚の写真は関帝さま解説文と供物の解説です。

関帝廟のこと  陳舜臣が解説されていますので引用紹介します。
 関帝廟に祀られている三国志の英雄関羽は蜀の皇帝劉備に仕えた人物で、
この世においては「皇帝」でもなんでもなかった。それなのに中国の人たちは、
彼を記念する廟を立て、彼を「関帝」とあがめた。
 関羽が武運拙く津水のほとりで敗死したのは、建安二十四年(二一九)の十二月
であった。関羽と戦った呉の総帥呂蒙は、その直後に公安という所で病死している。
呉の副将孫咬も関羽の死から一カ月たたぬうちに死んだ。
関羽の首級が呉の同盟軍の曹操のところに送られたのは翌年の正月であり、
曹操が六十五歳で洛陽で病死したのは、おなじ日であった。
『三国志演義』では、呂蒙も曹操も関羽の怨霊にとりつかれて死んだことになっている。
 こんなことから、関帝廟は鎮魂のための「杜」であるとする説が有力だが、
では怨霊を鎮めるのは、なぜ関羽かという問題が残る。史上、おびただしい人が
恨みをのんで死んでいる。たとえば屈原などはその代表的な人物であろう。
 しかし、この世に怨念をもった悲劇的な武将として、最もよく知られたのは
なんといっても関羽である。さらに関羽には、「誠実」という、まことに人間的な
面があった。ついには敵となった曹操にも、恩義をうけたことがあり、
立ち去るときに、義理堅く恩返しをしている。この信義に厚いことが、関帝さまが
商売人に崇拝される一因だという人がいるのだ。契約すれば、どんなことが
あってもそれを守る。関羽の義理堅さは、じつは商人だけに必須のものではない。
学問であれ、役人であれ、技術者であれ、信義は厳に守るべきなのだ。
ただ関羽の故郷の解県は、塩の産地で、全国から塩商が集まる。
そんなことで商人と縁が深かったのであろう。
 一般には関公と呼ばれたが、宋代に武安王に加封され、そのころから彼を
祀るところは、関王廟と呼ばれるようになった。
明の万暦は二十二年(1594)、協護国忠義大帝に追封された。
関帝廟という名はそれ以後である。


リーフレットからの引用ですが神戸の関帝廟の生い立ちについて下記をご参照下さい。
1888(明治21)年、「慈眼山長楽寺」として誕生
 関帝廟は、俗に「南京寺」とも呼ばれますが、その正式寺名は「慈眼山長楽寺」。
 1888年(明治21年)4月、大阪府布施市にあった長楽寺が廃寺になるのを、
現在の神戸市中央区中山手通7丁目53-1に移し、関帝、十一面観音、天后聖母を
まつりました。これが関帝廟の始まりとされています。
 それまでも、神戸に住む華僑の人々の間では関帝が信仰の対象として
まつられてはいましたが、ここに中国の伝統寺院としてひとつに統合され、
以後華僑たちの心の拠り所となったのです。
 長楽寺は、中国福建省の高僧である隠元禅師が、時の徳川幕府より許しを得て
宇治に建立した黄栗宗の大本山・萬福寺につながる寺で、初代住職には
長崎聖福寺より松井宗峰師が迎えられました。
 現在はどの宗派にも属さず、関帝廟として独立した寺院となっています。


2014年8月23日(土)に関帝廟で開催の普度勝会の行事を観ていますので
リンク紹介(小生のブログ)しておきます。
 神戸 関帝廟での普度勝会 on 2014-8-23


関連ブログ:関帝廟 on 2007-10-20








上の4枚の写真は横浜中華街の関帝廟と現地説明板 撮影:2014-3-14




上の写真は本日(2017-1-28)の南京町 9時20分頃
10時からイベントが始まるので人出は少ない




上の写真は獅子舞 採青(祝儀とり)
 15時ころ元町6丁目にて 

獅子舞の演技を動画でも紹介します。演技は中華総会の皆様






 
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