朝寝のカプ

ネコは夜行性
そのため朝は食事の後
すぐに眠くなる
人間と同じか

榴岡と榴ヶ岡、どちらが正解か

2022-12-26 04:56:39 | 日記
街歩きを趣味とは言わないが運動を兼ねて社会観察に出かける。自分で立てた目標は7000歩。普通に歩く生活では3000歩がせいぜい、意識すると7000歩を超える。ただ歩くだけではもったいないということでスマホで興味関心のあるものを撮影する。かつても気になっていたのが、街で見かける地名。この近所では二通りの表示がある。

「榴ヶ岡」とケがない「榴岡」だ。ケはツツジの場合は「ツツジが咲いている岡」の意味だろう。古くからの石碑などはケがあるものが多い。一方現代というか最近ではケがない表記が多くなっているようだ。

考察すると「ケ」も文字の発生過程を見るとケのカタカナ表記に似た文字からできたようで次第にケで簡略化されているようだ。ケがあるなしでは気にする髪の薄い人には意地悪な見方になるかもしれないがこれを物事の考えるきっかけにしたら髪は伸びるカモ・・・いやいや余計なことでした。
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天上天下唯我独尊の日々

2022-12-25 06:46:57 | 日記
今週でこの一年が終わる、。いつもながらだが早いものだと溜息。ハーっと息を吐くと幸運がすべて逃げていきそうだ。そこで慌てて息をのむというわけだ。今年は4月からは毎日の自由人になり24時間フリーとなる。6月には思わぬ入院生活を送りアルコール抜きの生活、自転車こぎのリハビリを経て生還という普段は経験できない生活を送る。

          (どこに向かうか 道しるべを探す)

さて、あと一週間、掃除もしなくちゃなあ、不要物の整理もなど頭の中を様々な思いが巡るが行動に移すには思いっきりが必要。踏ん切りがつかない。まああと一週間だなと余裕しゃくしゃく?

まずは行動予定と当面の目標をを定めて新年を迎えようと思い直す。

       押しつまり 寒さの中で 身を縮め (駄作)
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一本の木に見る歴史

2022-12-24 05:03:10 | 日記
先日多賀城を訪れた話は2回にわたって書いた。今、南門の建設工事で槌音が聞こえるそんな一日だった。歌枕にも読まれ古来文人墨客が数多く来訪したこの遺跡、まだ見ぬ地への憧憬にも似た感情が次第に郷愁や懐かしさなどに変化していく。そんなことを考えながら政庁跡からふもとの方向に下りてくると一本の木に出会った。

この木の幹には札がぶら下げられていて、その内容は以下の様だった。多賀城桜のタイトルで、105年の年月が経つという。多賀城市内で一番早く咲くとも書かれていた。春まではまだ時間があるが多賀城南門の工事進捗状況を確認しながら桜の開花状況を確かめに来てみようかなと思ったヒトトキだった。

自分の足で史跡を散策しながら往時をしのぶのもまた楽しかりけり。そんな午前のことだった。それにしても誰がこの札をぶら下げたのか、手書きの文字に行政ではない住民か散策好きの多賀城史跡ファンかなと想像を豊かにした時間でもあった。
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多賀城碑の謎

2022-12-23 05:08:07 | 日記
昨日に続いて多賀城の話だ。電車で出かけるのに距離的にそんな遠くもなく、まあフラット出かけるにはいい距離かなと思う。目的は多賀城碑と呼ばれるどっしりとした石碑だ。現在建設中の南門のすぐ近くにそれは存在する。タカさ3メートルほどの覆堂の中に保存され、格子戸の隙間からその内部を見ることができる。2m弱のどっしりとした石だ。奈良時代の石碑で国の重要文化財に指定されている。

石碑の盤面の上には西という大きな文字が刻まれその下には141文字が彫られている。そして多賀城までの各地からの距離が書かれている。この中には中国大陸の靺鞨(まっかつ)という国名もある。つまり多賀城にその地が知られていたことや多分何らかの交流があったのではないかと考えることができる。この他この石碑を大野朝臣東人によって建てられたことなどが記されている。天平宝字6年(762)とも彫られている。江戸時代には松尾芭蕉もこの碑を訪れていて奥の細道にも書いています。

壺の碑とも呼ばれていますが、実は青森県には坂上田村麻呂が石に日本中央と刻んだ石碑もあり、近くに都母(つぼ)という地名もあります、こちらが「壺の碑」ではないかという説もあります。私は仕事でこの石碑も見ることができました。今では文字もかすれてあまりはっきりしていませんが日本中央という考え方から見ると当時の北海道や北方領土などを考えるとあながち誇大妄想ともいえないような気もしたから不思議です。多賀城碑をしばらくぶりに訪れ悠久の時の流れを改めて感じさせられ多ひとときでした。
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多賀城南門の復元工事進む

2022-12-22 05:13:43 | 日記
体調もまずまずの晴天の日、急遽、多賀城を訪れることにした。車がないのでJRでの小さな旅となる、多賀城には仕事で何度も行っている。JRが便利だが目的地が定まっている時は東北線か仙石線か事前に決めて出かけた方がいい。今、多賀城は南門の復元工事が進んでいる。

多賀城の城の正面に建つ門で政府の偉容を蝦夷に見せつけるような構えの門だ。工事は順調だろうか、白いシートに覆われている現場ではトンテンカンと槌音が響いていた.計画より少し遅れているかもしれない。順調なら2024年公開予定で、はてさてどうだろうか。多賀城創建1300年を目指しているようだ。南門は高さ14mの二重門で4m余りの築地米も作られている。


かつて蝦夷の首領、阿弖流為(あてるい)が朝廷側に騙されて京都に連れ去られ殺害されるという歴史もある。北辺の守り多賀城跡を通して東北の真の歴史を改めて考えるきっかけにこの多賀城南門の建設工事がなればいいなあと思って現場を後にした。多賀城の関連はまた書くことにしよう。



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