今回はフグです。場所は西橋洞。相手は韓国出版界の長老で,この11年間,公私ともにお世話になった方です。
「ここのフグの姿蒸しは,この店にしかなくてね。日本からのお客さんを連れてくると,とても喜ぶんですよ。日本ではこんなの見たことないといって」
セリともやしの上に,ドンと置かれたフグのまるごと一尾。迫力ものです。それを,ニンニク,ネギ入りさっぱりポン酢でいただく。とても贅沢な料理です。
韓国でフグと言えば,メウンタン(辛い鍋)にするのが普通。でもあんなふうに辛くしちゃうと、せっかくのふぐの味がひきたたない。テグタン(タラの鍋)と区別がつきません。
日本風のふぐの店も少数ながら存在し、やはりこの方にご馳走になったのですが,在日韓国人が韓国で開いたフグ料理屋がある。フグのフルコース(刺身,天ぷら,ふぐちり,その他ふぐ料理+ヒレ酒飲み放題),しめて13万ウォン。韓国の一人前の料理の価格としてはとびきり高いですが,日本の高級フグ屋に比べれば割安。
実は,私の祖母の妹が嫁に行った先が,有名なフグの料亭。しかし,せっかく親戚にそういう店があるのに,一度も連れていってもらったことがない。
「親戚だから安くしてもらいたがってると思われるのは嫌だからね」
と祖母。人生40年で,本格的なフグ料理を口にしたのは,ソウルが初めてでした。
「もう来年は,私も80ですよ」
日帝時代に日本語で教育を受けた世代だけに,日本語は流暢なものです。
「仕事は息子に任せ,最近は仕事抜きで日本に行くことが多くなりました。私の日本の知り合いもみな,引退してね」
老人は,朝鮮戦争では白将軍の配下で北と闘い,戦後は出版界に。東亜出版社が韓国初の大型百科事典を編纂するときに,責任者を務めた。
当時の韓国には,独自に百科事典を作る実力がない。ちょうど,日本のブリタニカが,本場のブリタリカを翻訳し,日本的な項目だけを書き起こすというやり方で作ったのと同じように,小学館のジャポニカ百科事典を翻訳したのです。
実は,当時の韓国は国際著作権条約に加盟していなかったので,海賊版を出そうと思えば出せた。しかし,彼は正式に小学館に申し入れ,きちんとお金を払って翻訳権を得,図版データも譲り受けた。
そのことがきっかけで,日本の出版社の間で信用を勝ち得,その後は韓国最大のエージェント会社を設立することになる。その後,金星出版社の「国語大辞典」や,小学館「朝鮮語辞典」(金星出版と共同編纂)も手がけました。
「今は東亜も金星も苦しいです。東亜なんて,ビール会社の傘下ですからね」
インターネット時代に入り,日本も韓国も出版界が苦しいのは同じ。
「最初にお会いしたのは,94年ですね」
「はい,私が出張したときです。あのときは,Eさんにお世話になりました」
「Eね。彼には裏切られました。息子が台湾に留学していたときに面倒を見てやって,帰って来てからも就職先がないというのでうちに入れてやり,仕事も教えたのに…」
E氏はその後,自分の顧客データをもって独立し,今や韓国第二のエージェントに。韓国ではこういうことがよくあります。やはり血のつながりのない人は信用できないということで,会社の幹部は身内で固めています。
「こんどまた,機会がありましたら日本でお会いしましょう」
思い出話に花を咲かせたあと,再会を期してチャッピョルインサ(作別人事=別れの挨拶)をかわしたのでした。
「ここのフグの姿蒸しは,この店にしかなくてね。日本からのお客さんを連れてくると,とても喜ぶんですよ。日本ではこんなの見たことないといって」
セリともやしの上に,ドンと置かれたフグのまるごと一尾。迫力ものです。それを,ニンニク,ネギ入りさっぱりポン酢でいただく。とても贅沢な料理です。
韓国でフグと言えば,メウンタン(辛い鍋)にするのが普通。でもあんなふうに辛くしちゃうと、せっかくのふぐの味がひきたたない。テグタン(タラの鍋)と区別がつきません。
日本風のふぐの店も少数ながら存在し、やはりこの方にご馳走になったのですが,在日韓国人が韓国で開いたフグ料理屋がある。フグのフルコース(刺身,天ぷら,ふぐちり,その他ふぐ料理+ヒレ酒飲み放題),しめて13万ウォン。韓国の一人前の料理の価格としてはとびきり高いですが,日本の高級フグ屋に比べれば割安。
実は,私の祖母の妹が嫁に行った先が,有名なフグの料亭。しかし,せっかく親戚にそういう店があるのに,一度も連れていってもらったことがない。
「親戚だから安くしてもらいたがってると思われるのは嫌だからね」
と祖母。人生40年で,本格的なフグ料理を口にしたのは,ソウルが初めてでした。
「もう来年は,私も80ですよ」
日帝時代に日本語で教育を受けた世代だけに,日本語は流暢なものです。
「仕事は息子に任せ,最近は仕事抜きで日本に行くことが多くなりました。私の日本の知り合いもみな,引退してね」
老人は,朝鮮戦争では白将軍の配下で北と闘い,戦後は出版界に。東亜出版社が韓国初の大型百科事典を編纂するときに,責任者を務めた。
当時の韓国には,独自に百科事典を作る実力がない。ちょうど,日本のブリタニカが,本場のブリタリカを翻訳し,日本的な項目だけを書き起こすというやり方で作ったのと同じように,小学館のジャポニカ百科事典を翻訳したのです。
実は,当時の韓国は国際著作権条約に加盟していなかったので,海賊版を出そうと思えば出せた。しかし,彼は正式に小学館に申し入れ,きちんとお金を払って翻訳権を得,図版データも譲り受けた。
そのことがきっかけで,日本の出版社の間で信用を勝ち得,その後は韓国最大のエージェント会社を設立することになる。その後,金星出版社の「国語大辞典」や,小学館「朝鮮語辞典」(金星出版と共同編纂)も手がけました。
「今は東亜も金星も苦しいです。東亜なんて,ビール会社の傘下ですからね」
インターネット時代に入り,日本も韓国も出版界が苦しいのは同じ。
「最初にお会いしたのは,94年ですね」
「はい,私が出張したときです。あのときは,Eさんにお世話になりました」
「Eね。彼には裏切られました。息子が台湾に留学していたときに面倒を見てやって,帰って来てからも就職先がないというのでうちに入れてやり,仕事も教えたのに…」
E氏はその後,自分の顧客データをもって独立し,今や韓国第二のエージェントに。韓国ではこういうことがよくあります。やはり血のつながりのない人は信用できないということで,会社の幹部は身内で固めています。
「こんどまた,機会がありましたら日本でお会いしましょう」
思い出話に花を咲かせたあと,再会を期してチャッピョルインサ(作別人事=別れの挨拶)をかわしたのでした。
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